「女は自分の流した涙で磨かれる」

 リルルの呼吸が瞬時、止まった。


「今から、たくさん泣くんでしょう? ひとりで泣くの?」


 一回、二回、また膝を叩く。


「ひとりで泣くのは、寂しくて悲しいよ」

「フィル……」

「今日はもう、きついことはいわないでいてあげる」


 メイドとしてかしずいているいつもの仮面が、がれていた。

 今、そこにあるのは、紛れもないフィルフィナの素顔。


「あの時、リルルはわたしのために泣いてくれたよね」


 あの時――いつだろう、リルルは記憶の山を掘り起こそう……として、すぐにそれを見つけていた。

 リルルが、フィルフィナと初めて出会った、あの時。


 王都の片隅で、傷つきぼろ切れのようになっていたフィルフィナを、リルルが偶然に見つけた最初の日。

 人間との争いに敗れ、人の波の中に紛れてほとぼりを冷まそうとして、死にかけて。


「ひとりで泣くしかできなかったわたしの側について、いっしょに泣いてくれたよね」


 あの日、共に泣いてくれたこの少女と、ともだちになりたいと思った。

 自分たちの里を滅ぼした、憎い人間の娘であっても。

 震えるように差し出された小さな手のぬくもりを、フィルフィナは素直に信じていたかった。


「わたしがあなたを守る。

 だから、リルル、

 ひとりで泣きたいなんて悲しいことはいわないでいいの。

 ――おいで」


 リルルの手が、寝室の扉を閉める。ばたん、と部屋が閉鎖された音が、全ての合図だった。


「――フィル!」


 飛び込むようにリルルがフィルフィナの膝にすがりついた。そのエプロンドレスの膝に顔を埋めて、それでも消せないくらいの声を上げて泣き始めた。


「フィル……フィル、フィル、フィルぅ……!」

「よしよし」


 エプロンドレスを涙で濡らしていく少女の背中を優しく叩いて、フィルフィナはその想いの全てを受け止めていた、


「つらかったね。よくがんばったね」

「私……私、ニコルとお別れなんかしたくない……! でも、でも……!」

「わかってる。わかってるよ、リルル」


 体ばかり大きくなって、泣き虫のままの少女の背中を丁寧に撫でながらフィルフィナは唄う。


「あなたは優しい女の子。誰かを本当に裏切ることなんてできないのは、わたしも知っている」

「うう、うう、う……!」

「ニコルもそれをわかっているわ――だから、自分を責めたりしなくていいの」

「フィル、フィル……!」

「泣きなさい、たくさん」


 膝の上で少女が大きく震える。表情のひとつも見えないが、フィルフィナには顔を埋めて泣く少女の心が、ガラスを通して見るようにしてわかる。


「たくさん泣くの。――女はね、自分の流した涙で磨かれて、綺麗になっていくのよ」


 膝が遠慮のない涙で濡れていくのがわかる。エルフの少女の膝に顔を押しつけても、なお殺せない心のきしみを口から|漏《》もらしながらリルルは泣く。

 幼児のように涙を流す女の子の背をでる手を、フィルフィナは止めない。この少女の涙が尽きるまで、ずっとこうしている。こうしていたい。

 日が落ち、夜が更け――たとえそれが、朝になるまで続いたとしても――。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 陽も落ち、闇に閉ざされた外の冷気が伝わってくる寝室は今、穏やかな静寂の中にあった。

 自分の中にあった全ての涙を流し尽くし、泣きに泣き疲れてリルルは今、眠りについている。

 そのリルルの隣で、エプロンドレスを脱いで下着姿になったフィルフィナが同じ布団に入って横になっていた。


 布団とフィルフィナのぬくもりに挟まれて、リルルは穏やかな寝息を立てている。その頬からも悲しみの色は取り払われていた。

 不思議と眠気は覚えず――そんな少女の寝顔を、フィルフィナは暗がりの中で眺め続けていた。


「――安心して、リルル」


 今日、その言葉を何度使ったかわからない。今までに何万回使ったかわからない。

 自分にとって誓いそのものの言葉をまた、さえずる。


「あなたは、わたしが守り続ける。だから」


 少女の髪に、そっと手を這わせた。途端にリルルの体がびくん、と震える。思わずフィルフィナの手が離れた。


「……ニコル……」


 小さな唇が零したその名に、エルフの少女の口元に微笑みが咲いてしまう。そして。


「……フィル……」


 ふわ、とリルルの小さく開いた口が息を漏らした。

 もう、大丈夫かな。


「――ふふ」


 体を伸ばす。起こさないよう、少女の髪をそっと額から払って、フィルフィナは体をのばした。

 小さな額に小さくキスを乗せる。感触に反応して、ふわ、とリルルが声を漏らす。起きる気配はない。

 ――お眠り。安らかに。


「――おやすみ、リルル」


 大切な少女に口づけできる喜びに胸をあたたかくしながら、フィルフィナは目を閉じる。朝まで……何時間かは眠れるだろう。

 目覚めればまた、メイドとしての仮面を被ることになるのだ。

 それもまた、エルフの少女が嫌いではないもの――。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 カーテンを閉め忘れた窓から、朝の光がたっぷりと部屋の中に差し込んでいた。

 リルルとフィルフィナは眠り続けている。泣き疲れたリルルに自ら目覚めるだけの気力はなかったし、寝付きが遅かったフィルフィナは熟睡の真っ最中だ。


 そのままにしていれば、きっと昼過ぎまで寝ているだろう――そんな二人だったが、その眠りも長くは続かなかった。


 バン! と大きな音を立てて寝室の扉が開かれる。その乱暴な音にまず、フィルフィナがぴくりと反応した。


「リルルお姉ちゃん! フィルお姉ちゃん! 起きてー!」

「な……にごと、ですか……」


 一人の女の子が転がり込むように部屋に入ってくる。その顔を見て、フィルフィナは枕の下に入れてあった拳銃から手を放した。顔見知りの女の子――ソフィアの家の近所に住む子だ。いつもの遊び仲間のひとり。


「起きて起きて起きて! 大変なの! 大変なの!」

「……なんでこう、朝のいちばんに子供が屋敷に入り込めるんです?」


 布団の上から体を乱打されてフィルフィナは起き上がる。遅くに寝入ったためか、眠い。


「あの門番、本当に仕事しているんですか?」

「もんばんさん? そんなのいなかったよ」

「…………確か、日の出から日が暮れるまでが勤務のはずでしたよね」


 目を離すとすぐにいなくなる、愛想のかけらもない初老の門番に対してフィルフィナは容赦という言葉を取り除きそうになる。


「そんなことはどうでもいいの! 大変なの! 大変なの!」

「……だから、なにがそんなに大変なのか説明していただかないと……」

「ノワール先生が急いできてくれって!」


 フィルフィナの隣でまだ横になっていたリルルが、バネで跳ね上がるように起き上がる。


「ノワール先生が!?」


 毒を体の中で代謝しきれずに苦しんでいるローレルを、着きっきりで看ている医師・ノワール。

 その彼が火急の使者を寄越すとすれば、予想できる事態はごくごく限られた。

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