正法眼蔵 伝衣

仏仏、正伝の衣、法、まさに、震旦に正伝することは少林の高祖のみなり。

高祖は、すなわち、釈迦牟尼仏より第二十八代の祖師なり。

西天、二十八代、嫡々あいつたわれ、震旦に、六代、まのあたり、正伝す。

西天、東地、都、盧、三十三代なり。

第三十三代の祖、大鑑禅師、この衣、法を黄梅の夜半に正伝し生前、護持しきたる。

いまなお曹谿の宝林寺に安置せり。

諸代の帝王、あいつぎて内裏に請入して供養す。

神物、護持せるものなり。

唐朝の中宗、粛宗、代宗、しきりに帰内、供養しき。

請するにも、おくるにも、勅使をつかわし、詔をたまう。

すなわち、これ、おもくする儀なり。

代宗皇帝、あるとき、仏衣を曹谿山におくる詔に、いわく、

今、遣、鎮国大将軍、劉崇景、頂戴、而、送。

朕、為、之、国宝。

卿、可、於、本寺、安置、令、僧衆親承宗旨者、厳、加、守護、勿、令、遺墜。


しかあれば、すなわち、数代の帝者ともに、くにの重宝とせり。

まことに、無量、恒河沙の三千世界を統領せんよりも、この仏衣、くににたもてるは、ことに、すぐれたる大宝なり。

卞璧に準ずべからざるものなり。

たとえ伝国璽となるとも、いかでか、伝仏の奇宝とならん?

大唐より、このかた、瞻礼せる緇白、かならず、信法の大機なり。

宿善のたすくるにあらずよりは、いかでか、この身をもちて、まのあたり、仏仏、正伝の仏衣を瞻礼することあらん?

信受することあたわざらんは、みずからなりというとも、うらむべし、仏種子にあらざることを。

俗、なお、いわく、

その人の行李をみるは、すなわち、その人をみるなり。


いま、仏衣を瞻礼せしは、すなわち、仏をみたてまつるなり。

百、千、万の塔を起立して、この仏衣に供養すべし。

天上、海中にも、こころあらんは、おもくすべし。

人間にも、転輪聖王、等の、まことをしり、すぐれたるをしらんは、おもくすべきなり。

あわれむべし、よに国主となれるやから、わがくにに重宝のあるをしらざること。

ままに道士の教にまどわされて、仏法を廃せる、おおし。

そのとき、袈裟をかけず、円頂に葉巾をいただく。

講ずるところは延寿長年の方なり。

唐朝にもあり、宋朝にもあり。

これらのたぐいは、国主なりといえども、国民よりも、いやしかるべきなり。

しずかに観察しつべし。

わがくにに仏衣とどまりて現在せり。

衣、仏国土なるべきか? とも思惟すべきなり。

舎利、等よりも、すぐれたるべし。

舎利は輪王にもあり、獅子にもあり、人にもあり、乃至、辟支仏、等にもあり。

しかあれども、輪王には袈裟なし、獅子に袈裟なし、人に袈裟なし。

ひとり諸仏のみに袈裟あり。

ふかく信受すべし。

いまの愚人、おおく、舎利は、おもくすといえども、袈裟をしらず、護持すべきとしれるもの、まれなり。

これ、すなわち、先来より袈裟のおもきことをきけるもの、まれなり。

仏法、正伝いまだきかざるがゆえに、しかあるなり。

つらつら釈尊在世をおもいやれば、わずかに二千余年なり。

国宝、神器の、いまにつたわれるも、これよりも、すぎて、ふるくなれるも、おおし。

この仏法、仏衣は、ちかく、あらたなり。

若、田、若、里に展転せんこと、たとえ五十転々になれりとも、その益、これ、妙なるべし。

かれ、なお、功徳、あらたなり。

この仏衣、かれと、おなじかるべからず。

かれは正嫡より正伝せず。

これは正嫡より正伝せり。

しるべし。

四句偈をきくに得道す、一句子をきくに得道す。

四句偈、および、一句子、なにとしてか、恁麼の霊験ある?

いわゆる、仏法なるによりてなり。

いま、一頂衣、九品衣、まさしく、仏法より正伝せり。

四句偈よりも劣なるべからず。

一句、法よりも験、なかるべからず。

このゆえに、二千余年より、このかた、信行、法行の諸機ともに、随仏学者みな、袈裟を護持して身心とせるものなり。

諸仏の正法にくらきたぐいは袈裟を崇重せざるなり。

いま、釈提桓因、および、阿那跋達多龍王、等ともに、在家の天主なりといえども、龍王なりといえども、袈裟を護持せり。

しかあるに、剃頭のたぐい、仏子と称するともがら、袈裟におきては、受持すべきものとしらず。

いわんや、体、色、量をしらんや?

いわんや、着用の法をしらんや?

いわんや、その威儀、ゆめにもいまだみざるところなり。

袈裟をば、ふるくより、いわく、除熱悩服となづく、解脱服となづく。

おおよそ、功徳、はかるべからざるなり。

龍鱗の三熱、よく、袈裟の功徳より、解脱するなり。

諸仏、成道のとき、かならず、この衣をもちいるなり。

まことに、辺地にうまれ、末法にあうといえども、相伝あると相伝なきと、たくらぶることあらば、相伝の正嫡なるを信受、護持すべし。

いずれの家門にか、わが正伝のごとく、まさしく、釈迦の衣、法ともに正伝せる。

ひとり仏道のみにあり。

この衣、法にあわんとき、だれが恭敬供養をゆるくせん?

たとえ一日に無量、恒河沙の身命をすてても供養すべし。

生々、世々の値遇、頂戴をも発願すべし。

われら、仏生国をへだつること十万余里の山海のほかに、うまれて、辺方の愚蒙なりといえども、この正法をききて、この袈裟を一日一夜なりといえども受持し、一句、一偈なりといえども参究する。

これ、ただ一仏、二仏を供養せる福徳のみにはあるべからず。

無量、百、千、億のほとけを供養、奉覲せる福徳なるべし。

たとえ自己なりといえども、とうとぶべし、愛すべし、おもくすべし。

祖師、伝法の大恩、ねんごろに報謝すべし。

畜類、なお、恩を報ず。

人類、いかでか、恩をしらざらん?

もし恩をしらずば、畜類よりも劣なるべし、畜類よりも愚なるべし。

この仏衣の功徳、その伝、仏正法の祖師にあらざる余人は、ゆめにもいまだしらざるなり。

いわんや、体、色、量をあきらむるにおよばんや?

諸仏のあとをしたうべくば、まさに、これをしたうべし。

たとえ百、千、万代ののちも、この正伝を正伝せんは、まさに、仏法なるべし。

証験、これ、あらたなり。

俗、なお、いわく、

先王の服にあらざれば、服せず。

先王の法にあらざれば、おこなわず。


仏道もまた、しかあるなり。

先仏の法服にあらざれば、もちいるべからず。

もし先仏の法服にあらざらんほかは、なにを服してか、仏道を修行せん? 諸仏に奉覲せん?

これを服せざらんは、仏会にいたりがたかるべし。

後漢、孝明皇帝、永平年中より、このかた、西天より東地に来到する僧侶、くびすをつぎて、たえず。

震旦より印度におもむく僧侶、ままにきこゆれども、だれ人にあいて仏法を面授せりける、といわず。

ただ、いたずらに論師、および、三蔵の学者に習学せる名相のみなり。

仏法の正嫡をきかず。

このゆえに、仏衣、正伝すべき、といいつたえるにもおよばず、仏衣、正伝せりける人にあいあう、といわず、伝衣の人を見聞す、とかたらず。

はかりしりぬ、仏家の閫奥にいらざりける、ということを。

これらのたぐいは、ひとえに衣服とのみ認じて、仏法の尊重なり、としらず。

まことに、あわれむべし。

仏、法蔵、相伝の正嫡に、仏衣も相伝、相承するなり。

法蔵、正伝の祖師は仏衣を見聞せざるなきむねは、人中、天上、あまねく、しれるところなり。

しかあれば、すなわち、仏袈裟の体、色、量を正伝しきたり、正く見聞しきたり、仏袈裟の大功徳を正伝し、仏袈裟の身心骨髄を正伝せること、ただ、まさに、正伝の家業のみにあり。

もろもろの阿笈摩教の家風には、しらざるところなり。

おのおの今案に自立せるは正伝にあらず、正嫡にあらず。

わが大師、釈迦牟尼如来、正法眼蔵、無上菩提を摩訶迦葉に付授するに、仏衣、ともに伝授せりしより、嫡嫡、相承して曹谿山、大鑑禅師にいたるに三十三代なり。

その体、色、量を親見、親伝せること、家門、ひさしくつたわれて、受持いまに、あらたなり。

すなわち、五宗の高祖おのおの受持せる、それ、正伝なり。

あるいは、五十余代、あるいは、四十余代、おのおの、師資みだることなく、先仏の法によりて搭し、先仏の法によりて製することも、唯仏与仏の相伝し証契して、代代をふるに、おなじく、あらたなり。

嫡嫡、相承する仏訓に、いわく、

九条衣 三長一短( or 二長一短)(或、四長一短)

十一条衣 三長一短( or 二長一短)(或、四長一短)

十三条衣 三長一短( or 二長一短)(或、四長一短)

十五条衣 三長一短

十七条衣 三長一短

十九条衣 三長一短

二十一条衣 四長一短

二十三条衣 四長一短

二十五条衣 四長一短

二百五十条衣 四長一短

八万四千条衣 八長一短

いま、略して挙するなり。

このほか諸般の袈裟あるなり。

ともに、これ、僧伽梨衣なるべし。

あるいは、在家にしても受持し、あるいは、出家にしても受持す。

受持する、というは、着用するなり。

いたずらに、たたみ、もちたらんするは、あらざるなり。

たとえ、かみ、ひげをそれども、袈裟を受持せず、袈裟をにくみ、いとい、袈裟をおそるるは、天魔、外道なり。

百丈、大智禅師、いわく、

宿殖の善種なきものは袈裟をいむなり、袈裟をいとうなり、正法をおそれ、いとうなり。


仏、言、

若、有、衆生、入、我法中、或、犯、重罪、或、堕、邪見、

於、一念中、敬心、尊重、僧伽梨衣、

諸仏、及、我、必、於、三乗、授記、

此人、当、得、作仏。


若、天、若、龍、若、人、若、鬼、若、能、恭敬、此人、袈裟、少分、功徳、

即、得、三乗不退不転。


若、有、鬼神、及、諸衆生、能、得、袈裟、乃至、四寸、

飲食、充足。


若、有、衆生、共相違反、欲、堕、邪見、

念、袈裟力、

依、袈裟力、尋、生、悲心、還、得、清浄。


若、有、人、在、兵陣、

持、此袈裟、少分、恭敬、尊重、

当、得、解脱。


しかあれば、しりぬ。

袈裟の功徳、それ、無上、不可思議なり。

これを信受、護持するところに、かならず、得、授記あるべし、得、不退あるべし。

ただ釈迦牟尼仏のみにあらず、一切諸仏、また、かくのごとく宣説しましますなり。

しるべし。

ただ諸仏の体相、すなわち、袈裟なり。

かるがゆえに、仏、言、

当、堕悪道者、厭、悪、僧伽梨。


しかあれば、すなわち、袈裟を見聞せんところに、厭悪の念おこらんには、当、堕、悪道のわがみなるべし、と悲心を生ずべきなり、慚愧、懺悔すべきなり。

いわんや、釈迦牟尼仏、はじめて王宮をいでて山にいらんとせしとき、樹神、ちなみに、僧伽梨衣、一条を挙して、釈迦牟尼仏にもうす、

この衣を頂戴すれば、もろもろの魔嬈をまぬがるるなり。


ときに、釈迦牟尼仏、この衣をうけて頂戴して十二年をふるに、しばらくも、おかず、という。

これ阿含経、等の説なり。

あるいは、いう、

袈裟は、これ、吉祥服なり。

これを服用するもの、かならず、勝位にいたる。


おおよそ、世界に、この僧伽梨衣の現前せざる時節、なきなり。

一時の現前は長劫中の事なり。

長劫中の事は一時来なり。

袈裟を得するは仏、標幟を得するなり。

このゆえに、諸仏、如来の、袈裟を受持せざる、いまだあらず。

袈裟を受持せんともがらの、作仏せざる、あらざるなり。


搭袈裟法。

偏袒右肩は常途の法なり。

通両肩搭の法もあり。

両端ともに左の臂、肩にかさね、かくるに、前頭を表面にかさね、後頭を裏面にかさねること、仏、威儀の一時あり。

この儀は諸声聞衆の見聞し相伝するところにあらず。

諸阿笈摩教の経典に、もらし、とくにあらず。

おおよそ、仏道に袈裟を搭する威儀は、現前せる伝、正法の祖師、かならず、受持せるところなり。

受持、かならず、この祖師に受持すべし。

仏祖、正伝の袈裟は、これ、すなわち、仏仏、正伝みだりにあらず。

先仏、後仏の袈裟なり。

古仏、新仏の袈裟なり。

道を化し、仏を化す。

過去を化し、現在を化し、未来を化するに、

過去より現在に正伝し、

現在より未来に正伝し、

現在より過去に正伝し、

過去より過去に正伝し、

現在より現在に正伝し、

未来より未来に正伝し、

未来より現在に正伝し、

未来より過去に正伝して、

唯仏与仏の正伝なり。

このゆえに、祖師西来、このかた、大唐より大宋にいたる数百歳のあいだ、講経の達者、おのれが業を見徹せるもの、おおく、教、家、律、等のともがら、仏法にいるとき、従来旧窠の弊衣なる袈裟を抛却して、仏道正伝の袈裟を正受するなり。

かの因縁、すなわち、伝、広、続、普灯、等の録に、つらなれり。

教、律、局量の小見を解脱して、仏祖、正伝の大道をとうとみし、みな、仏祖となれり。

いまの人も、むかしの祖師をまなぶべし。

袈裟を受持すべくば、正伝の袈裟を正伝すべし、信受すべし。

偽作の袈裟を受持すべからず。

その正伝の袈裟というは、いま、少林、曹谿より正伝せるは、これ、如来より嫡嫡、相承すること、一代も虧闕せざるところなり。

このゆえに、道業、まさしく、禀受し、仏衣、したしく手にいれるによりてなり。

仏道は仏道に正伝す。

閑人の伝得に一任せざるなり。

俗諺に、いわく、

千聞は一見にしかず。

千見は一経にしかず。


これをもって、かえりみれば、

千見、万聞、たとえ、ありとも、一得にしかず。

仏衣、正伝せるに、しくべからざるなり。

正伝あるをうたがうべくは、正伝をゆめにもみざらんは、いよいよ、うたがうべし。

仏経を伝聞せんよりは、仏衣、正伝せらんは、したしかるべし。

千経、万得、ありとも、一証にしかじ。

仏祖は証契なり。

教、律の凡流にならうべからず。

おおよそ、祖門の袈裟の功徳は、正伝、まさしく、相承せり。

本様、まのあたり、つたわれり。

受持し、あい嗣法して、いまに、たえず。

正受せるひとみな、これ、証契、伝法の祖師なり。

十聖三賢にもすぐる。

奉覲、恭敬し、礼拝、頂戴すべし。

ひとたび、この仏衣、正伝の道理、この身心に信受せられん、すなわち、値仏の兆なり、学仏の道なり。

不堪、受、是法ならん、悲生なるべし。

この袈裟をひとたび身体におおわん、決定、成、菩提の護身符子なりと深肯すべし。

一句、一偈を信心にそめつれば、長劫の光明にして虧闕せず、という。

一法を身心にそめんも、亦復、如是なるべし。

かの心念も無所住なり、我有にかかわれずといえども、その功徳、すでに、しかあり。

身体も無所住なりといえども、しかあり。

袈裟も、無所、従来なり、亦、無所、去なり、我有にあらず、他有にあらずといえども、所持のところに現住し、受持の人に加す。

所得、功徳もまた、かくのごとくなるべし。

作、袈裟の作は凡、聖、等の作にあらず。

その宗旨、十聖三賢の究尽するところにあらず。

宿殖の道種なきものは、一生、二生、乃至、無量生を経歴すといえども、袈裟をみず、袈裟をきかず、袈裟をしらず、いかに、いわんや、受持することあらんや?

ひとたび身体にふるる功徳も、うるものあり、えざるものあり。

すでに、うるは、よろこぶべし。

いまだ、えざらんは、ねがうべし。

うべからざらんは、かなしむべし。

大千界の内外に、ただ仏祖の門下のみに仏衣、つたわれること、人、天ともに見聞、普智せり。

仏衣の様子をあきらむることも、ただ祖門のみなり。

余門には、しらず。

これをしらざらんものの、自己をうらみざらんは、愚人なり。

たとえ八万四千の三昧、陀羅尼をしれりとも、仏祖の衣、法を正伝せず、袈裟の正伝をあきらめざらんは、諸仏の正嫡なるべからず。

他界の衆生は、いくばくか、ねがうらん、震旦国に正伝せるがごとく仏衣、まさしく、正伝せんことを。

おのれがくにに正伝せざること、はずる、おもいあるらん、かなしむこころ、ふかかるらん。

まことに、如来、世尊の衣、法、正伝せる法に値遇する、宿殖、般若の大功徳、種子によるなり。

いま、末法、悪時世は、おのれが正伝なきことをはじず、正伝をそねむ魔党、おおし。

おのれが所有、所住は、真実のおのれにあらざるなり。

ただ正伝を正伝せん、これ、学仏の直道なり。

おおよそ、しるべし。

袈裟は、これ、仏身なり、仏心なり。

また、解脱服と称し、

福田衣と称し、

忍辱衣と称し、

無相衣と称し、

慈悲衣と称し、

如来衣と称し、

阿耨多羅三藐三菩提、衣と称するなり。

まさに、かくのごとく受持すべし。

いま、現在、大宋国の律学と名称するともがら、声聞の酒に酔狂するによりて、おのれが家門に、しらぬ、いえを伝来することを慚愧せず、うらみず、覚知せず。

西天より伝来せる袈裟、ひさしく漢、唐につたわれることをあらためて、小量にしたがうる。

これ、小見によりて、しかあり。

小見の、はずべきなり。

もし、いま、なんじが小量の衣をもちいるがごときは、仏威儀、おおく虧闕することあらん。

仏儀を学伝せることの、あまねからざるによりて、かくのごとくあり。

如来の身心、ただ祖門に正伝して、かれらが家業に流散せざること、あきらかなり。

もし、万一も、仏儀をしらば、仏衣をやぶるべからず。

文、なお、あきらめず。

宗、いまだ、きくべからず。

又、ひとえに麁布を衣財にさだむこと、ふかく仏法にそむく。

ことに仏衣をやぶれり。

仏弟子、きるべきにあらず。

ゆえは、いかん?

布、見を挙して、袈裟をやぶれり。

あわれむべし、小乗、声聞の見、まさに、迂曲なることを。

なんじが布、見やぶれてのち、仏衣、現成すべきなり。

いうところの、絹、布の用は、一仏、二仏の道にあらず。

諸仏の大法として、糞掃を上品、清浄の衣財とせるなり。

そのなかに、しばらく、十種の糞掃をつらぬるに、絹類あり、布類あり、余帛の類もあり。

絹類の糞掃をとるべからざるか?

もし、かくのごとくならば、仏道に相違す。

絹、すでに、きらわば、布、また、きらうべし。

絹、布、きらうべき、そのゆえ、なににかある?

絹糸は殺生より生ぜる、ときらう。

おおきに、わらうべきなり。

布は生物の縁にあらざるか?

情、非情の情、いまだ凡情を解脱せず。

いかでか、仏袈裟をしらん?

又、化糸の説をきたして乱道することあり。

又、わらうべし。

いずれが、化にあらざる?

なんじ、化をきくみみを信ずといえども、化をみる目をうたがう。

目に耳なし、耳に目なきがごとし。

いまの耳目、いずれのところにかある?

しばらく、しるべし。

糞掃をひろうなかに、絹ににたる布あり、布のごとくなる絹あらん。

これをもちいんには、絹となづくべからず、布と称すべからず、まさに、糞掃と称すべし。

糞掃なるがゆえに、糞掃にして、絹にあらず、布にあらざるなり。

たとえ人、天の、糞掃と生長せるありとも、有情というべからず、糞掃なるべし。

たとえ松、菊の糞掃となれるありとも、非情というべからず、糞掃なるべし。

糞掃の、絹、布にあらず、珠玉をはなれたる道理をしるとき、糞掃衣は現成するなり、糞掃衣には、うまれ、あうなり。

絹、布の見、いまだ零落せざるは、いまだ糞掃を夢也未見なり。

たとえ麁布を袈裟として一生、取持すとも、布、見をおぼえらんは、仏衣、正伝にあらざるなり。

又、数般の袈裟のなかに、布袈裟あり、絹袈裟あり、皮袈裟あり。

ともに、諸仏のもちいるところ、仏衣、仏功徳なり。

正伝せる宗旨あり。

いまだ断絶せず。

しかあるを、凡情、いまだ解脱せざるともがら、仏法をかろくし、仏語を信ぜず、凡情に随、他、去せんと擬する、付、仏法の外道というつべし、壊、正法のたぐいなり。

あるいは、いう、天人のおしえによりて仏衣をあらたむ、と。

しかあらば、天仏をねがうべし。

又、天の流類となれるか?

仏弟子は仏法を天人のために宣説すべし。

道を天人にとうべからず。

あわれむべし。

仏法の正伝なきは、かくのごとくなり。

天衆の見と仏子の見と、大小はるかにことなることあれども、天くだりて法を仏弟子にとぶらう。

そのゆえは、仏見と天見と、はるかにことなるがゆえなり。

律家、声聞の小見をすてて、まなぶことなかれ。

小乗なり、としるべし。

仏、言、

殺、父、殺、母は懺悔しつべし。

謗、法は懺悔すべからず。


おおよそ小見、狐疑の道は、仏の本意にあらず。

仏法の大道は、小乗、およぶところ、なきなり。

諸仏の大戒を正伝すること、付法蔵の祖道のほかには、ありとしれるものなし。

むかし、黄梅の夜半に、仏の衣、法、すでに六祖の頂上に正伝す。

まことに、これ、伝法、伝衣の正伝なり。

五祖の、人をしるによりてなり。

四果、三賢のやから、および、十聖、等のたぐい、教家の論師、経師、等のたぐいは、神秀にさずくべし、六祖に正伝すべからず。

しかあれども、仏祖の、仏祖を選するに、凡情、路を超越するがゆえに、六祖、すでに、六祖となれるなり。

しるべし。

仏祖、嫡々の知、人、知、己の道理、なおざりに測量すべきところにあらざるなり。

のちに、ある僧、すなわち、六祖にとう、

黄梅の夜半の伝衣、これ、布なりとやせん? 絹なりとやせん? 帛なりとやせん? 畢竟じて、これ、なにものとかせん?

六祖、いわく、

これ、布にあらず。これ、絹にあらず。これ、帛にあらず。


曹谿高祖の道、かくのごとし。

しるべし。

仏衣は、絹にあらず、布にあらず、屈眴にあらざるなり。

しかあるを、いたずらに絹と認じ、布と認じ、屈眴と認ずるは、謗、仏法のたぐいなり。

いかにしてか、仏袈裟をしらん?

いわんや、善来得戒の機縁あり。

かれらが所得の袈裟、さらに、絹、布の論にあらざるは、仏道の仏訓なり。

また、商那和修が衣は、在家の時は俗服なり、出家すれば袈裟となる。

この道理、しずかに思量、功夫すべし。

見聞せざるがごとくして、さしおくべきにあらず。

いわんや、仏仏、祖祖、正伝しきたれる宗旨あり。

文字、かぞうるたぐい、覚知すべからず、測量すべからず。

まことに、仏道の千変万化、いかでか庸流の境界ならん?

三昧あり、陀羅尼あり。

算、沙のともがら、衣裏の宝珠をみるべからず。

いま、仏祖、正伝せる袈裟の体、色、量を諸仏の袈裟の正本とすべし。

その例、すでに、西天、東地、古往今来、ひさしきなり。

正邪を分別せし人、すでに、超証しき。

祖道のほかに袈裟を称するありとも、いまだ、枝葉とゆるす本祖あらず。

いかでか、善根の種子をきざさん?

いわんや、果実あらんや?

われら、いま、曠劫已来、いまだ、あわざる仏法を見聞するのみにあらず、仏衣を見聞し、仏衣を学習し、仏衣を受持することをえたり。

すなわち、これ、まさしく、仏を見たてまつるなり。

仏、音声をきく。

仏、光明をはなつ。

仏、受用を受用す。

仏心を単伝するなり。

得、仏髄なり。

袈裟をつくる衣財、かならず、清浄なるをもちいる。

清浄というは、浄信檀那の供養するところの衣財、あるいは、市にて買得するもの、あるいは、天衆のおくるところ、あるいは、龍神の浄施、あるいは、鬼神の浄施、あるいは、国王、大臣の浄施、あるいは、浄皮、かくのごとく、衣財、共に、もちいるべし。

また、十種の糞掃衣を清浄なりとす。

いわゆる、十種糞掃衣。

一、者、牛嚼衣。

二、者、鼠噛衣。

三、者、火焼衣。

四、者、月水衣。

五、者、産婦衣。

六、者、神廟衣。

七、者、塚間衣。

八、者、求願衣。

九、者、王職衣。

十、者、往還衣。

この十種をことに清浄の衣財とせるなり。

世俗には抛捨す。

仏道には、もちいる。

世間と仏道と、その家業、はかりしるべし。

しかあれば、すなわち、清浄をもとめんときは、この十種をもとむべし。

これをえて、浄をしり、不浄を弁肯すべし。

心をしり、身を弁肯すべし。

この十種をえて、たとえ絹類なりとも、たとえ布類なりとも、その浄、不浄を商量すべきなり。

この糞掃衣をもちいることは、いたずらに弊衣にやつれたらんがためと学するは至愚なるべし。

荘厳、綺麗ならんがために、仏道に用、着しきたれるところなり。

仏道に、やつれたる衣服とならんことは、錦繍、綾羅、金、銀、珍珠、等の衣服の、不浄よりきたれるを、やつれたる、とはいうなり。

おおよそ此土他界の仏道に、清浄、綺麗をもちいるには、この十種、それなるべし。

これ、浄、不浄の辺際を超越せるのみにあらず、漏、無漏の境界にあらず。

色、心を論ずることなかれ。

得、失に、かかわれざるなり。

ただ正伝、受持するは、これ、仏祖なり。

仏祖たるとき、正伝、禀受するがゆえに、仏祖として、これを受持するは、身の現、不現によらず、心の挙、不挙によらず、正伝せられゆくなり。

ただ、まさに、この日本国には、近来の僧尼、ひさしく袈裟を着せざりつることをかなしむべし。

いま、受持せんことをよろこぶべし。

在家の男女、なお、仏戒を受得せんは、五条、七条、九条の袈裟を着すべし。

いわんや、出家人、いかでか、着せざらん?

はじめ梵王、六天より、婬男、婬女、奴婢にいたるまでも、仏戒をうくべし、袈裟を着すべし、という。

比丘、比丘尼、これを着せざらんや?

畜生、なお、仏戒をうくべし、袈裟をかくべし、という。

仏子、なにとしてか、仏衣を着せざらん?

しかあれば、仏子とならんは、天上、人間、国王、百官をとわず、在家、出家、奴婢、畜生を論ぜず、仏戒を受持し、袈裟を正伝すべし。

まさに、仏位に正入する直道、也。


予、在宋の、そのかみ、長連牀に功夫せしとき、斉肩の隣単をみるに、毎暁の開静のとき、袈裟をささげて頂上に安置し、合掌、恭敬しき。

一偈を黙誦す。

ときに、予、未曾見のおもいをなし、歓喜、みにあまり、感涙、ひそかにおちて衣襟をうるおす。

阿含経を披閲せしとき、頂戴、袈裟の文をみるといえども、不分暁なり。

いまは、まのあたり、みる。

歓喜、随喜し、ひそかに、おもわく、

あわれむべし。

郷土にありしには、おしうる師匠なし、かたる善友にあわず。

いくばくか、いたずらに、すぐる光陰をおしまざる。

かなしまざらめや?

いま、これを見聞す、宿善、よろこぶべし。

もし、いたずらに本国の諸寺に交肩せば、いかでか、まさしく、仏衣を着せる僧宝と隣肩なることをえん?

悲喜、ひとかたにあらず。

感涙、千、万、行。


ときに、ひそかに、発願す、

いかにしてかは、不肖なりというとも、仏法の正嫡を正伝して、郷土の衆生をあわれむに、仏々、正伝の衣、法を見聞せしめん。


かのときの発願、いま、むなしからず。

袈裟を受持せる在家、出家の菩薩、おおし。

歓喜するところなり。

受持、袈裟のともがら、かならず、日夜に頂戴すべし。

殊勝、最勝の功徳なるべし。

一句、一偈を見聞することは、若、樹、若、石の因縁もあるべし。

袈裟、正伝の功徳は、十方に難遇ならん。


大宋、嘉定十七年癸未、冬、十月中、三韓の僧、二人ありて、慶元府にきたれり。

一人は、いわく、智玄。

一人は景雲。

この二人、ともに、しきりに仏経の儀を談ず。

あまつさえ文学の士なり。

しかあれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。

あわれむべし、比丘形なりといえども比丘法なきこと。

小国、辺地のゆえなるべし。

我朝の比丘形のともがら、他国にゆかんとき、かの二僧のごとくならん。

釈迦牟尼仏、すでに、十二年中、頂戴して、さしおきましまさざるなり。

すでに遠孫として、これを学すべし。

いたずらに名利のために、天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する頂門をいま、仏衣、頂戴に回向せん。

よろこぶべき大慶なり。


正法眼蔵 伝衣

ときに、仁治元年庚子、開冬日、記、于、観音導利興聖宝林寺。    入宋、伝法、沙門、道元。


袈裟、浣濯之時、須、用、衆末香和水。

灑、乾之後、畳、収、安置、高所、以、香、華、而、供養、之。

三拝然後、踞跪、頂戴、合掌、致信、唱、此偈、

大哉。

解脱服、無相、福田衣。

披奉、如来教、広、度、諸衆生。


三唱而後、立地、披奉。

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