第05話「危機、銃声、そして」

「狩る者が狩られる時」

 エルズナー侯爵邸を辞したリルルは、バリスが手配してくれた馬車の中で一人、うつむいていた。

 そろそろ正午になり、胃の中が空に近くなる頃合いだったが、空腹はまるで感じない。

 バリスの論理に追い詰められ、先延ばしにするだけしてきた決断をせざるを得なくなった事実が、頭をこれ以上ないほどに押さえつけてくれていた。


 ひと一人を運ぶのに二頭立ての馬車はいかにも大袈裟だったが、未来の侯爵夫人を送るはくとしてはこれが適当だろう。地味な色調に抑えながら豪奢ごうしゃな雰囲気でまとめられている馬車の内装も、リルルの心を少しも和ませなかった。


 窓にはカーテンが掛かっていて、外の景色を見せてはくれない。中の様子をうかがわせないようにという配慮だろう。その代わり、ランプの中で魔鉱石の青白い輝きがほのかに灯って、リルルの沈んだ顔に光と陰をもたらしていた。


「……帰ったら……手紙を書かないと……」


 ――ニコルへの手紙の趣旨は、決まった。

 あとは、どう書くかの問題でしかない。


「……これで……よかったのよ……。警察が動いてくれれば、ローレルだって助かる。動いてもらうには、私が誠意を示すしかないもの……」


 呟く。フィルフィナに、側にいてほしかった。独り言としては重すぎるから。


「……あれもいや、これもいやでは、誰も相手にしてくれない……」


 わかりきっていた結末だったのだ、最初から。

 砂場に残った幼い自分が、聞き分けもなくいやいやをしていたに過ぎない。

 もう、あの砂場から自分は去らなくてはならない。大人になったのだから――。


『懐中時計を見せてもらえますか?』


 バリスとの去り際を思い出す。さりげない申し出ではあったが、その真意はリルルにもわかった。

 ローレルのためにノワール医師を手配した後、エルズナー侯爵邸に赴くために家で着替えをした時に、懐中時計は懐に入れた。

 二つの懐中時計のうち、どれを持ってきたか、をバリスは問うているのだ。それがわからないほどにはリルルは子供ではない。


『……はい』


 いわれるがままに、ポケットから懐中時計を取り出す――銀色・・の懐中時計を。

 示されたそれを見て、バリスが柔和な笑みを満面に浮かべる。


『よくわきまえていらっしゃる。貴女も大人というわけだ。――あの金色の懐中時計は、大切にしまっておきなさい』

『…………』


 いわれなくてももう、大切にしまっている。

 大事な場所に、今も。


「……ニコル……」


 足を向ければいつでも帰れると思っていたあの砂場が、今では遙かに遠い。

 今日、眠るまでに返事を書けるだろうか?

 ニコルに送る、おそらくは……最後の手紙。


 景色は見えないが、馬車は前に前に走るのを加速度で感じる。車軸にも機構を凝らしているのか、大きな揺れは感じない。ゆりかごに揺られている心地よささえあった。

 目を閉じる。ランプのちょうどいい明るさが余計に眠気を呼ぶ。


 胸の真ん中を押さえた。想いを温めるように。

 今は、頭の中を空にしていたい。

 そんなささやかな祈りが、心が疲れ切った少女を眠りにいざなっていた。


「――――」



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 胸の奥で硬い響きが鳴っていた。

 体を沈めることのできる背もたれに体を預けきって熟睡していたリルルが、心臓の鼓動に干渉するその音にまぶたを震わせた。


「……あ……れ……?」


 馬車が停まっていた。カーテンが邪魔で外は見えず視覚では確認できないが、揺れの一つもないこの状況ではそう思うしかない。

 外は静かだ。音のひとつもしない。


 その静か過ぎる・・・・・という事実に、リルルの本能で肌を粟立たせるものがあった。

 おかしい、異常だ。


「……御者さん?」


 前をのぞける窓のカーテンを開いた――瞬間、リルルの目から全ての眠気が飛んだ。


「え…………!?」


 御者が……いない!?

 いや、御者どころではない。二頭いたはずの馬も、一頭もいない!


「……そんな!」


 慌てる。横の窓をのぞき込む。

 暗い。

 いくつもの高い建物が作った迷路のような路地に入っているのか、完全に陰になって太陽の光が当たっていない。

 問題は――屋敷に向かっていたはずにも関わらず、何故、こんなところで馬車だけが残されているのか、ということだ。


 もう反対方向の窓も確認する。似たような景色……しかし、妙に見覚えがある。

 ここは、確か……。


「……周りに誰もいないか」


 木製の馬車、その板一枚をへだてて外から聞こえてきた声にリルルは震えた。誰かいる。しかも二人以上・・・・


「大丈夫だ。この辺りは廃工場ばかりだからな」

「中の女の様子は」


 背筋が瞬時に凍る。


「ぐっすり寝てる。今頃はまだ夢の中だろうさ」

「よし――誘拐さらうぞ」


 肩が跳ね上がった。


「声を出させるなよ」


 ひた、ひた、ひたと気配が忍び寄る。声の種類からして――間違いなく四人以上!

 無意識のうちにリルルは右腕の袖をまくっていた。薄く手首に張り付いた黒い腕輪が下から現れる。

 馬車の扉のノブが、回った――右左、同時に!

 扉が一気に開け放たれる。手に短剣を持った黒ずくめの男たちが無言で馬車に乗り込もうとし――覆面の下の目を、思いっきり見開いていた。


「いない!?」


 いなかった。魔鉱石のランプに青白く照らされる車内には、猫の子一匹いない。


「どこに行った!?」

「そんな、どうやって外に出るんだ! ずっと見張ってたぞ!!」

「座席はぬくい! 今さっきまでここにいたはずだ!」


 手品を観ているかのように忽然こつぜんと消えてしまった少女を探して男たちが視線を四方八方に向ける。青いドレス姿の伯爵令嬢はどこにもいない――その事実に、悪寒で下着を汗に濡らした男たちの頭上に、その声は降ってきた。


「伯爵令嬢をお探しになっていて!?」

「――――!?」


 六人いる男たちの顔が、一斉に上を向く――あり得ない角度だが、声に反応するにはそれしかなかった。

 五階建ての廃工場の一つ。張り出したバルコニーの縁。くすんだ建物の色を背にして、突如として現れたその明るい色彩は異様なほどの存在感を示した。

 光が届かない洞窟の中で、突如眩い輝きを放つ宝石の山に出くわした――それくらいの衝撃があった。


「貴方がたが探されているリルル・ヴィン・フォーチュネットは、私が保護させていただきました! 探されても無駄なことです!」

「お――お前は!?」


 優雅に広がる薄桃色のドレス、花を想起させる大きな帽子。

 暗い路地裏に全く似つかわしくない光輝こうきを放つように、その姿は眩しく麗しい。

 突如暗がりに咲いたその大輪の花に、男たちの誰もが度肝を抜かれていた。


「快傑令嬢リロット、つつしんで、ここに参上させていただきます!」


 外から強い風が吹き込む。澱んだ路地裏の空気が吹き払われて、しとやかさの中に健やかさを抱かせる所作でカーテシーが披露され、スカートの裾がこれ以上もなく美事みごとに膨らみ――赤いフレームのメガネの向こうで、大きな瞳がいたずらげに微笑んだ。


「か、快傑令嬢だって!?」

「あれがか!」


 悪徳侯爵ゲルト侯を社会的に葬り、高まるばかりの名に男たちが面白いように混乱する。


「悪あるところ、私は何処どこにでも現れる――失礼いたします!」

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