『むささび』さん

「あの、すみません。『まゆ』さんですか?」

 彼と初めて会ったのは、地元の待ち合わせスポットのような小さな駅前でした。

「あ、『むささび』さんですか?」

 名前の通りの可愛らしい方を想像していたのですが彼は全く違って、細身で腰が低い、というのが第一印象でした。

「はい! 『むささび』です。あっいや、蒼馬って言います。相田蒼馬です」

 マッチングアプリで知り合った人と会うのはこの時が初めてでした。ですが、この人が初めてで良かったと強く感じたのです。

「私は新崎真由と言います。真実の真に自由の由で真由です」

 細い目をもっと細めてあなたは微笑みました。「今日は、凄くいい天気ですね」と額の汗をハンカチで拭う姿を見て、直感で『あーこの方だ』と感じた時には、あなたの虜になっていたのです。


「蒼馬さん、今度の連休は何か予定ありますか」

「えっ! 3連休ですよね」

 蒼馬さんは、何か隠し事をしている時毎度このような反応をします。隠し事ができないタイプなんです。

 その連休は、私たちが出会って3年目となる記念日が重なっていました。正直、26歳になる蒼馬さんにとってはいいタイミングなのではないかと思っているのですが、どうですか?

「初日は少し予定があるのですが、残り2日間は何も予定はありません」

「え?」

 その日の彼は本当におかしいのです。

 初日こそ、私たちの記念日なのに。しかし今の蒼馬さんは隠し事をしているような態度ではありません。これまでの彼ならば「3日間、予定ありません」と隠し事をしている時の態度を取りながら言うか、「3日間予定あります」と目を細めて言うかのどちらかだと思っていたのです。

 何故か凄く、胸騒ぎがしました。

「……その予定は、なんですか?」

 聞いてはいけないと分かっていながら、私はどうしても聞いてしまいました。らしくない、と言えばそうですが聞かずにはいられなかったのです。

「すみません。お答えすることは出来ないです」

 心が強く殴られたような感覚に襲われました。

 それと同時に物凄く恥ずかしくなり、その場から1秒でも早く逃げ出したくなりました。彼と過ごして3年。こんな感情は初めてです。

 同じ空間にいたくない。

「けど、その日──」

「っごめんなさい!」

 私はそのまま家を飛び出し、気付けば彼と初めて出会った小さな駅前に私は立ちすくんでいました。あの頃から何も変わらないその景色に、堪らず涙が溢れてきてその涙は止まるところを忘れて私を絶望に叩きつけてくるのです。

 彼が私に告白してくれた時、彼はこう言いました。「嬉しいや幸せという感情には限度があるようです。ですが、悲しいという感情には限りがなく、どこまでも落ちていくんです。それでも僕は真由さんに永遠の幸せを与えたいと、本気でそう思っています」あの時の言葉なんだったんだろう。そんな事を考えてはいけないと分かっているのに、それしか頭に浮かばないのです。嫌な言葉ばかりが私を支配しました。

 その夜、私は彼のいる家に帰ることは出来ませんでした。

 スマホも持たず家を出たので、もちろん彼から連絡が来ることはありませんでした。お金も持たずただひたすらに歩き続けた街並みは、私の絶望とは裏腹に輝き続けていました。

 街の景色はただの居酒屋からスナックやキャバクラへと代わり心地の良い光とは言えないものとなりました。

 彼はどうしているんだろう……。

 いつもなら、同じ食事を食べ同じ時間を過ごし同じものを見る時間。

「……何してるんだろ」

「お姉さん、1人ですか」

 雑多な景色に相応しい、彼とは正反対の男性が私の目の前に立ちはだかりました。

「1人……」

「初回だったらそんなにお金もかからな──」

 彼が喋り終わる前に、私は背後から誰かに思い切り引っ張られました。それでも、バランスを崩した体をしっかり支えてくれるその腕は私が知っている者の腕でした。

「1人じゃないんで」

「え」

「彼女、1人じゃないんで。失礼します」

 彼に腕を引っ張られ、元来た道を"彼と"歩き続けました。その間、彼は一言も喋らず、またしても私は無性に恥ずかしく消えたくなりました。温厚な彼を怒らせてしまった。最低だ。

「ごめんなさい」

 彼に聞こえるか聞こえないかのような、そんな小さな声で私は呟きました。

「真由さん」

 ……。

「僕は、サプライズに向かないようです」

 彼は声を殺しながら、自分自身を嘲笑うようにポツリと呟きました。

「すみません。朝の言動。僕が良くなかった。僕と生きていく中で二度とサプライズはないと思ってください。喜ばせる自信がありません」

 ようやく立ち止まった彼は私の方を振り向いて、両手を包み込みました。

「初日の予定は、僕だけの予定ではありません。僕と真由さんとの2人の予定です」

「え?」

「僕たちの大切な日に、僕個人の予定を入れたりはしません。本当は素敵なデートプランを考えてたんです。最後にプロポーズしようと思ってました。ですが、今日1日真由さんを探すために走り回って考えたんです。大切な日が多い方が幸せの数が増えるんじゃないかなって」

 蒼馬さんはポケットから小さな箱を取り出して、私の方に向けてそれを開きました。

「これを家に取りに戻った為に、迎えに来るのが遅くなっちゃってすみません。今日の事があるから、2度と悲しませたりしません、とははっきりと言えませんが真由さんを幸せにする自信はあります。それははっきりと言えます。だから、僕と結婚してください」

 細く優しく暖かな瞳が私の瞳を捉えて動きません。私もそれに答えるように視線を逸らすことは出来ませんでした。ですが、そんな瞳も再び溢れてきた涙で見えなくなってしまいました。

「自分の不安を言葉にする事が苦手で、また今日みたいに蒼馬さんに迷惑をかけちゃうかもしれない。それでも、こんな私をお嫁さんにしてくれますか?」

 蒼馬さんは優しく微笑み、私の目線の高さになって「そんな貴女だからこそ、僕は真由さんを奥さんにしたいと思いました」と伝えてくれた。

「それにね、今日はいつも以上に真由さんの事が頭から離れなかったんです。不安だったからかもしれませんが、どれほど自分の中で真由さんの存在が愛おしく大切なものになっていたのか実感しました」

「私もです。私もずっと蒼馬さんの事考えてました。家を出て1番に行ったのがあの駅でした。初めて蒼馬さんと会えた日のことを思い出して、とにかくずっと、蒼馬さんの事だけが頭から離れなかった」

「僕だけじゃないのが凄く嬉しい。ありがとうございます。……受け取っていただけますか?」

 首を少し傾げて差し出されたそれに、私は小さく頷きました。

「喜んで」


 私はきっとこの日、おとぎ話に出てくるようなお姫様のように永遠の幸せを手に入れたのです。白馬に乗った王子様ではありませんが、名前に馬の入った王子様に出会ったことで──。

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『大好きです』 青下黒葉 @M_wtan0112

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