第04話「こころ、振り子のように、揺れて」
「砂場の夢」
「井戸に、毒ですって……!?」
散々泥まみれになったあと、ソフィアの家を辞して、屋敷に戻る途中の馬車の中。
風呂に入り、いくらかはさっぱりしたリルルが、フィルフィナの説明に驚きの声を上げていた。
「まだ確証を得られたわけではありませんが、多分そうだと思います」
「病気じゃなかったってこと!?」
「井戸の水は誰もが飲みます。大勢が体の調子が悪くなってもおかしくはありませんね。あの
「でも、死んだ人は、出なかったって……」
「毒殺が目的じゃないからですよ」
フィルフィナの言葉には淀みがない。冷静な光を帯びた目が前をまっすぐ見つめていた。
「致死量に至る分量までは投げ入れられなかったということです。犯人の目的は、体調不良を訴える者を大量に出すことで、住人に流行病が広がっていると錯覚させることにあった……」
「なんのために、そんなことを……」
「薬を売るためじゃないですか?」
「あ――――」
病気が流行りだしたという話が上がって、都合のいい頃合いに現れた薬売り。高い値段がつけられた薬が大量にさばかれたはずだ。
「あと、これは薬なんかじゃありません。ただの興奮剤が混ざった水です」
ローレルが飲み残していた薬をフィルフィナは手の中でもてあそんだ。手で握れば隠せるくらいの小瓶に透明の液体が入っている。
「だってみんな、それを飲んだら元気になったっていってた……」
「薄い毒は、体の中で代謝されて抜けていきます。井戸の水も時間が経つにつれて新しい水が外から入ってくるので、毒の濃度も下がる。要するに、こんなものなくともみんな快方に向かったんです。でも、これを飲めばもっと元気になるように感じたでしょうね」
「……ローレルが伏せったままなのは?」
「お年寄りですからね。代謝の能力も落ちています。きっとそれで臓器が弱ったままなのでしょう」
「つまり、毒を
「この薬を売りつけにきた連中、というのが可能性が高いでしょうね」
その
もう、これ以上病気は広がらないという確信があるからだろう。
「……警察にお願いしましょう! 犯人を捕まえてもらわないと!」
「証拠がないんです」
フィルフィナはもうひとつの小瓶をポケットの中から取りだした。
「わたしの舌だから毒らしい、というのがわかるだけで、もうこの濃度なら検出も難しいでしょう……念のため、里に送って分析をしてもらいますが」
中に入っているのはソフィアの家の水瓶から汲んだ水だ。共同井戸の水はもうほとんど新しい水に入れ替わって、毒の濃度もほとんど無視できる水準だった。
「同じ事件がまたどこかで起こらないことには、問題にもならないでしょうね」
「ローレル……あんなに気弱になっちゃって……。早くよくなってくれればいいのだけれど……」
リルルは馬車の中から外の様子に目を向けた。
馬車は平民の住宅街を抜けて、高級住宅街に入る。広い屋敷が建ち並ぶ景色は空気の味さえも違って感じさせた。さっきまでの土と砂が混じった臭いから、芝生の青い匂いに変わるようだ。
途中、郵便局に寄る。フィルフィナが数通の手紙を手にして馬車に戻って来た。
「ニコル様のお手紙も来てました」
リルルはニコルがいつも使っている白い封筒を受け取る。ゴーダム公の紋章が薄く刻印されているものだ。
「一日に二通も?」
「朝お渡しした手紙は、昨日の午後についたものです。それにしてもニコル様も筆まめな方ですね。毎日のように手紙を送りなさって……浮かないお顔ですね?」
愛しのニコルからの便りだというのに、リルルはそれを膝に乗せたまま封を開けることもできずにいた。膝が微かに震えている――。
「……ニコルになんと返事をすればいいのか……次の婚約式の
「一週間後に、お披露目の
「…………」
もしも、今回の婚約話を
「ゆっくりお考えになられてください。まだ時間は少しはあります」
「フィル……」
「どうすればいいのかについては、わたしは助言はいたしませんよ?」
リルルに目を向けずにフィルフィナはいいきった。
「お嬢様が自分で考えて、自分で決定されることです。あなたの行く末ですからね」
「……フィルは厳しいのね」
「お姉さんですから」
「あはは……」
冗談か本気かわからない言葉、それでもリルルは小さく笑えてしまう。それが心に風を招き入れて、胸の中を少しは軽くしてくれた。
背もたれに上体の体重を預ける。目を閉じる。肺の中の空気を全て抜いた。
手の中の手紙を開封するのは、せめて、このドレスを脱いでからにしよう。
今は、何も考えたくはない――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――夢を
よく視る夢の内容だった。もう、何度だって視たかわからない夢だった。
砂場に二人の子供がいた。両側からぺたぺたと盛って作る山を挟んで向かい合っていた。
一人は男の子、一人は女の子。まだ五歳にもなっていないだろう、二人。
よく視る夢だ。
『おかあさんから聞いたんだ』
ぺたぺた、ぺたぺたと砂を盛る。山にする。
『ぼく、リルルとはけっこんできないんだって』
『え~!?』
幼い自分がすっとんきょうな声を上げる。どんな風に汚れてもいいように、平民そのものの簡素な服を着た女の子。ドレス姿の自分がその女の子を後から見下ろしている。
『なんで~!?』
『ぼくがへーみんで、リルルがはくしゃくれーじょーだからだって』
『どうしてへーみんとはくしゃくれーじょーは、けっこんできないの?』
『みぶんがちがうからだって』
ぺたぺた、ぺたぺたと砂を盛る。山にする。
『どうして、みぶんがちがうとけっこんできないの?』
『よくわかんない』
ぺたぺた、ぺたぺたと砂を盛る。山にする。
『やだやだ! あたしはニコルとけっこんしたい!』
『ぼくもリルルとけっこんしたいけど、むりなんだって』
『できるよー! ふたりがすきあってたらけっこんできるって、ほんにかいてたよ』
『ほんに?』
『うん、あたし、いっぱいほんよんでるから』
『そっか……』
ぺたぺた、ぺたぺたと砂を盛る。山にする。
『そうだ! ニコル、きしさまになればいいんだ!』
『ぼくが? きしさまに?』
『ほんにかいてた! へーみんのおとこのこがきしになって、わるいりゅうをやっつけて、いっぱいほめられて、おひめさまとけっこんするの!』
『おひめさまと?』
『おひめさまははくしゃくれーじょーよりえらいんだって! だから、はくしゃくれーじょーともけっこんできるよ!』
『でも、どうやったらきしさまになれるの?』
『おとうさまにおねがいしてあげる! ニコルをきしさまにしてあげてください、って!』
『……そうなんだ。きしさまになったら、リルルとけっこんできるんだ』
『ニコル、がんばって! あたし、ニコルがきしさまになるまでまってるから!』
『うん……ぼく、きしさまになるよ。がんばる』
『ニコル、だいすき! ぜったいけっこんしようね!』
『ぼくだって。リルル、けっこんしようね』
『うん!』
ぺたぺた、ぺたぺたと砂を盛る。山にする。
二人は夢の中で永遠に砂を盛り続けるのだ。いつも心はそこにある。
目を閉じて、眠りの世界に入れば、そこにある。
◇ ◇ ◇
――自分が読んでいたのは本ではなかった、絵本だった。少し後でそれを知った。
そして、騎士になっても伯爵令嬢とは結婚できないのだと知ったのは、それのもう少し後。
それでも、ニコルはあの砂場での約束を果たそうとしている。あの砂場で砂を盛り続けている。
――私は、あの砂場から去ろうとしているのか。
懸命に、時には命がけで砂を盛り続けているニコルを残して。
……ニコル……。
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