第187話
アルデノを出て更にずっと北へと向かえば、やがてツィアー湖へとぶつかる。
ツィアー湖とその周辺を領土とし、水運業で栄える小国、ツィアー共和国は……、実は小国家群の中でも最も多く訪れた事のある場所だった。
何せ船を使って小国家群を移動するなら、必ずと言っていい程にツィアー湖は経由するのだ。
尤も、多く訪れたと言っても、移動経路として立ち寄るばかりであったから、特に深い思い入れは持っていない。
ツィアー湖に関しては大きく、美しいと感動はさせられるが、ツィアー共和国となると然程に強い印象が……、あぁ、いや、一つだけ覚えてる事がある。
このツィアー湖を挟む二つの都市、フォッカとルゥロンテはまるで水面に映したかのように対称の、双子のような都市だ。
フォッカとルゥロンテの町は本当にそっくりすぎて、ツィアー湖を経由して小国家群を移動する際、船がどちらに立ち寄って休息を取ったのか、俄かには判別が付かないくらいだった。
しかし今回、僕が陸路でフォッカに入った所で、空模様が変わって生憎の強い雨となってしまう。
こうなるともう、ツィアー湖を渡る為の、或いはそこから川の流れに乗る為の、船が暫くの間は運航しない。
増水した湖、流れの速さを増した川はただでさえ危険な事に加え、水中の魔物の活性も上がってしまうのだ。
単なる魚の活性が上がるのであれば、よく釣れて嬉しい程度で済むかもしれないけれど、魔物となるとそうもいかない。
普段から船は魔物に対応できるように十分な備えをしているけれど、それでも万一の事態は起こり得る。
強い雨で魔物が勢い付くなら、尚更に。
先を急ぐ商人達だって魔物の餌にはなりたくないから、空に向かって呪いの言葉を吐きつつも、大人しくフォッカに留まり、川や湖が落ち着くのをジッと待つ。
それ故にフォッカでは、今日は宿と酒場が盛況だ。
まぁ僕も普段は多少の雨は気にしないし、そのまま旅を続けるのだけれど、流石に船が動かねばツィアー湖を渡るのは少しばかり遠慮したい。
水の上を歩く事だってできなくはないが、距離が長いとそれなりに疲労する。
ましてや荒れた湖面、襲って来る魔物の存在を考えると、余程の事情がなければ好んで無理をしようとは思わなかった。
ツィアー湖をぐるりと迂回するにしても、遠回りになるし、途中で何本も川にぶつかる。
別に急ぐ旅ではないのだし、雨が二日、三日降り続いたとして、川や湖が落ち着くまでに更に数日、……一週間もあれば船も再開するだろうから、それまでは宿でのんびり過ごすとしよう。
「すまないね……。見ての通り、今は席が一杯なんだよ」
そして僕は酒場で、忙しそうな店主に入店を断られる。
フォッカの町は訪れる人が多く、また急に船が出せなくなるといった事情も発生する為、泊まる場所、宿の部屋数は多かった。
しかし食事処はというと、普段からそれに見合う働き手を確保しておく事は難しい。
今のフォッカは、身動きが取れないため商人や船乗りが、その鬱憤を晴らすべく酒場に長居するのだ。
故にどこの酒場も混んでいて、……確かに入れる隙間はなさそうだった。
不幸にも泊まれたのが食事の付かない素泊まりの宿だった為、このままでは僕は夕食にありつけなくなってしまう。
いや、もちろん一日くらい食べなかったところで、もっと言えば荷物袋に入ってる仙桃を一つ齧れば、一週間くらいはそれだけで過ごせる気もするのだけれど……。
折角の町で温かい食事にあり付けないのは、やはりどうにも悲しかった。
それに仙桃は使い道に一応の予定があるから、あまり無駄にもしたくない。
すると店主は、僕のその顔に何を思ったのか、
「あっ、でもよ。うちの店は、見ての通り人手が足りないんだ。……それで簡単な客への給仕をやってくれる奴がいれば、さ。給料と、賄いで飯を振る舞えるぜ」
そんな事を言い出す。
それはちょっと、今までに経験のない申し出だった。
料理をしろって言われたならば、僕は即座に断っただろう。
野営での簡単な料理くらいはしなくもないが、手の込んだ物を他人に出せる程、僕は自分の調理技術に自信はない。
けれども給仕、……給仕、給仕かぁ。
何だか少し、面白そうに感じてしまう。
給仕と言われて、僕が即座に思い出す人物は、間違いなくもう既に亡くなっているだろうけれど、ヴィレストリカ共和国の町で出会ったカレーナだ。
彼女の身のこなしは見事で酔った船乗りや漁師の間を縫って、テーブルに料理を運んでた。
時には身体に向かって伸びて来る不心得者の手も、するりと躱して。
あの頃はただ、カレーナの技術には感心するばかりだったけれども、ヨソギ流を本格的に学んで、東の地でも仙人から多少の武の手ほどきを受けて、今の僕は身のこなしにだって自信がある。
もしかしたら彼女のようにも、やれるだろうか。
そう、ふと興味が湧いたのだ。
尤もカレーナが凄かったのは恐らく諜報員としての訓練を受けていたからで、他の給仕、例えば白河州の酒場で出会った給仕、スゥなんかは全く普通の女の子だったが。
特に既定の服装があるという訳でもないそうだから、僕は店主のエプロンの予備を借りて身に着け、テーブルからテーブルへと料理を運ぶ。
酔った客の注文を聞き取る事はまだ僕には難しいから、ベテランの給仕が注文取りを中心に動く。
注文の受け間違いは、最も大きなトラブル要因だ。
その分、僕は持ち方を教わった酒や料理を、テーブルに届ける事に専念する。
これぞチームプレイといった感じだが、中々どうしてこれが意外と面白い。
更に嬉しい事に、仕事が終わった後に店主が出してくれた料理は、賄いという言葉からは想像もできなかったくらいに手の込んだ料理で、味も量も実に満足の行く物だった。
船が動き出すまでの一週間、このまま給仕を続けないかと問われた僕は、賄い料理に膨らんだ腹を抱えながら、二つ返事で頷く。
それから一週間、僕は給仕として、先日のように夜だけでなく、朝から酒場で働いた。
店主は中々に人を使うのが上手い男で、すぐに僕は彼の口車に乗せられて調理の補助も行うようになる。
まぁそうはいっても材料を切るだけで、実際に調理と呼べる程の複雑な物でもないけれど。
実は、包丁を作った事は割と沢山あるけれど、包丁で物を切るって経験は、あまりない。
野外で料理をする時は、持ち運び易く、他の用途にも使えるナイフを使う。
だからその癖で、偶に気が向いて町中で料理をする時も、ナイフで済ませてしまうのだ。
だけど自分や知人が食べる料理ならさておき、酒場で客に食べさせる食材を、僕が持ってるナイフで切る訳にもいかないだろう。
僕は持ち方、切り方を少し店主に注意されながらも、芋や野菜や肉を、包丁で切り分けた。
……肉を包丁で切るのは、意外と難しい事にも気付く。
普段使ってるナイフは、そう、ちょっと切れ味が良すぎるから、普通の包丁に苦戦する。
給仕の方は順調で、イメージ通りに身体を動かし、スムーズに酒と食事をテーブルに運ぶ。
時には酔って他の給仕に絡んだ酔客を、店主の許可を得てから店外に叩き出しもした。
店主とも打ち解けて、店が終わった後に一緒に酒を飲んだりもする。
彼の名前はラダールで、実は出身はジャンぺモンらしい。
もしかすると以前にも、どこかですれ違ってたりするのだろうか。
一週間が過ぎるのはあっという間で、船は再び動き出す。
店主、ラダールや他の給仕達からは惜しまれたけれど、足止めはこれで終わりだ。
僕は彼ら一人一人の手を握り、別れの言葉を交わして船に乗る。
フォッカから船でルゥロンテに辿り着けば、そこからオディーヌまでは、もう然程に遠くない。
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