「もうひとりの母、もうひとつの我が家」


 馬車は大河を西から東に渡った。途中、数分間の強い通り雨が降って街を濡らす。雨合羽を着る暇もなかった御者がずぶ濡れになったまま手綱を操った。


 再び住宅街に入る。屋敷には戻らず、そのまま東に東に馬車は行く。

 フォーチュネット家からおよそ二カロメルトほど東に走った街区。庭などない小さめの一軒家がせせこましく建ち並ぶ低層住宅街だ。


 舗装が行き届いていない道は細くでこぼことしていて、先ほど強く降った雨によっていくつもの水たまりができており、そんな無数の水たまりに車輪を突っ込ませる馬車は泥をはねながら前後左右に揺れた。


 ガタゴトと揺れる馬車の中でリルルもフィルフィナも上から垂れたつり革をつかむ。そうしないと馬車の中で投げ出される危険があった。


 雨上がりを察して表に出てきた住人たちが、無様に揺れながら走る高級な馬車に怪訝けげんな目を向けて――次の瞬間には、ああ、あれが来たかと納得したような表情を浮かべていく。


 やがて馬車は一軒の家の前で停まった。景色の中でも全く変わり映えのしない庶民の家だ。

 だが、リルルにとってそこは特別な家だった。


「お嬢様、地面が泥で汚れています。お靴が汚れないように気をつけてください」

「少しくらい汚れてもかまいません」

「かまうんです。誰がその靴を洗うと思ってるんですか」


 ぶすぅ、と唇を尖らせたリルルを無視してフィルフィナが馬車の扉を開けた。

 その先に見えたのは、一面のぬかるみにまみれた地面と、この街には似つかわしくない豪華な馬車の登場に興味を惹かれた十何人の子供達だった。


「あーっ! お魚のリルルちゃんだ!」

「リルルちゃん来た!」


 泥に気をつけながらそっと靴を地面につけたリルルに、歓声を上げて子供達が群がる。どの子供達もそこら辺にいくらでもいそうな普通の子供達だ。


「リルルちゃん、すごいドレス! お嬢様みたい!」

「お嬢様ですよ、お嬢様は」

「こんにちは、みんな、元気してた?」


 ドレスを無遠慮に引っ張ってくるいくつもの手にリルルはひとつひとつ握手する。さっきまで泥をこねていた手があったとしてもリルルはそれに嫌な顔ひとつしない。

 幼い頃の自分と同じ手を拒む理由もない。小さな手が伝えてくれる元気さをリルルは心から愛した。


「さあさあ、通して下さい」

「フィルちゃん、後で遊ぼうよー!」

「そういうのはお嬢様の仕事ですから。はいはい、みんな道を空けて」

「あとでねー!」


 子供達の波をかき分けてリルルはその家のドアを開ける。ノックもしない、要らない。

 ここはリルルにとって、そんなものは必要のない家だからだ。


「おやあ、リルルお嬢様!」


 中では一人の中年の女がエプロン姿で窯に向かい合っていた。窯の底に並べられた魔鉱石が放つ青白い光が熱と一緒に揺れている。


「ソフィア、お久しぶり」

「本当にお久しぶりで……」


 太り気味の体を広い服で覆っている。髪を後で団子にし、愛想のいい顔つきの上に人懐っこい笑顔をたっぷりと乗せていた。たれ目がこれでもかというくらいに人の良さを主張しているようだ。


「一ヶ月くらいお顔を拝見していなかったのですかねぇ。お噂はうかがっておりますよ。今日、エルズナー侯爵のご子息との面会式だったんですね?」


 貴族の婚姻話は庶民にとっても娯楽のネタだ。誰が結婚し、誰の結婚や婚約が破綻するなどは大好物なのだろう。耳ざとい。


「このドレスじゃ、わかるわよね」

「お綺麗なお姿で……亡くなった奥様そっくりですよ。だんだん奥様に似られてきますねぇ。フィルも元気だった?」

「おかげさまで」

「ふふ……お腹が空かれてうちに寄った、というお顔をされていますね。今、ちょうど林檎リンゴパイが焼き上がるところなんですよ。お召し上がりになるでしょう?」

「もちろん!」

「お嬢様、わたし、馬車を誘導してきます」


 フィルフィナが玄関から出て行く。部屋の中にはリルルとソフィアの二人になった。


「さあ、すぐに用意しますからね、おかけになって、お嬢様」

「……ソフィア」

「お嬢様ももう成人なされたんですねぇ。本当に時間が経つのは早いもんですよ。ほんのこの前まで赤ん坊だったのに……」

「ソフィア、あのね……」

「成人のお祝いが林檎パイじゃ寂しいですねぇ。今度お屋敷にいって、御馳走ごちそうでも作らせてもらおうかしら。どうです? リルルお嬢様」

「……いじわる」


 軽く握った拳を胸の前で合わせ、人差し指同士の先をもじもじと動かすリルル。

 そんなリルルの心を全てわかっているソフィアの目に、ますますの笑みが曲線となって象られた。


「して欲しいことはちゃんといわないといけませんよ、リルルお嬢様?」

「……ぎゅって、してもらって、いい?」

「――おいで、リルル」


 微笑んだソフィアの言葉が早いか、リルルの足が床を蹴ってソフィアの胸に飛び込んでいた。


「――ママ!」


 ソフィアの服を下から押し上げている豊かな胸に、ほとんどぶつかるようにしてリルルは顔を埋める。懐かしさしかない感触と匂いがする。やわらかく温かい綿の布団に全身がくるまれているような心地に、リルルは全ての力を体から抜いていた。


「ママ……」

「あははは……まったく、もう大人なのに、いつまで経っても甘えん坊なんだから」

「だって……私、こんなことできるの、ママしかいないんだもの……」


 十歳は幼児化したような、本当に幼い表情でリルルは訴える。そんなリルルの頭をくしゃくしゃと撫でて、ソフィアは深い息を吐いた。


「――どれだけ大きくなっても、頭の形だけは赤ん坊の頃と変わらないんだねぇ……私がお乳をあげてた時のまんまだね」


 元・リルルの乳母、そして同時にニコルの母親であるソフィアはそう、心からの感嘆を漏らした。

 リルルを産んだ後、産後の肥立ちの悪さにそのまま寝付いてしまい、ほどなく亡くなった実母の記憶はリルルにはない。乳離れした後もしばらくリルルの面倒を見ていたソフィアを、リルルは物心ついた後も本当の母だと信じていたくらいだ。


 写真でしかその姿を確認できないリルルにとって、母といえばソフィアのことだった。ソフィアが御役御免おやくごめんになった後も、こうして時折顔を見に足を運んでいる。


「しかし、旦那様も急ぎなさるねぇ。成人した途端に婚約式とかねぇ」

「お父様は好きだけど、これだけはどうしてもついていけないわ……」

「あんたにお乳をやるように呼ばれた時にも、散々同じ話を聞いたよ。『この子はフォーチュネット家再興の鍵だ』ってね。……本当に実行なさるんだねぇ……」


 ソフィアの瞳に同情の色が浮かんだ。


「で? お相手はどんな方だった?」

「……素晴らしい方だった……」

「そうかい。じゃあ……うちのニコルに勝ち目はないか」


 はぁ、と小さく溜息が漏れる。始まる前からわかりきっていた試合の結果を知ったように。


「あの子も本当、融通が利かないで、真っ正直で、器用のきの字もない子なんだから」

「でも、私はそんなニコルが好きなの! ……ニコル以外の誰かと結婚するなんても考えたくもないの……」

「――リルル、あんたは優しい子だよ。あたしの自慢の娘さ。あたしのお乳で育てたんだからねぇ、実の子だと思ってるよ……でも、どうしようもないことも、世の中あるんだよ」

「…………」

「ニコルには、まだ手紙で知らせたりしてないんだろう?」


 胸の中で少女が無言でうなずいた。


「……知らせるのは、結婚式の日取りが決まってからでいいさ。今知らせるのも後で知らせるのも同じなら、遠い方がいいからねぇ」

「ニコルに……本当に、申し訳なくて……」

「あれだって向こうで大人になったんだ。わきまえはするさ……いつまでも子供じゃないと思うよ」

「そう……なの……かな……」


 大人になる。

 その当たり前の言葉に、リルルはいい予感を覚えない。

 何故、自分たちは大人なんかになってしまうのだろう。子供のままの方が、楽しいに決まっているのに――。


「リルル、あんたは余計なことを考えないで、向こうの家に気に入られることだけを考えるんだよ。女にとって、旦那の家は戦場だからね」

「……ママも……ソフィアも、そうだったの?」

「まあね。負けなかったけどね。……さ、赤ん坊の時間は終わり! しゃんとしなきゃ!」


 リルルを胸から放す。


「しっかりしな、未来の侯爵夫人!」

「…………うん」


 いいたいことのほとんど全部を飲み込んで、リルルはうなずいた。


「お腹空いてるんだろ? 今、林檎パイを切ってあげるからね。手、洗ってきな」

「はぁい」


 奥の手洗い、水が張ってある桶に手を突っ込もうとして、泥だらけの子供達に手を汚されていたことに気づく。こんな手で抱きついても文句ひとついわなかったソフィアの気持ちに気づいて、リルルは頬を染めて恥じ入った。


 みんな優しい。甘えてばかりいる自分が恥ずかしい……。


「さあ、召し上がれ」

「いただきます!」


 テーブルに着く。リルルの顔くらいの大きさがある林檎パイが四等分されて皿の上にあった。窯から出したてで、生地と林檎が焼けた匂いがこれでもかと鼻孔びこうをくすぐってくれる。


 ひとつを持って、かじる。


「美味しい! …………あれ?」


 口の中に広がった小麦の味わい、林檎の甘味に顔がほころぶが――一口で違和感を覚えた違和感に、首が傾いだ。


「なんか、いつもと味が違う……」

「やっぱりわかるんだねぇ、それはあたしがいちから作ったのさ」

「作ったのはローレルじゃないの? いつもローレルが作るのに……そういえばローレルは? お出かけ?」

「……ああ、お義母さんは奥にいるよ」

「奥に? なんで顔を出さな……ひょっとして、具合が悪いの?」

「ちょっとね……奥で寝てるよ。顔を見てやってくれるかい?」

「うん!」


 甘味を染み出させながら溶けていく熱い林檎、サクサクとしたパイの食感を楽しみながらリルルはあっという間に一枚を平らげ、胸のナプキンで口元を拭った。


「――それで、リルル、お義母さんの部屋に入る時だけど」

「どうかしたの?」

「扉から奥に入っちゃいけないよ」

「え……?」

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