「牛乳のよくある悲劇」

 リルルとフィルフィナは、いったん屋敷に戻った。

 昨日からまる一日、なにも食べていなく空腹が痛いくらいだったが、不思議に食べたいと思う気持ちがわかなかった。


「私、この格好で行くの?」

「わたしが快傑令嬢の仲間だということはもう知れてますからね」


 快傑令嬢としての正装である薄桃色のドレス、真っ赤な大きな薔薇バラの花を象った帽子、そして赤いフレームのメガネを身につけたリルルが居心地悪そうに体をひねる。

 戦いに行くのならば高揚感も生んでくれる装いだが、日常の中では違和感しかなかった。


「では、行きましょうか」


 姿見として置かれている、縦長の大きな鏡の前に立つ。その鏡にフィルフィナは手の平を乗せた。

 ぴちゃん、と音が聞こえてきたのかと錯覚するように、鏡の表面が波打った・・・・。フィルフィナがさらに手を押し込む。鏡が澄み切った水面のようにフィルフィナの腕を沈めた。

 フィルフィナの体が鏡の中に吸い込まれて潜っていき、ドアをくぐるような気楽さでその姿が完全に消えた。鏡に波紋が広がる様が、水に潜っていくようなものに錯覚させてくれた。


 リルルも無言で続く。フィルフィナと同じように左手を鏡に這わせた。同じように鏡がわずかに波打つ。

 硬く、なにものも通さないはずの鏡に潜ろうとするのは何回やっても慣れなかったが――リルルは、緊張の中で意を決して体を押し込んだ。


 まさしく水面を通り抜ける感触が体の全部をなぞり上げ――目の前の光景が一変した。


「ん……!」


 窓から明るい陽光が差し込んでいた部屋から、一転、薄暗くかび臭い廃工場に景色が変わる。

 直通の転移装置となっている、壁に貼り付けられた大きな鏡から抜け出て、リルルは昨日も訪れた秘密のアジトに視線を走らせた。


 元は金属かなにかの加工工場であった建物だ。もう錆びきって使い物にならない設備が放置され、蜘蛛くもが好き放題に白い糸の巣をそこかしこに張りまくっている。


「ほ……捕虜はどこにいるの?」

「奥で縛りつけています」

「そ、そう」


 縛りつけているのだから噛みついてきはしないだろうが、今までそんなものをとったことのないリルルの腰は完全に引けていた。どんな風に接したらいいのかまるでわからない。


「これから尋問をするんですが……その前に、必要なことがありますね」

「な……なに?」

「近くでごはんでも、買ってきましょう」

「……はい?」


 ごはん、という日常の言葉にあっけにとられて、リルルは思わず口を開けていた。


「はい、ごはんです。みんな、お腹が空いているでしょうからね」



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 捕虜は奥の部屋で、壁を這う鉄パイプの一つに頑丈な縄で腕ごと縛りつけられていた。

 覆面ははがされている。年の頃は三十半ばだろうか。一見すれば、誘拐に手を染めるような荒くれ者には見えない。どこかの工場の労働者といわれれば、一言で納得するかも知れない容貌だ。


 上半身は首以外全く動かないように固定されていた男が、部屋に入ってきた二人の人影に気づいてうなだれていた顔を上げる。

 憔悴しょうすいしきった瞳に、二人の少女が映った。


「な……んだ、お前ら……」


 声が枯れている。力を込めるのもつらいのか。

 そんな捕虜の前にフィルフィナが立つ。


「元気がないようですね」

「……たり、まえだ……飯抜きの上に、水も飲ませないとか……」

「申し訳ありません。あなたにかまってる暇がなくて。こちらも色々と忙しかったのですよ。では、今から食事にしますね」


 部屋の隅にあった壊れかけたテーブルに、リルルが紙袋に入っている食べ物を並べる。豚肉とキャベツのみじん切りを混ぜ込んだ小麦生地のクレープ、同じ生地を特別な鉄板で焼き上げた、一つ一つが小さなボール状の玉焼き。中に小さなタコが入っているやつだ。


 袋を開けた途端にソースの匂いが部屋いっぱいに広がった。リルルの空腹にそれは容赦なく突き刺さり、恥ずかしいくらいに胃を軋ませてきゅるると鳴る。


「いただきます」

「おい!」


 テーブルについて六等分に切りそろえられたクレープを食べ始めた二人に、捕虜が声の限りを振り絞った。


「俺の分は!」

「あるわけないでしょう」


 フィルフィナの目が『なにをいってるんですか?』と語っていた。


「どうしてあなたに無駄飯召し上がっていただかないといけないんですか。匂いだけでも分けてあげますからありがたいとお思いになってください」

「くっ……くっそう……!」


 わざわざ用意した扇でフィルフィナは匂いを送る。ただでさえ強く伝わってくる、きつい香辛料の香り。それが狂おしいくらいに食欲を刺激した。


 可哀想だな、と内心で思いつつリルルはタコ入りの玉焼きをひとつ、口の中に入れた。さっくり焼き上げられた表面を歯が割ると、熱い中身がとろりと口の中に零れて広がってくる。青のりの塩気が利いていて実に美味い。


「まあ、わたしたちの食事が終わるまで待っていてください」

「俺を……俺をどうする気だ!」

「さあ、それはまだ決めかねてます」


 口元についたソースを拭いながらフィルフィナはいう。一切をフィルフィナに任せる気になったリルルは、多少の同情を捕虜に送りながらそれを見守るだけだ。


「ここでこのまま日干しになってもらうというのもありですかね」

「おっ……お前らー!」

「わたしたちのお腹が落ち着いたら、相手してあげますから」

「せ……せめて、水、水だけでも……!」

「これですか?」


 フィルフィナが瓶入りの牛乳を示す。よく冷やされていたのか、表面が汗のようにびっしりと水滴を張り付かせていた。


「美味しいですよ、この牛乳は」

「の……飲ませてくれ、もう、喉が、カラカラで……」

「乾いた喉には最高ですからね、これ」


 瓶の蓋を開ける。男の目に期待の色が浮かんだ――のを確認してからフィルフィナは、鮮やかな仕草でそれを口につけ、上に傾けて一気に飲み干した。

 少女の喉がごく、ごく、ごくと鳴る度に、男の顔に拭い去れない悲痛が浮かんだ。


「まあ、わたしとしたことがはしたないことを。ああ、美味しかった」

「がぁ……!」


 捕虜の顔に絶望の色が浮かぶ。その目の端から涙が零れていた。


「――冗談ですよ、まだ牛乳はあります」


 フィルフィナの手にもう一つの瓶が握られていた。


「さあ、これで乾きを癒やしてください」


 男の脚に蹴られない横の角度から近づき、フィルフィナは男の目の前で瓶の蓋を開ける。脂肪分の匂いが男の鼻孔をくすぐった。冷気が顔に伝わる。

 配管に縛りつけられた男が限界まで首を伸ばし、フィルフィナは男の口にその瓶を近づけて――。


「あら」


 男の口がつく直前で、傾ききった瓶から牛乳が滝のように零れて落ちた。男が舌まで伸ばすが一滴もその口には入らない。


「これはとんだ粗相そそうを。ああ……一本分無駄にしてしまいました。これ、結構高価たかい牛乳ですのに」

「てめぇ……!」


 男が唾をフィルフィナに吐きかけようとして――一滴さえ出ない。わずかな息が出るだけだった。


「もう本当に乾ききってるようですね?」

「も……もう、絶対に飲ませないつもりなんだな……!」

「どうしてあのリルル・ヴィン・フォーチュネット嬢を誘拐しようとしたのか、正直に話したら飲ませてあげますよ」


 三本目の牛乳を男の前に置く。


「最初から標的をあのお嬢さんに定めていたようですね」

「違う……いい馬車に乗ってるから、金持ちの貴族だと思って、俺たちは……」

「ご禁制の拳銃まで用意しておいて、計画的な誘拐であることはわかってるんですよ」


 男の顔が引きつる。


「怖い依頼主がいるから話せない、といった感じですね」

「――そんな奴はいねえ……俺たちは」

「いっておきますが、その依頼主よりわたしの方が怖いですよ」


 フィルフィナが取り出した拳銃の銃口が、ぴたり、と男の側頭部に当てられ、れきった男の喉がひっ、と引きつった。


「今度はちゃんと弾丸が入っていますからね」

「ちくしょう! どうせ、吐いたって俺を殺す気なんだろう! 誰が、誰がしゃべるか!」

「――飲ませてあげて!」


 リルルが動いた。このままでは本当にフィルフィナが引き金を引いてしまいかねないと思ったからだ。


「いくらなんでもイジメ過ぎだわ。牛乳くらい飲ませてあげて」

「ですが……」

「今、飲ませてあげるから。そうしたらちゃんと話して……ね?」


 フィルフィナの難しい表情を無視し、男に駆け寄ったリルルは膝をついて男の前で牛乳の瓶の蓋を取り払った。男の顔に喜色が浮かぶ。


 牛乳の瓶を男の口につける。そのまま瓶を上に傾け――たが、その角度がいけなかった。


「あっ」


 必要以上に首を伸ばした男の顔でリルルの手元が狂う。思わぬ角度に瓶が傾けられた。

 飲み込めないほどの量の牛乳が男の口の中に入りこみ、それを気管に入れてしまった男が反射的な反応を示す。


 目を剥いた男の鼻と口から、口の中で逆流した白い液体が勢いよく噴出された。


「きゃぁぁぁっ!」


 不幸にもその直撃を浴びてリルルは仰け反る。眼前から噴き出したものを避ける間もなく顔に浴びたのだ。


「拭くもの、拭くもの持ってきて!」

「――あーっ!!」


 男が上げたすっとんきょうな声にリルルが目を瞬かせる。やわらかい布を抱えて戻ってきたフィルフィナも、顔と体の前面を牛乳で濡らしたリルルの姿を見てその目を大きく開けていた。


「お前……お前、俺たちがさらおうとした伯爵令嬢じゃねぇか!」

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