第35話 樹子の懸念
水曜日に樹子が午前7時に起きて、リビングに行くと、父と母はすでに出勤していて不在だった。特に珍しいことではなかった。
テーブルには2千円が置かれていた。
幼いころはさびしいと思ったこともある。高価な誕生日プレゼントが置かれているより、一緒にケーキを食べて祝ってくれる両親がほしいと願っていた。だが、もう小さな子どもではない。親には親の人生がある。そして自分の人生は自分のものだ。
彼女はお金を財布に入れた。好きなように生きてやる、と思った。
冷蔵庫からトマトジュースを出して飲み、トーストを焼いて食べた。
誰とも話すことなく、彼女は朝の
昼休みにはいつものようにみらいと学生食堂へ行った。
かけそばに飽きたので、きつねうどんの食券を購入。
みらいもカレーライスに飽きたのか、ラーメンを選んでいた。
「ねえ、社会科の勉強はしてる?」と樹子はみらいに訊いた。
「授業を真面目に受けているだけ。家ではしてないよ。成績別クラスには関係ないから」
「社会科も赤点は取らないように気をつけなさい。うちの学校の制度だと、社会を軽視しがちになるけれど、大事だから」
「そうだよね。どうして社会は成績別クラスじゃないのかな?」
「ホームルームクラスの授業を増やして、生徒間の交流を深めるためよ。でも3年生になったら、成績別クラスの分け方が変わって、社会科も重要視されるようになるから」
「どう変わるの?」
「国公立文系クラス、国公立理系クラス、私立文系クラス、私立理系クラスに分かれて、より大学受験に効率的な授業体制になるわ。社会科も成績別クラスに組み込まれて、ホームルームクラスは体育と芸術だけになるの」
「そうなんだ。桜園学院って、受験予備校みたいだね」
「よくも悪くもそういう学校よ」
みらいは少し悲しそうな顔をした。
「お母さんの思惑どおりの学校みたい……」
「親の思惑どおりに生きなければいい。生き方は自分で見つけるのよ」
樹子は自分に言い聞かせるように言った。そして、食べ終えた丼をセルフサービスで返却した。
放課後、樹子は仲間と連れ立って文芸部室へ行った。
友永は不在で、小島だけがいた。元カレの顔を見て、樹子は眉をひそめた。
「中間試験前だから、部長は来ない」
「そう。あんたも帰れば?」
「小生は試験前だからって、あくせくはしない」
彼は中原中也の詩集『汚れつちまつた悲しみに……』に目を落とした。
樹子は地理の教科書を取り出した。
「未来人、あんたも社会科の勉強をしなさい。赤点取ると、マジでやばいから。落第するよ」
「わかった」
みらいも部室で地理の勉強を始めた。
良彦は英語の教科書を広げた。
ヨイチは部室の本棚から横山光輝の漫画『マーズ』の1巻を取り出して、読み始めた。
「この漫画はすげえよ。未来人、おまえも読め!」
みらいはぴくりと反応して、顔を上げた。
「ヨイチ、未来人の勉強の邪魔をしないで! この子はいい成績を取らないと、退学させられるかもしれないのよ!」
「『マーズ』面白そう……」
「未来人、我慢しなさい。試験が終わってから、好きなだけ読むといいわ」
「うん……」
みらいは地理の勉強をつづけた。
樹子はみらいを見つめて、憂鬱そうに口をゆがめた。
この子はいつまで、母親に呪縛されるのだろう。中間試験が終わったら、期末試験でまた昇級しなさいと言われるのではないだろうか。そして2学期の定期試験でも、同じことを言われる。
キリがない。東京大学の合格をめざして、高校生活を暗黒に染められる。
みらいがそれを望んでいるのだったら、まだ救いがある。しかし彼女は無理矢理、日本最高峰の大学への進学を強いられているのだ。
未来人はあたしたちと遊んだり、音楽したりするのを楽しみにしているはずだ。それは、勉強なんかより大切なことなんだ、という確信が樹子にはあった。何よりあたしが未来人と遊びたい!
みらいが自分の気持ちを押し殺して、言われるがままに高校生活を送りつづけたら、いつかきっと彼女の心は壊れてしまうだろう。
母親から、この子をあたしが守らなきゃいけない……。
とりあえず、中間試験は進級に協力しよう。その次の期末試験も同じようにしていい。その次の次も……。
ガンマからベータには、真面目に勉強すれば、たぶん上がれる。しかし、しだいに進級はむずかしくなってくる。
ベータからアルファに上がるのは、かなり難易度が高い。桜園の上級クラスは秀才ばかりだ。
勉強ばかりしていなければ、上がれないようになる。遊んでいる時間なんてなくなってしまう。
それでは高校生活は真っ暗だ。
進級できなくなったら、未来人は本当に親から学費を支払ってもらえなくなるのだろうか?
そんなのって、ひどすぎる……。
みらいが地理の教科書を鞄に仕舞い、世界史の教科書を取り出した。
真面目に勉強するその姿を見て、この子と楽しい高校生活を送ってみせる、と樹子は誓った。
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