紅(あか) 二

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 夜が明け、一時課いちじか(午前六時)の鐘が遠く響いた。街中の人々にとって新たな一日が始まったのだ。


 深夜、雷韋らいが召喚獣の背に乗って砦に向かってから、随分と時間が経った。キュウキは雷韋を乗せて飛び立ってから暫くして舞い戻り、無事、召喚円陣サモン・サークルから送還された。それなのに、新しい朝が迎えられたというのに、雷韋は戻ってこない。


 そして更に時間が経ち、城門が開く三時課さんじか(午前九時)の鐘が響いても飴色の髪を栗茶色に染めた少年は戻ってこなかった。


 雪李せつりは家の前で雷韋が戻ってくるのをずっと待っていた。深夜からずっとだ。

 陸王りくおうも深夜、雷韋が出掛けてから居間でまんじりともせずに帰りを待っていた。


 二人共、事の経緯が分からぬままにただ待つ事しか出来ない。

 何も分からないまま時が経ち、三時課の鐘が鳴ったのを機にとうとう陸王が痺れを切らして動いた。


 居間から玄関を抜けて外に出ると、雪李が玄関脇にしゃがみ込んでいるのを見つけた。



「何してやがる」



 どこか苛立った風な声音がでる。

 声をかけられて、雪李は憔悴しょうすいの色濃く陸王を見上げた。



「雷韋を待っているだけだよ。こんな時間になっても、まだ戻ってこない……」

「あのガキ、おそらく下手を打ちやがった。俺はもう行く。闇の妖精族ダーク・エルフと一戦交えても、ここから出てグローヴに向かう」



 そう言って歩み始める。



「ちょっと待って!」



 雪李は突然立ち上がり、陸王の前に立ち塞がった。



「もう少し雷韋が戻ってくるのを待っていようよ。きっと戻ってくる筈だから。それにエウローン卿が雷韋から話を聞いて、今頃は動いてくれてるよ」

「あのガキはここの事を喋った筈だ。この家にいても危険だ。いつ何がやって来るか分からん。なら、こっちから出向いてやるさ」



 言って皮肉げに笑むと、雪李の脇を通り抜けて歩き出した。

 雪李はそれに追いすがり、再び陸王の前に立ち塞がる。



「待って」



 言う口調も、その顔も真剣なものだった。



「しつこいぞ」

「もう少しだけ待って。僕が砦の様子を見てくるから。だからそれまで待って」



 それを聞いて陸王の眉根が怪訝けげんそうに歪む。



「まさか、この真っ昼間に召喚獣を飛ばすつもりじゃねぇだろうな」

「必要ならそうするよ。今の僕には空を飛ぶ方法はそれしかないんだから」



 それを聞いて、更に陸王の顔が歪んだ。



「人目につくどころじゃねぇだろうが」

「うん、だからそれはしない。もっと人目につかないように、インプを呼び出す」



 インプは別名『指先の魔術師』と呼ばれる召喚獣だ。召喚獣と言ってもその姿は獣ではない。その種族は小妖精フェアリーと呼ばれるものだ。現世界と精霊界の間にある次元に棲み、自ら現世界にやってくる者もいる。そして人に悪戯いたずらをするのが、彼らのもっぱらの生態だ。


 インプは体長は十センチほどで、背には蝙蝠こうもりのような翼を持ち、黒い蛇のような尻尾がある。彼らは知能が高く根源魔法マナティアが得意で、指先一つ動かすだけでよく魔術を行使した。

 インプの別名が指先の魔術師となった所以ゆえんはそこにある。


 雪李は陸王の腕を掴み、路地に入り込もうとした。召喚魔法サモンを使う為だ。


 だが陸王は、雪李に掴まれた腕を反射的に振り払った。雪李に触れられた瞬間、怖気おぞけが走ったのだ。あまりにもぞっとする気配だった。

 なんだ? そう思ったが、今はそれを無視する。



「貴様に付き合ってる暇なんざねぇ」

「君は雷韋を信じないの。彼は自分自身の為だけじゃなく、君の為を思ってエウローン卿に会いに行ったんだよ。君の身を案じたんだ」



 雷韋は散々言っていた。陸王と闇の妖精族を戦わせたくないと。それは危険だと。雷韋の言った言葉達が陸王の脳裏を過ぎり、片眉が微かに動いた。



「それに、もし君の言う通り雷韋が下手を打ってしまったのだとしたら、僕らはとうに捕まってるんじゃないかな。でも僕らはまだ捕まっていない。兵士も来ていない。きっと上手くやってくれたんだと思う。だから僕は待つよ。雷韋を信じて」



 雪李はそう言うが、陸王はそれに対して何も言わなかった。



「ただ今現在、何がどうなっているのか分からないのは僕も不安だ。その為に魔術を使おうと思うんだ。様子を探る為に。だからもう少し、君にも待っていて欲しいんだよ」



 いい? と柔らかく聞いてくる。なのにその言葉の響きには、確認よりも命令のような含みがあった。そのまま黙っていろとばかりに。


 知らず、陸王の拳がぐっと握られる。

 それに気付かぬのか、雪李は陸王についてくるように手招きをして路地から裏路地へと移動した。


 人目のない裏路地へ入ると、雪李は地面に向けて手を掲げた。すると地面に根源語マナが円形に浮き上がり、微かに赤い光を放つ。魔法陣ルーン・サークルだ。更にその上に、白い光が被さるように現れた。異空間の扉を開く召喚円陣サモン・サークルだった。直径三十センチほどの二重の陣が展開すると、今度はその中心に黒い煙が立ち上る。それは見る間に翼と尻尾を持った小さな人の形になった。


 インプが次元の向こうから姿を現したのだ。


 現れたインプに雪李が手を差し伸ばすと、その掌の上に小さな魔術師が飛び乗り、キィキィと細い声で鳴く。その鳴き声は陸王にはただ不快なだけだったが、雪李は慣れているのか、顔を近付けて何事か囁くと、軽く息を吹きかけた。その途端、インプはてのひらの上からふっと消え去った。


 まるで、雪李が吹きかけた息に吹き消されたかのように。

 その様を黙って見詰めていた陸王が、インプが消え去ったあとおもむろに口を開いた。



「で、今ので一体何がどうなる」



 陸王の問いに、雪李は自分の掌から陸王に目を移すと、その顔に人好きのする笑みを浮かべる。陸王が胡散臭うさんくさげに思っている笑顔だ。知らず睨み付けていたが、雪李は全く感知していなかった。



「見ていた通りだよ。様子を見に砦まで行かせただけ。四半刻しはんとき(約三十分)もすれば戻ってくるよ」



 裏路地から抜け出しつつ、言う。



「ここで待っていなくてもいいのか。魔法陣はどうする。こんなもん、誰かに見つかったら厄介だろう」

「大丈夫。こんなところ、子供だって寄りつきはしないよ。それにインプは送還されるまでは召喚者のもとに戻ってくる」



 と言った途端、雪李の眉が跳ね上がった。慌てたように雪李は裏路地に走る。反射的に陸王もそれを追った。

 戻った先には、さっき開いた召喚円陣がなくなっていた。魔方陣すらない。



「え?」



 雪李の唇から、呻きに似た声が漏れ出る。



「どうした。何かあったのか」



 陸王が声をかけると、「インプが勝手に帰ってしまった」と呆然とした言葉が返ってきた。



「どう言う事だ」

「僕にも分からないよ。召喚獣が術者の意志とは関係なく勝手に次元の向こうに帰ってしまうなんて……あり得ない」



 雪李は呆然としたまま地面の一点を凝視していた。



「つまり、術が失敗したってわけか」



 問いただそうと陸王が雪李の肩に手をかけようとした時、どこからか声が聞こえた気がした。しかもそれは陸王の名を呼んでいたように思う。同時に雪李の名も。


 聞き覚えのある奇妙に高い声だ。

 それを耳にして、二人は声のする表通りへと出た。

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