「ありがとう」

「ロ……ロシュの気持ち……?」

「そうだ!」


 ジャゴじいさんのりがやむ。その顔にいっぱいの脂汗あぶらあせが浮いていた。息が切れている。


「このロシュネールはな……お前がゴーダム公のところに行ってから、ずっとさびしがっていたんだ! こいつはかしこい馬だ……自分がもう長くないってわかってたさ。だからお前が帰ってくるのを待ってた。一日も早く会いたい、自分が生きているうちにってな」


 ひざくだけたようにジャゴじいさんがわらの上に座り込む。手をばし、ロシュネールの顔に触れた。


「毎日毎日、起き出してはこいつは南の空をながめていた。お前を背に乗せて思いっきり走りたい、そう思いながらな……ワシも気をかせて、こいつをお前のところに連れて行ってやればよかった……。悪いことしたなぁ、ロシュネール」


 でる。額から鼻先までを。

 痛む体をひねり、ニコルもあお向けになった。座る気力は――まだ、ない。


「この一ヶ月、ほとんどこいつは死にかけていたんだ。明後日あさって、明日、もしかしたら今日――いつ死んでもおかしくない様子だった。ずっと寝ていたからな。そうしたら、お前が帰ってきたんだ。お前――昨日、お前と会ったこいつがどれだけ喜んでいたか、忘れてないだろ」


 忘れるわけがない。体の全部を使って喜びを表していたロシュの姿。


「生きてる間にお前が帰ってきてくれた。お前を背に乗せられる、走れる。思いっきり二人でけられる――ここから出て行く元気さも、ワシには信じられなかった。もう、歩くのさえガタが来てたのに。走ったろ、こいつ」

「……速かった、すごかった。今まで、経験したことがないくらいに……」


 今から思えば、あれは奇跡だったのだろうか。そうでなければ夢だとしか思えない。

 でも、あの速さは夢ではなかった。ほおで、髪で、体で感じる実感があった。


「一度でいい、心ゆくまでお前と走れたら、こいつに思い残すことなんてなかったんだ。死んでもかまわないと思ってたろう……ニコル、わかってるのか? お前はな、その願いをかなえてやったんだぞ!! こいつをしあわせにしてやったんだ! なのになんであやまったりする!」


 再び怒気どきが混じる。声に熱が帯びられる。


「ロシュネールの奴が心から感謝しているのに、お前が泣きながら謝ってみろ! ロシュネールがどういう気持ちになる! こいつはな、お前を謝らせるために走ったんじゃねぇ!! そんな、馬の気持ちもわからん奴が騎士だと!? 笑わせるな! 騎士は馬と生きるもんだろうが!」


 馬、騎士。

 言葉が矢となってニコルの胸に刺さる。


「今すぐゴーダム公の所に行ってこい! 僕には騎士になる資格はありません、返上しますってな! どうせあれだろ、お前にとっては騎士になることなんて、リルルの嬢ちゃんと結婚するための手段でしかないんだろ! 騎士になってなにをしたいとか、一度でも考えたことがあるのか!」

「それは――」


 いわれて、ニコルは腹をえぐられた。返す言葉がない。全くその通りだったからだ。


「よかったな! もうリルルの嬢ちゃんと結婚できる目なんかねぇ。騎士になるなんて無意味だ! やめろ、やめちまえ! お前のようないい加減な考えのガキが騎士になるなんて、世間の迷惑めいわくだ! ――そもそもだ、お前、自分がどれだけ他人に迷惑かけているのか、わかってねぇだろ!」


 言葉のムチが振るわれる。蹴られていた方がよほどマシな打撃が次々に来る。


「誰もがお前を好きになる。人のためになることをやるからな――でもな、それは他人を思いやっての行動じゃねぇ! お前の規範きはんが、たまたま他人のために重なってるだけだ!」


 ジャゴ爺さんの言葉が顔に、胸に、心にぶつかる。反論できない。しようがない。全て正しすぎたからだ。


「お前は、人の考えはわかっても、人の気持ちなんて全然わからねぇ。見てないからな! 向こうでもどれだけ女を泣かせてきた! 全く気づいてないだろう!」


 覚え……わからない。でも、思い当たるふしはある。

 サフィーナお嬢様。ずっと自分を見てきて想いを寄せていたといっていた――寝耳に水だった。確かにサフィーナお嬢様とは触れあうことがそれなりにあった。話をすることだって毎日のようだった。

 なのに。


「……お前は、そんな馬鹿野郎なんだよ……ちっとは思い知ったか……まったく……」

「……ジャゴ爺さん」

「……ロシュネール、お前がれてるニコルを、お前の目の前でなぐる蹴るしてすまんな。でも、こうでもしないと、こいつは気が付かないんだ。すまん、すまんな……ロシュネール……ワシをうらまんでくれよ……」


 もうなにもこたえないロシュネールの顔をでながら、いつしかジャゴ爺さんも泣いていた。ニコルに殴打おうだを加えていたのと同じ人間とは思えないほどに、その体が小さくなっていた。


「……ジャゴ爺さん、ごめんなさい。ロシュ……ありがとう。ありがとう。僕を待っていてくれて、ありがとう。間に合ってよかった……本当によかった……」


 ニコルもロシュネールの側に体を寄せる。代わるようにジャゴ爺さんが立ち上がった。ズボンにはさんでいたハンチングぼうを、目深まぶかかぶって顔を隠そうとする。


「ロシュ……僕の大好きなロシュ。向こうで待っててね。いつか僕もそっちに行くから。そうしたら、また一緒に早駆はやがけしよう。楽しみにしているから……」


 ああ、だから、夢の中でロシュは来てくれたんだ。

 最後の――この世での最後の、お別れに。


「……ニコル、お前には悪い……こくなことなんだがな」


 目を合わせてそれをいう勇気がないのか、ジャゴ爺さんの顔はニコルの方を向いていなかった。


「ロシュネールの亡骸なきがらだがな……つぶすことになるぞ」


 潰す。その響きにニコルの心臓がねた。だが、一度だけだ。制御できる。

 

「……食肉業者しょくにくぎょうしゃに、持って行かせるっていうことだね」

「そうだ。病気で死んだわけじゃないからな。老衰ろうすいだ」


 二人、重い口でその事実をみしめた。


「ワシももう、ロシュネールが死んだら貸し馬屋を廃業はいぎょうするつもりだった。今だってもう、ひまつぶしでやっていたようなもんだからな……だが、最後の始末しまつだけはしなきゃならん」

「……病気で死んだ馬以外は、全部食肉業者で潰す……」


 経験はある。幼いころにジャゴ爺さんの手伝いをしていたころ、そしてゴーダム公での騎士見習い時代。幾多いくたの馬と出会い、幾多の馬との死別しべつがあった。その彼らの亡骸の行方は、ほとんどが――。


「それが、馬のおかげで食ってる者の仁義じんぎだ。……ワシも正直、したくない。だがな、馬をあつかって今まで食って来た以上、最後までそれを通さなきゃいかん。他人がからんでいるなら、なおさらだ。……ニコル、わかってくれるか」

「……ロシュはジャゴ爺さんの馬だもの。僕が口をはさめることじゃない……」

「潰すのは、ロシュネールの亡骸に過ぎん。……ニコル、ロシュネールのたましいはお前に預ける」


 ジャゴ爺さんが道具箱から大きなハサミを手にした。ロシュネールの長い尻尾しっぽを根元から断ち切り、一枚の大きな白い紙でそれを包んだ。


「持ってけ。あと、ロシュネールの名前札ネームプレートだ」


 ロシュネールの首にかけられていた、金属プレートに型取りできざまれた黄銅色おうどうしょくの名前札が外される。ジャゴ爺さんの手から、それがニコルの手に渡された。


「……いいの? 僕が持っていて」

「こいつはぬしのワシがいるのに、お前がいないと寂しがる奴だ。お前が持っているのが道理だろ。……なぁ、ロシュネール。お前もニコルと一緒にいたいよな」


 ジャゴ爺さんが首筋のたてがみを撫でた――ロシュネールがうなずいたようにニコルには見えた。


「……ニコル、すまんな……痛かったろ」

「全然。……昔のジャゴ爺さんの折檻せっかんの方が効いたよ。ジャゴ爺さん、年取ったね……」

「当たり前だろ、もう七十に届くジジイだぞ。――五十年やってきたジャゴの貸し馬屋も、今日で終わりだ。今まで何百頭の馬と付き合って、それだけの死を見てきたがな……こいつほど幸せな顔をして死んだ馬はいなかった。ニコル、お前のおかげだ」

「……そうか……」


 ニコルはロシュネールの鼻に自分の鼻を寄せた。冷たい。温めてやらないと……。


「ロシュ、君はしあわせだったんだね」


 強い風が厩舎きゅうしゃに吹き込んで来る。ロシュのたてがみが大きく揺れた。


「……ワシは、こいつを運んでもらう手配をしてくる」

「いいの? まだ真夜中なのに……」

「相手も早ければ早い方がいいんだよ……ワシらも、冷たいこいつとずっといるのはツラいしな……ニコル、最後の面倒だ。こいつについてやっていてくれ」

「うん」


 ジャゴ爺さんが背を向けて歩き去る――その背中が、この十数分で一気に歳を取ったようにニコルには見えた。



   ◇   ◇   ◇



 まだ朝になる気配もないというのに、ランプを下げた荷車にぐるまが現れた。

 ジャゴ爺さんに並んだ小柄な男と、身長がニコルの二倍ほどはありそうな巨人鬼オーガが二人、計四人が車が立てる音を殺すようにして夜の街をやってきた。


「すまんな、こんな真夜中に」


 オーガを引き連れた男は、表情のない顔を静かに横に振る。ジャゴ爺さんとは……馴染なじみの男だ。ニコルもその顔を覚えていた。死んだ馬を引き取りにくるのはいつもこの男だった。


「ワシの最後の馬だ。思い入れがあってな……最後は仕方ないが、それまではなるべく丁寧ていねいに扱ってくれ。……これは手間賃てまちんだ」


 三枚の紙幣しへいを取り出し、ジャゴ爺さんはそれぞれに手渡した。


「……わかりました。丁寧に扱います」

「頼む。……ニコル、ロシュネールに最後のキスをしてやれ」

「うん」


 夜風の冷たさをもろともしない赤肌の巨大なオーガ。彼らがふたりがかりで抱えようとしたロシュネールの亡骸にニコルが歩み寄り、その頭に手をえた。

 これが、ロシュネールに触る最後だ。


「……ロシュ、待っててね。ありがとう」


 ロシュネールのくちびるにそっと、口づける。

 ――夢の中のロシュネールの面影おもかげが、胸によみがえった。


「やってくれ」


 食肉業者の男が無言でうなずき、オーガたちに合図をする。二百カロクラムは優にあるはずのロシュネールが簡単に持ち上げられ、音もしないように、本当に丁寧に荷台にせられた。

 亡骸を載せた荷車がオーガたちにかれてゆっくりと動き出し、去って行く。まるで葬式そうしき――いや、葬式そのものだった。


「ニコル、お前、どうすんだ……」


 寂しい葬列そうれつが闇の向こうに消えて行ったのを見送り、ジャゴじいさんが顔を上げた。同じ方向を見つめ続けていたニコルも、口の中でつむいでいた祈りの言葉をめる。


「どうするんだって……ジャゴ爺さんもわかってるよね」

「やめないのか」

「ロシュに笑われたくないからね」


 ロシュネールがこの世を去ることで、教えられたこと。それが少年の背筋を伸ばしている。こいつ、昨日よりも背が高くなった――ジャゴ爺さんはそんな錯覚さっかくを覚えていた。


「僕、いい騎士になるよ。――リルルのこととは、関係なく」

「そうか」

「まだわからないことだらけだけど、がんばってみる」

「お前の人生はまだ始まったばかりなんだ。途中で思い通りにいかないとかなんていうのは、誰もが経験することなんだ。ヤケを起こすんじゃないぞ」

「うん」


 悲しみの中に、死者がのこしてくれた大事なものの存在を握りしめることができ――ニコルの目は晴れていた。


「勉強しろ。学べ。……お前なら、きっといい騎士になる」


 キツいことをして、すまなかったな――ジャゴ爺さんの目がそういっていた。


「ありがとう。僕、今日、やっと本当に大人になれたような気がする」

「歳を取るだけで大人になれたら、これほど簡単なことはないからな……」


 二人、ロシュネールが消えた方向に向かってもう一度、小さく頭を下げた。

 遠くで、なつかしいいななきが響き渡るのを二人、聞いたような気がした。



   ◇   ◇   ◇



「ただいま、母さん」


 東の空がしらみ始めたころに帰ってきた息子を、寝ずに待っていた母――ソフィアが、出迎でむかえるために椅子いすから立ち上がった。


「ニコル……」


 ジャゴ爺さんから大まかなこと――ロシュネールが朝までもたないこともふくめて知らされていたソフィアの顔が、不安に染まっている。愛馬あいばを失った息子がどうなるのか。

 そんな母に、ニコルは微笑ほほえみを返した。


「大丈夫だよ、母さん。ロシュをちゃんと送ってきたから」

「……そうかい。ニコル、えらいね、お前は……」

「偉いのはロシュさ。僕にたくさんのことを教えてくれた。そして、これからも教えてくれるよ、きっと」

「……そうだね、賢い馬だったからね……ニコル、明日の予定は……」

「警備騎士団の編入へんにゅう式を欠席するわけにはいかないよ。ちゃんと行く」

「ああ、そうだね。そうだね……」


 息子の沈んでいない様子に、母は胸を撫で下ろすだけだった。


「僕、今日一日は家から出ずに、ふくすから。たのみ事すると思うんだ」

「ああ。なんでもいいな……なるべく声をかけないようにするからね」

「ありがとう」


 ニコルは自室に戻り、そのまま寝台ベッドに入った。仮眠程度の短い睡眠すいみんを取る。

 その後、太陽が昇ってきたころに起き出し、母にいくらかの買い物を頼み、何通もの手紙を書く。ゴーダム公をはじめ、ゴッデムガルドの知人たちに無事到着したことの報告がおもだ。


 そして、母に買ってもらった細いくさりを、ジャゴ爺さんからゆずってもらったロシュネールの名前札に取り付ける細工さいく仕事で夕方までの時間を過ごした。


「……できた」


 親指ほどの広さしかない名前札。細くとも頑丈がんじょうな鎖に両端を固定され、鎖の反対の端を、サフィーナからさずけられた満月の首飾りにつながっている鎖につなげる。


 ニコルの首元に輝く、黄金の満月のプレート。そのやや下で、黄銅色おうどうしょくの名前札がり下げられていた。服の中にもぐったそれを上から押さえる。ロシュネールの体温を感じた気がした。


「これでいつでも一緒だよ、ロシュ。――遠くから、いつでも僕を見守っていてね」


 ロシュネールの尻尾を窓の上に飾る。ロシュネールの体がのこした唯一ゆいいつのもの。馬の尻尾を窓の上にかざれば、窓から入り込む邪悪なものを払う――そんな願掛がんかけに従って。


 日も暮れきれないうちに、ニコルは寝台に入った。寝台の側のたなには、ゴッデムガルドを旅立つ時に幼い少女・コノメからもらった女の子の人形が置かれている。コノメは男の子の人形を送ってほしいといっていた。今度の休日に、探さないと――。


「さみしくないよ、ロシュ。おやすみ……みんな……」


 心は安定している。朝が来るまで、長い眠りにつけそうだ。

 朝を迎えたら、身を清めて、自分はそれから……。


「おやすみ……サフィーナお嬢様、ロシュ、リルル……」



   ◇   ◇   ◇



『――ニコル、がんばってね。

 わたしは、いつでもあなたを見守っているわ。

 ……だから、負けないでね――』

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