強くありたい

天宮さくら

強くありたい

 謙治と愛し合った後のひと時。お腹には入った後の感覚が強く残っていて、肉体は愛を受け止めた影響で充足感に包まれていた。全身で反応して感じたから脳が痺れてうまく動けない。絶頂を感じるのは初めてではないのに、いつも初めて体験することかのように満足感が深い。

 それでも心のどこかに不安が渦巻いて仕方がない。

 このまま目を瞑って寝入ってしまいたい、と気怠い中で思う。けれど謙治をもっと視覚的に味わいたい。だから必死に瞼を上げた。

 彼は私が得た絶頂とは違う感覚に包まれて満足そうに天井を見上げてため息を吐いた。胸が上下する動きに、私は愛の中で忘れていた影を沼から這い出る化け物のように静かに思い出す。

 ───決断しなくてはならない。

 どうしたら良いのかがわからなくて、抱かれる時はそれだけに集中して必死にしがみついた。彼をいっぱいに受け入れて私の全部を満たした。これ以上の幸福感はもう得られないと思うのに、それでも私はどこか満足できていない自分を寂しく思う。

 どこまでいってもすべてが埋まることはないかもしれない。

「ねえ」

 私は横に寝そべり動かない謙治に声をかける。人差し指を下腹部から胸へとそっと移動させる。彼はその行為にほんの少し反応する。けれどそれ以上は応対してくれない。静かにそれを自分の内側で感じるだけで、行動には移さない。

「もうちょっと、だめ?」

 聞いてみる。体は痺れて動けなくて、今にも眠ってしまいそうに疲れ切っている。それなのに脳みそがもっととせがむ。

 謙治は私の疑問をしばらく吟味するように天井を睨んで、そして静かに瞼を閉じた。

 ───ここが限界かもしれない。

 私は彼から指を離し、瞼を閉じた。



 朝目覚めると隣に謙治はいなくて、私は空腹を覚えつつ布団から外を見た。カーテンの隙間から見える窓ガラスは部屋の湿度と外の寒さで少し曇っている。風が強く吹いていてカタカタと揺れる音がした。

 布団の温もりから離れるのが少し辛かったけれど、えいやっと起き上がる。時計を見ると時刻は八時を少し過ぎていた。

 私は手を伸ばして机に置いてあるチョコレートをひとつ口に含んだ。それは真ん中にアーモンドが入っている大粒のもので、チョコが少しずつ溶けて最後に中身を噛み砕くのが私の好きな食べ方だ。

 私はチョコレートが大好きだ。大衆的なものも好きだし、個人店が嗜好を凝らして作ったものも好き。バレンタインになると興奮してしまって、食べ切るのにひと月以上かかるくらいの量を冷蔵庫にストックしてしまう。

 どうして私がそんなにチョコを好きになったのか。チョコをゆっくりと舐めている間、私は過去を振り返る。

 私のチョコレート好きは小さい頃からだった。みんながお小遣いを握って駄菓子屋に行く隣で、私はチョコレート売り場にまっしぐら。遠足にもチョコレートを持って行きたいと駄々をこねて、持っていった先で溶け出している現実を知り悲しい気持ちになったこともある。

 チョコを好きになった決定的な出来事は、中学生の時だった。

 あの時私は一人の男子生徒に恋をしていた。同じクラスのイケメンで、学年の大半の女子が彼に恋をしていたと思う。女子に対していつも親切で、バカの塊みたいな行動は一切取らなかった。

 彼とお付き合いしたいと願う女子たちは、ある年のバレンタインに彼にチョコレートを届けようと考えた。互いに牽制し合い青春をみすみす失うよりも、当たって砕けろな精神で突撃した方が有意義だと判断したのだ。

 そして私もその中の一人だった。

 みんなが手作りチョコだったりスーパーで売っている箱入りのチョコを用意して彼に差し出すことは、なんとなく噂で聞いて知っていた。彼女たちを出し抜き彼のハートを手に入れるには特別なチョコレートが必要だと考えた私は、いままで貯め置いていたお小遣いを切り崩して、一箱一万円以上するチョコを用意した。ベルギーのシェフが作った最高級チョコレートで、買う時はレジの前で本当に買っても後悔しないのか心底悩んだのを今もありありと思い出せる。

 こんなにも素敵なチョコを買ったのだから、きっと彼は私の思いに応えてくれるに違いない。

 ………中学生らしい、無邪気な発想だ。

 私はバレンタイン当日、女子生徒たちから引っ張りだこな彼をなんとか捕まえて、勇気を出して買った最高級チョコレートを差し出した。もちろん、好きだという言葉も添えて。

「ごめん。俺、甘いもの苦手なんだ」

 彼はそう言って私の思いを受け取らなかった。

 断られたのなら仕方がない。私は最高級チョコレートを家に持って帰って一人自室で噛み締めるようにそれを食べた。そして知ったのだ。チョコレートってこんなにも魅力的なものだったのか、ということを。

 それまで食べていたチョコレートは甘味料たっぷりの人工的な美味しさ。けれど手間暇かけたチョコレートは甘さがくどくない。さっぱりとしている。それでいてチョコレート。中に入ったエッセンスもこだわり抜いた味わいで、それが深みを増していた。

 ───これだ、と思った。

 私は一生をかけてこの美味しさを味わいたい。追求したい。もっともっと知っていきたい。そう肌で感じたのだ。どうやったらこの美味しさがこの世に生まれるのか、不思議で仕方がなかった。

 そこからは趣味の範囲でひたすらチョコレートを買っては食べた。安いチョコはそれなりの美味しさがあるし、ちょっと凝ったチョコは面白さがあった。そしてお金をかけたチョコレートには個性があって、好きな味や変わった味が数えきれない程に存在した。

 あの時彼に振られなかったらこの感動を一生味わうことはなかったんだよな、と思う。失うことで得られる何かがあるという人生の格言みたいな言葉の意味を、私はあの時学んだのだ。



 私は大学の食堂で一人、時間遅れな朝食を取ることにした。食堂には私以外誰もいなくて、注文したうどんは驚く速さで提供された。熱々の汁に火傷しないように気をつけながらぼんやりとうどんを啜る。

 季節は冬。あとひと月もすれば年末という時期。四年生はみんな卒論と就活以外何も出来ない状況に追い込まれており、この苦痛から解放される日々を願って生活している。

 私の彼氏である謙治はそんな中、アルバイトに精を出していて最近大学に来ていない。謙治は早々に就職先が決まったし、卒論もほぼほぼ完成しているそうだ。だから後は持て余した時間を最大限有効活用することにしたと言っていた。

 そして謙治と同じ大学四年生の私は、そろそろ終わりが見えてきた。

 うどんを一人啜っていると、目の前の席に誰かが座る気配を感じた。視線を向けるとそこには友人の香帆かほがいて、彼女はじっと私を観察していた。

 香帆とは大学に入って知り合った。私とは違って落ち着いた雰囲気を持っていて、中身も繊細で丁寧だ。ガサツで勢いばかりの私とはまるで違う。それなのに不思議と彼女とは趣味嗜好が合って、本格的な就職活動が始まるまではずっと一緒に行動していた。

 だから今日彼女と会うのは久しぶりだった。

「おはよ、瀬奈せな。今日も一人?」

 香帆の質問に私は頷く。香帆は私の反応を見て安心したように微笑んだ。

「うどん、美味しい?」

 何気ない質問に私はうどんを啜りながら頷く。本心は別に美味しいなんてこれっぽっちも思っていないけれど、それでも謙治に思いっきり抱かれた後なのだ。お腹は自然と空っぽになっていて、今ならどんなものを食べても美味しいと思ってしまう。

 香帆は私の返答に満足したのか、そのまま私の行動を見守るようにしてそこに居続けた。彼女の笑顔の裏側にある感情を知っている私は、それに素直に安心できない。

 ───本当の心を隠し通せていると、彼女は信じているのだろうか?

 器の中の麺をすべて啜り終えて、私は香帆に質問する。

「何か用?」

 香帆は謙治と同様、早々に就職先が決まった組だ。けれど卒論がなかなかまとまらず悩んでいたのは知っている。こうして大学の食堂に来たということは、卒論の完成にはまだ時間がかかりそうなのかもしれない。そこに偶然、私がいた。一人でうどんを啜っていたから近づいてきたのだと思う。

 たぶん、それだけなのだと思う。

 私の質問に香帆は少し驚いて息を止め、そしてしばらく渋い顔をした。

「………別に用という用もないのだけれど」

「そ。ならまたね」

 私はうどんの入っていた器を持って席を立つ。私の行動に驚いたように香帆は視線を私に向けた。それを私は完璧に無視をする。

 ………ちょっと前までは、こんな風ではなかったのに。

 これが数ヶ月前の出来事なら、私はこんな風に彼女を突き放すような行動を取る事なく雑談に興じていただろう。どうでもいい日常の話、最近気になる店の情報、今流行りのトレンド、そして恋愛話。そういった話題を好んで話して盛り上がっていたはずだ。

 でもそれももう昔の話。今はそんな話題を話そうという気もしない。

 お盆を持って席を立った私を香帆は静かに視線で追う。その視線の意味をわからない私ではない。けれど行動を変える勇気が私にはない。

 どうしようもない気持ちを抱えながら急ぎ足で食堂を出た。



「あ〜寒い寒い! 明日からは雪が降るかもだってさ」

 そう言いながら謙治が勢いよく玄関の扉を開けた。安い学生用アパートは扉がちょっと開いただけでそれまで部屋に溜めた暖かい空気が一気に抜けていってしまう。私はほんの少し肩をすくませながら、おかえりと声をかけた。

 謙治と同棲して二年。一度倦怠期を迎えたけれど努力の甲斐あって、今では程よい緊張感と脱力感を持ちながら二人の生活を続けることが出来ていた。

 一緒に食事して、一緒にお酒飲んで、一緒に話をして、一緒に遊んで、そして一緒に寝る。日常に互いを溶け込ませて、激しい感情の波はないけれど、穏やかでどこまでも安堵する平和を築くことに成功していた。

「今日は何のアルバイトだったっけ?」

「今日は交通量調査。やっぱ冬にやるバイトじゃねぇな。すっげええた」

 謙治がコートを羽織ったまま炬燵に足を突っ込んだ。想像以上に冷たい足が入ってきたことで、びっくりするくらい勢いよく炬燵の中の温度が下がる。

 謙治は今、短期のアルバイトと長期のアルバイトを組み合わせて一日中働いている。親からの仕送りはあるし就職先も決まっているのだからそんなに働かなくってもいいもんなのに、暇なのは性に合わないという理由でスケジュールいっぱいにアルバイトを入れているのだ。

 周りの友達はみんな卒論と就活で遊ぶ暇もないから、寂しいのかもしれない。

「夕飯、今日は鍋にしようと思うんだけど」

 私の提案に謙治がニカっと笑う。

「それはいいな! 助かる! ホント、寒すぎて死にそうだったんだよ」

 そう言って謙治は炬燵の中で両手を擦り合わせた。必死に暖を取ろうとする彼を見ていると、心の底からホッとする自分に気づく。

 ───ずっと、このままでもいいのかな。

 そう、揺らぐ自分がいる。けれどそれを決断する勇気が、日々薄れていくのを実感している。

 寒い寒いといいながらスマホをいじり出した謙治を横目に、私は炬燵から出て鍋の準備を開始することにした。



 お風呂から出て布団に横になりながら静かに謙治の存在感を味わう。今日は一緒になることはない。昨日あれだけ激しかったのだから、それは仕方のないことなのだろう。隣に謙治がいる、という奇跡を噛み締める。

 味わいながら、今年の秋に見た光景を思い出す。

 あの日、私は少し落ち着かない気持ちでいた。卒論のテーマはいつまで経ってもぼんやりとしていたし、就職活動は地元から離れるか居続けるのかの選択で心が揺れ動き続けていたからだ。

 謙治はあの時、公務員試験に合格していた。春からは県庁職員だ。彼のような性格の人間は公務員に向いていないと思っていたし、きっと落ちるだろうと本人も笑っていたから、受かったと聞いた時は耳を疑った。

 謙治が地元で公務員を続けるのなら、私も地元に残った方がいいかもしれないと考えた。じゃなきゃ、大学卒業と同時に離れ離れの生活になる。遠距離恋愛を続けられるほど私たちの繋がりに深さを感じていなかったし、卒業するまでにこの関係をより深くすることはできないだろうとも思っていた。

 謙治とこれからも付き合い続けるのなら、私は地元で就職すべきだ。

 けれどそうしたくない自分を認識していた。もっと大きな世界を見たい、もっと自分を試してみたい、何よりもっと挑戦してみたかった。地元の小さな会社に就職して謙治の側に居続けるのも幸福だろうと想像できるけれど、それ以外の選択肢を投げ捨てたくはなかった。

 そう悩んでいた時に、大通りを挟んだ向こう側に謙治がいた。謙治は隣を歩く人と楽しそうに話をしていて、その隣の人が香帆だった。謙治はいつもと変わらない様子だったけれど、香帆は違った。私がいままで見たことのない女らしい表情で、幸せそうに笑っていた。

 ───あの時に知ったのだ。香帆は謙治のことが好きなのだと。

 あの後、私は真っ直ぐに家に帰ってじっと謙治の帰りを待った。帰ってきた謙治を問い詰めるようにして話を聞き出すと、どうやら私の誕生日プレゼントの相談に乗ってもらったらしい。もちろん、発案者は香帆だった。

「何? 嫉妬?」

 謙治が嬉しそうに言う言葉に私は感情が乱されて、嬉しかったのと恥ずかしかったのと、そして戸惑った。………謙治がいない生活を自分は心底恐れていることに気づいたから。

 二人が並んで歩いている姿を見たあの日から、私は香帆と距離を置くことにした。香帆がいつから謙治のことを好きなのか、私はまるで知らない。けれど思い返せば謙治を私に紹介してくれたのは香帆だった。同じ高校出身なのだと自己紹介してくれた。

 きっと香帆は長いこと片思いをしていたのだ。それに気づかず私は謙治と仲良くなって付き合って、そして同棲した。恋人同士でなければ出来ないことを様々した。

 ………香帆がそれをどのような気持ちでそれを見ていたのかを想像すると、体の中心が固く冷たくなっていく。憎くて仕方なかったかもしれない。涙が止まらない時もあったのかも。もしかしたら早く別れてしまえと呪っていた時もあったかもしれない。

 もしそうだとしたら、申し訳ないことをしたなとは思う。けれど私だって謙治が好きなのだ。だから大学生活の半分以上を彼と過ごして、自分を彼に染めて、彼に馴染んだ。その努力を怠らなかったしそのための勇気を振り絞った。その結果が今、私の隣で寝ることになったのだ。

 私は人差し指でそっと謙治に触れてみる。疲れ切っているのか、私がちょこんとつついても起きる気配がない。指先に感じる体の温かさに胸の奥底がぎゅっと痛んで鼻の奥がつんと詰まる感じがした。

 ───そろそろ、決断しなくてはならない。



 朝早くに、謙治はいつものようにアルバイトに出かけて行った。

 私は台所でお湯を沸かしながら横目で手紙の文字を読んだ。そこには「おめでとうございます」という文字が太文字で、一行目にでかでかと目立つように印字されていた。

「まさか本当に決まっちゃうなんてね」

 そう呟いてみる。一人きりの部屋に呟きがすっと消えていく。

 私が横目で見ているのは内定の手紙。ずっと憧れていた職業に手が届いた証。それは、チョコレートバイヤーだ。

 チョコレートバイヤーは世界中を飛び回り世界各国で作られているチョコを食べ、美味しいと思ったものをセレクトして日本国内に流通させるのが仕事だ。

 私はチョコを好きになったあの日から、チョコに関することならなんでも調べていた。作り方、カカオのこと、アレンジ方法、歴史、なんでもだ。それらの情報の中に、チョコレートバイヤーに関することがあった。

 自分の好きなものを食べて、それを売る。なんて素敵な商売だろうと思った。それが一生の仕事になるなんて、人生はなんて楽しいものなんだろうと考えた。この職業をするためには世界各国の言葉を操る技術が必要だと知り、チョコに対する知識をもっと増やしていかなくてはならないと思った。気軽な気持ちで叶えられる夢ではないことは感じていたけれど、もし自分が仕事に就くのならこれがいいと思ってしまった。

 夢を叶えるために高校では必死に勉強して、多くの外国語を学べる大学に頑張って進学した。授業を通じていろんな国の言葉を操る技術を身につけて、そして謙治と出会ってしまった。

 内定が出たのは一昨日のこと。このことを謙治にはまだ伝えていない。

 私の夢を叶えようと思うなら、この内定を辞退するなんてことはあり得ない。喜んで受け入れて颯爽と地元を立ち去り、もう二度とここには戻らないつもりで世界に羽ばたく。それが私の理想で長年の夢なのだと、頭ではわかっている。

 でもそれと同時に、その夢を叶えるということは謙治と別れる未来を受け入れるという事実が待ち構えている。それを恐れている自分がいる。

 謙治と過ごす日々は、もちろん腹の立つこともあったし許せないこともあった。悔しくて泣いたことだってある。でもそれ以上に一緒にいて幸せな日々だった。同じものを見て違う感想を言い合い、美味しいものを食べて楽しい時間を過ごした。一緒に手を繋いで外を歩いて、体を重ねて感じ合った。

 あれらすべてを失うのが、怖くて堪らない。

 謙治は私の人生を彩ってくれた大切な人だ。大好きだ。愛している。

 でも、それと同じくらい、この仕事に就きたい自分がいる。世界を股に掛けてチョコレートを探し求め、日本中の人たちがそれを食べて幸せを噛み締めてほしい。私が仕事をすることで、大勢の人が知らなかった世界を味わって欲しい。その希望を叶える可能性を秘めた内定が、私の手元にある。

 ───それを手放すことなんて、出来るわけない。

 私は深呼吸する。少しは気持ちを落ち着けられるのではないかと期待してのことだったけれど、これっぽっちも静まらない。画用紙を無理矢理丸めるような強引さで、感情がぐしゃぐしゃになって混乱する。

 謙治と一緒にいたい。でも、夢を叶えたい。

 公務員として地元に残る謙治となんとか頑張って遠距離恋愛をすることを、何度も何度も頭の中でシミュレートした。初めの一年はなんとかやっていける気がするけれど、そこから先は真っ暗になる。すれ違うのは目に見えていたし、会話も成り立たなくなる気がした。何よりも、香帆が気になった。

 私が側からいなくなって、その隣には長年自分を思い続けてきた女性がいたとしたら、どうするか。そんなの、複雑に考えなくったって答えはわかる。

 ───もう、終わりにしよう。

 お湯が沸いた音がする中、私は覚悟を決めるために一人、啜り泣いた。



 夜、謙治と手を繋ぎながら横になった。外は風が強く窓を揺らし冷たい空気が隙間から部屋に忍び込む。芯のところが冷え切っていて手足が震えた。一人ではどうしても熱を補えなくて、でも彼を頼るわけにはいかないと感覚的に察していた。

 決意を伝えるのなら今しかないと、覚悟を決めた。

「ねえ、起きてる?」

 寝ていると答えてほしい───ほんの少しの期待を込めて尋ねる。けれど謙治は応えてくれた。

「まだ起きてる。何?」

 暗闇の中で見上げる天井は、ついさっきまで明るさを保っていたとは思えない程に真っ暗だ。何も見えない天井を私はじっと睨みつける。

「………あのね………私、就職決まったの」

 呟いた言葉が部屋に拡散していく。自分で発した言葉なのに、どこまでも現実味がなくて頼りない。

 少し、弱気になる。

「そっか。よかったじゃん。で、どこに決まったの?:

 彼は私の戸惑う心に気づかない。静かに揺れることなく受け応える。

 それが、彼との別れを予感させる。

「ずっと………憧れてたところ。前に話したでしょ? 東京にあるチョコのバイヤー。あれ」

「へえ、よかったじゃん。おめでとう」

 私は彼の明るい言葉に涙腺が滲む。不安な気持ちに耐え切れなくて彼を見る。彼は目を瞑ったまま天井に顔を向けていた。

「だから………………別れよ」

 泣きそうになる自分を必死に堪えて伝える。その言葉に彼が動揺してくれることを祈りつつ、でも彼が同意することを祈った。

 謙治は私の言葉の意味がわからなかったらしく、目を瞑ったまま眉を寄せた。

「なんで?」

「だって、謙治は春からここで公務員でしょ? 私は東京に行って、しかも世界中を旅するんだよ? もう一緒にはいられない」

 鼻の奥がつんと痛む。堪えていた涙が頬を伝った。離れ難くて仕方がないのに、そうしないと夢が叶えられない現実が襲う。こんなことになるのなら付き合わなければよかったと、今更後悔が押し寄せてくる。

 ───でも、私は夢を叶えたい。

 ずっと憧れていた職業だ。そのために勉強して努力を重ねてきた。その結果が手元に届いたのに、それを彼から離れるのが怖いから捨てる、だなんてこと、したくなかった。

 謙治は私の理由にますます眉を険しくさせて、眉間に皺が寄った。

「だからなんで? 別に俺、公務員になるなんて言ってないんだけど」

「………は?」

 横に流れていた涙が一瞬、止まる。予想外の答えに何度も目を瞬かせる。

 暗闇の中、謙治が瞼を開いた。

「公務員は別になりたくて受験したわけじゃねーし」

「いや、何言ってんの? 公務員だよ? 一生安泰じゃん。就職先が決まったから最近ずっとアルバイトばっかりしてたんでしょ?」

「そりゃまあそーだけどさ」

 謙治はそう言って私の方を向いた。その表情は少し怒っていて、それでいて笑っていた。想定外の反応に私はどう返事したらいいのか戸惑う。

「瀬奈がさ、このまま地元にいるってんなら公務員にでもなろうかなって思ってた。でも東京に行くんだろ? じゃあ俺も東京に行くよ」

 優しい言葉に、ずっと抱いていた影が消えていくのを感じた。

「………就活、再開するってこと? この時期に? 希望の就職先なんて無くなっちゃってるかも」

「それならそれで、来年転職すればいーじゃん」

「そもそも正社員として雇ってくれるとこないかも」

「だったらしばらくアルバイトで食いつなぐかな。その間はさ、瀬奈、俺を養ってよ」

 そう言う謙治に私は少し頬を膨らませる。謙治は私の反応に笑い、ゆっくりと頭を撫でてくれた。

「いいじゃん東京。一緒に行こうぜ。それでまた一緒に暮らしてさ、いつか結婚しようよ」

 自然と涙が溢れて止まらない。予想以上に魅力的な回答に自分がずっと抱いていた不安が霧散していく。

 謙治は私からの返事も聞かず、ゆっくりと深くキスをした。キスだけなのに、熱さでトロけるチョコレートのように肉体全部が満たされた。

 ───強くありたい。

 些細な未来に不安を抱かず、彼の愛を信じていられる。そんな強さを手に入れたいと、強く思った。

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