第五章

導かれて 一

 広小路ひろこうじから随分外れた街の端を流れる川の橋の下で、雷韋らいは汚物と血にまみれた身体と衣服を洗っていた。汚物だらけの地下牢に放り込まれ、そのあとは茨に巻かれて血を流したのだ。

 全裸になって腰まで川の水にどっぷり浸かり、髪を執拗に洗ったが、汚物の臭いがなかなかとれない。



「くっそ~、まだ臭いがとれないなぁ。絶対臭ってるよなぁ、俺」



 ぶつぶつと言いながらも、あんな場所に放り込まれたからだ、と最後に毒づいた。


 一昼夜、不潔な地下牢の中に入れられたのだ。身体だけではなく服も汚れてしまっている。それも洗っても洗っても汚れがなかなか落ちない。臭いもだ。


 雷韋は昼過ぎ、エウローン卿の砦から脱走した。自分でも何をしたのか分からないままに人が倒れた砦から。


 そして汚れたままの服装では目立つからと、街の隅を移動した。そうすると貧民窟が目につき、そこから出てきた浮浪者の振りをして、こっそり歩く事にした。けれど貧民窟から離れると、嫌でも人の目につくようになった。だから今度は物乞いの振りをして、わざとふらふらと頼りなく歩いた。そしてその途中で、ようやく人目につかない川が流れているのを見つけて、その川岸を渡ってきた。


 街に不案内の雷韋には、そうするよりほか手がなかったのだ。しかもその途中、衛士が近くを通り過ぎる事があった。兵士も彷徨うろついているのを見かけた。全く以て参った事だったが、なんとか無事に行き過ぎる事が出来た。


 それでも生命いのちからがら逃げ出したはよかったが、薄汚くなり、今は銅貨の一枚も持ち合わせていない。宿に泊まるにも金がなければどうにもならなかった。いや、下手に街中に出れば、髪の色や瞳の色、異種族特有の尖った耳などで身元がばれてしまうだろう。ある意味、一銭もない今の方がよかったのかも知れない。けれど、これから先どうしていいか分からなかった。


 お先真っ暗な気分で、川岸に置いてある服を再び丹念に洗い始める。臭いは多少なりとも落ちたが、反対に、どれだけ頑張っても汚れはなかなか綺麗にならなかった。そのうち、指や親指の付け根、手首付近がひりひりと痛み出し始めた。それに陽も落ちてきて肌寒くなってくる。長い髪も濡れたままで、額から顔、首筋から背中にかけてぺったりと張り付いているのも肌寒くなる原因だった。


 仕方なく、汚れが完全に落ちないままの衣服を持って河原でそれを身につけた。それから雷韋は火の精霊を召喚して、火を全身に纏わせる。

 火の勢いに煽られるときはものの数秒の事だった。火はあっという間に立ち消え、雷韋の髪も身につけた衣服も、その僅かな間に完全に乾き切っていた。


 それは精霊の仕業だった。



「さて、どうすっかな。金もねぇし、手配書も回ってるし、兵士も歩き回ってるし。あんまり気ぃ抜いてたら、いつまた捕まっちまうか分かんねぇな」



 飴色の髪の毛を一つに纏め上げながら、独りごちる。


 まだ夕暮れ時の晩課ばんか(午後六時の鐘)は聞こえてこない。今から城門前へ向かえば、きっと人々が閉門前でごたついているに違いない。旅人の数も商隊の数もそこそこある筈だ。その人混みに紛れて兵士の目をかいくぐれるかも知れない。


 それに商人がいたなら、取引用の金と宿泊用の金は別にして持っている筈。取引用の金は荷馬車の荷物と一緒にしている事が多いが、個人用の金は腰に下げている事が多い。門前のごたごたに紛れてその金をるのは簡単な事だった。


 雷韋も金がなければ何も出来ないのだから。


 そうと決めて、雷韋は人気のない橋の下から上がると一路、ここから一番近いだろう西の城門へと向かって走った。その途中、また髪の色や瞳の色などで手配書を頼りに自分を捕らえようとする者もあるかも知れない。兵士だって、衛士だっている。雷韋は外套がいとうの頭巾を目深まぶかに被って移動した。


 目立たないように小走りに走って到着した門前は、案の定、人波でごたごたとしていた。グローヴの鎧を着た衛士が数人いたが、ごたごたに紛れてしまえば背の低い雷韋は人混みに上手くまぎれられる。


 雷韋はまず、外套のうちに精霊界から火影ほかげを召喚した。左手に握られる刃の長さは二十センチほど。

 門前には乗合馬車も到着して、人でごった返している中に雷韋は身を投じた。そしてその中から一つの商隊に目をつける。


 それは到着したばかりの商隊だった。護衛達に周りを囲まれているが、二人の商人らしき人物が御者台から降り立ち、護衛の傭兵達に護衛役が完了した証書を渡している。証書を仕事を請け負った斡旋所あっせんじょに持って行くと、そこで報酬が支払われる仕組みになっているのだ。その証書を受け取り、傭兵達は三々五々散っていった。


 それから商人達は、荷馬車を引く騾馬らばを引き連れて移動を開始した。商館の方へ向かうのだろう事は容易に想像がつく。

 商館には商談の間、あるいは商談までの間、馬や驢馬ろばなどの動物と荷を預かってくれる厩と倉庫があるからだ。


 雷韋はその二人の商人と擦れ違うように歩いた。左手には火影。その刃の先端を何気なく外套の外に出して、一歩一歩と商人に近付いていく。そして擦れ違う瞬間、商人の腰帯にくくり付けられている財布を切り離し、右手でその財布を手に取った。


 それはほんの一瞬の出来事だった。掏られた相手は全く気付いていない風に、そのまま歩き去っていく。

 目深に被った頭巾の奥で、雷韋は一人ほくそ笑んでいた。火影を送還し、広場の隅に移動すると財布の中身をざっとあらためてみた。中には金貨が一枚と銀貨が二十枚ほど、銅貨が十数枚入っている。これだけあれば、余裕を持って旅が出来るだろう。


 中身を検めた財布を左手で握り締めた時、遠くから晩課が鳴り響いてきた。それを耳にして、雷韋は「あ」と声を上げる。この街にいれば確実に捕まってしまうだろうから。

 門衛が辺りを見回して城門を閉じようとする様に、慌てて雷韋は走った。



「閉めるのを待ってくれ」と叫びそうになった時、いきなり襟首をぐいと引かれた。その拍子に頭巾が脱げる。


 衛士か兵士に見つかったかと慌てて雷韋が背後を振り返ってみると、そこには見た顔があった。



「サル、ちょっとこっちに来い」

「あれ? あんた確か……陸王りくおう、だっけ」



 雷韋を捕らえたのは、外套の頭巾を目深に被った陸王だった。陸王は雷韋を門前の広場から隅の方へと引き摺っていく。



「いや、ちょっと待った。俺、急いでこの街を出なきゃなんないんだけど」

「城門が閉まる。諦めろ」

「いやいやいやっ。まだ間に合うって。今行かなきゃ……」

「間に合わん。いいから少し付き合え」



 雷韋の言葉を遮って言いながらも、陸王は雷韋をぐいぐい引っ張っていく。

 雷韋も髪の毛を隠す為、頭巾を被り直しながら陸王に抵抗して必死に足掻いたが、力では全く敵わなかった。どんどん広場の隅に引き摺られていくばかりだ。その間にも城門は閉ざされていく。


 結局、雷韋は裏通りへと引き摺り込まれた。そこまで来てやっと襟首を離される。

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