「ありがとう」
「ロ……ロシュの気持ち……?」
「そうだ!」
ジャゴ
「このロシュネールはな……お前がゴーダム公のところに行ってから、ずっと
「毎日毎日、起き出してはこいつは南の空を
痛む体をひねり、ニコルも
「この一ヶ月、ほとんどこいつは死にかけていたんだ。
忘れるわけがない。体の全部を使って喜びを表していたロシュの姿。
「生きてる間にお前が帰ってきてくれた。お前を背に乗せられる、走れる。思いっきり二人で
「……速かった、すごかった。今まで、経験したことがないくらいに……」
今から思えば、あれは奇跡だったのだろうか。そうでなければ夢だとしか思えない。
でも、あの速さは夢ではなかった。
「一度でいい、心ゆくまでお前と走れたら、こいつに思い残すことなんてなかったんだ。死んでもかまわないと思ってたろう……ニコル、わかってるのか? お前はな、その願いをかなえてやったんだぞ!! こいつをしあわせにしてやったんだ! なのになんで
再び
「ロシュネールの奴が心から感謝しているのに、お前が泣きながら謝ってみろ! ロシュネールがどういう気持ちになる! こいつはな、お前を謝らせるために走ったんじゃねぇ!! そんな、馬の気持ちもわからん奴が騎士だと!? 笑わせるな! 騎士は馬と生きるもんだろうが!」
馬、騎士。
言葉が矢となってニコルの胸に刺さる。
「今すぐゴーダム公の所に行ってこい! 僕には騎士になる資格はありません、返上しますってな! どうせあれだろ、お前にとっては騎士になることなんて、リルルの嬢ちゃんと結婚するための手段でしかないんだろ! 騎士になってなにをしたいとか、一度でも考えたことがあるのか!」
「それは――」
いわれて、ニコルは腹をえぐられた。返す言葉がない。全くその通りだったからだ。
「よかったな! もうリルルの嬢ちゃんと結婚できる目なんかねぇ。騎士になるなんて無意味だ! やめろ、やめちまえ! お前のようないい加減な考えのガキが騎士になるなんて、世間の
言葉のムチが振るわれる。蹴られていた方がよほどマシな打撃が次々に来る。
「誰もがお前を好きになる。人のためになることをやるからな――でもな、それは他人を思いやっての行動じゃねぇ! お前の
ジャゴ爺さんの言葉が顔に、胸に、心にぶつかる。反論できない。しようがない。全て正しすぎたからだ。
「お前は、人の考えはわかっても、人の気持ちなんて全然わからねぇ。見てないからな! 向こうでもどれだけ女を泣かせてきた! 全く気づいてないだろう!」
覚え……わからない。でも、思い当たる
サフィーナお嬢様。ずっと自分を見てきて想いを寄せていたといっていた――寝耳に水だった。確かにサフィーナお嬢様とは触れあうことがそれなりにあった。話をすることだって毎日のようだった。
なのに。
「……お前は、そんな馬鹿野郎なんだよ……ちっとは思い知ったか……まったく……」
「……ジャゴ爺さん」
「……ロシュネール、お前が
もうなにも
「……ジャゴ爺さん、ごめんなさい。ロシュ……ありがとう。ありがとう。僕を待っていてくれて、ありがとう。間に合ってよかった……本当によかった……」
ニコルもロシュネールの側に体を寄せる。代わるようにジャゴ爺さんが立ち上がった。ズボンに
「ロシュ……僕の大好きなロシュ。向こうで待っててね。いつか僕もそっちに行くから。そうしたら、また一緒に
ああ、だから、夢の中でロシュは来てくれたんだ。
最後の――この世での最後の、お別れに。
「……ニコル、お前には悪い……
目を合わせてそれをいう勇気がないのか、ジャゴ爺さんの顔はニコルの方を向いていなかった。
「ロシュネールの
潰す。その響きにニコルの心臓が
「……
「そうだ。病気で死んだわけじゃないからな。
二人、重い口でその事実を
「ワシももう、ロシュネールが死んだら貸し馬屋を
「……病気で死んだ馬以外は、全部食肉業者で潰す……」
経験はある。幼いころにジャゴ爺さんの手伝いをしていたころ、そしてゴーダム公での騎士見習い時代。
「それが、馬のおかげで食ってる者の
「……ロシュはジャゴ爺さんの馬だもの。僕が口を
「潰すのは、ロシュネールの亡骸に過ぎん。……ニコル、ロシュネールの
ジャゴ爺さんが道具箱から大きなハサミを手にした。ロシュネールの長い
「持ってけ。あと、ロシュネールの
ロシュネールの首にかけられていた、金属プレートに型取りで
「……いいの? 僕が持っていて」
「こいつは
ジャゴ爺さんが首筋のたてがみを撫でた――ロシュネールがうなずいたようにニコルには見えた。
「……ニコル、すまんな……痛かったろ」
「全然。……昔のジャゴ爺さんの
「当たり前だろ、もう七十に届くジジイだぞ。――五十年やってきたジャゴの貸し馬屋も、今日で終わりだ。今まで何百頭の馬と付き合って、それだけの死を見てきたがな……こいつほど幸せな顔をして死んだ馬はいなかった。ニコル、お前のおかげだ」
「……そうか……」
ニコルはロシュネールの鼻に自分の鼻を寄せた。冷たい。温めてやらないと……。
「ロシュ、君はしあわせだったんだね」
強い風が
「……ワシは、こいつを運んでもらう手配をしてくる」
「いいの? まだ真夜中なのに……」
「相手も早ければ早い方がいいんだよ……ワシらも、冷たいこいつとずっといるのはツラいしな……ニコル、最後の面倒だ。こいつについてやっていてくれ」
「うん」
ジャゴ爺さんが背を向けて歩き去る――その背中が、この十数分で一気に歳を取ったようにニコルには見えた。
◇ ◇ ◇
まだ朝になる気配もないというのに、ランプを下げた
ジャゴ爺さんに並んだ小柄な男と、身長がニコルの二倍ほどはありそうな
「すまんな、こんな真夜中に」
オーガを引き連れた男は、表情のない顔を静かに横に振る。ジャゴ爺さんとは……
「ワシの最後の馬だ。思い入れがあってな……最後は仕方ないが、それまではなるべく
三枚の
「……わかりました。丁寧に扱います」
「頼む。……ニコル、ロシュネールに最後のキスをしてやれ」
「うん」
夜風の冷たさをもろともしない赤肌の巨大なオーガ。彼らがふたりがかりで抱えようとしたロシュネールの亡骸にニコルが歩み寄り、その頭に手を
これが、ロシュネールに触る最後だ。
「……ロシュ、待っててね。ありがとう」
ロシュネールの
――夢の中のロシュネールの
「やってくれ」
食肉業者の男が無言でうなずき、オーガたちに合図をする。二百カロクラムは優にあるはずのロシュネールが簡単に持ち上げられ、音もしないように、本当に丁寧に荷台に
亡骸を載せた荷車がオーガたちに
「ニコル、お前、どうすんだ……」
寂しい
「どうするんだって……ジャゴ爺さんもわかってるよね」
「やめないのか」
「ロシュに笑われたくないからね」
ロシュネールがこの世を去ることで、教えられたこと。それが少年の背筋を伸ばしている。こいつ、昨日よりも背が高くなった――ジャゴ爺さんはそんな
「僕、いい騎士になるよ。――リルルのこととは、関係なく」
「そうか」
「まだわからないことだらけだけど、がんばってみる」
「お前の人生はまだ始まったばかりなんだ。途中で思い通りにいかないとかなんていうのは、誰もが経験することなんだ。ヤケを起こすんじゃないぞ」
「うん」
悲しみの中に、死者が
「勉強しろ。学べ。……お前なら、きっといい騎士になる」
キツいことをして、すまなかったな――ジャゴ爺さんの目がそういっていた。
「ありがとう。僕、今日、やっと本当に大人になれたような気がする」
「歳を取るだけで大人になれたら、これほど簡単なことはないからな……」
二人、ロシュネールが消えた方向に向かってもう一度、小さく頭を下げた。
遠くで、
◇ ◇ ◇
「ただいま、母さん」
東の空が
「ニコル……」
ジャゴ爺さんから大まかなこと――ロシュネールが朝までもたないことも
そんな母に、ニコルは
「大丈夫だよ、母さん。ロシュをちゃんと送ってきたから」
「……そうかい。ニコル、
「偉いのはロシュさ。僕にたくさんのことを教えてくれた。そして、これからも教えてくれるよ、きっと」
「……そうだね、賢い馬だったからね……ニコル、明日の予定は……」
「警備騎士団の
「ああ、そうだね。そうだね……」
息子の沈んでいない様子に、母は胸を撫で下ろすだけだった。
「僕、今日一日は家から出ずに、
「ああ。なんでもいいな……なるべく声をかけないようにするからね」
「ありがとう」
ニコルは自室に戻り、そのまま
その後、太陽が昇ってきたころに起き出し、母にいくらかの買い物を頼み、何通もの手紙を書く。ゴーダム公をはじめ、ゴッデムガルドの知人たちに無事到着したことの報告が
そして、母に買ってもらった細い
「……できた」
親指ほどの広さしかない名前札。細くとも
ニコルの首元に輝く、黄金の満月のプレート。そのやや下で、
「これでいつでも一緒だよ、ロシュ。――遠くから、いつでも僕を見守っていてね」
ロシュネールの尻尾を窓の上に飾る。ロシュネールの体が
日も暮れきれないうちに、ニコルは寝台に入った。寝台の側の
「さみしくないよ、ロシュ。おやすみ……みんな……」
心は安定している。朝が来るまで、長い眠りにつけそうだ。
朝を迎えたら、身を清めて、自分はそれから……。
「おやすみ……サフィーナお嬢様、ロシュ、リルル……」
◇ ◇ ◇
『――ニコル、がんばってね。
わたしは、いつでもあなたを見守っているわ。
……だから、負けないでね――』
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