第184話
朝霧が立ち込める中、僕は呼吸を整え、剣を振るう。
霧を切り裂くのではなく、その霧を成す小さな小さな水の粒を、切るように。
当たり前の話だけれど、これが中々に難しい。
少なくとも今の僕には、まだ届かない領域だ。
でもきっと、カエハならできた。
僕と違ってハイエルフの感覚を持たなかった彼女だけれど、それでも霧を構成する水の粒を見極めて、切れただろう。
だったら僕も、何時かはその領域に辿り着かなきゃいけない。
カエハの死から、十数年。
一歩か二歩は、あの背中に近付けたように思う。
だけど十数年掛けても、一歩か二歩だ。
なんて遠い背中だろうか。
先日、ノンナの墓に参ったからか、どうにも少し感傷的だ。
次はルードリア王国のカエハの墓まで、さっさと走って行きたい気持ちが、少しだけ湧いていた。
別に急ぐ必要はないと、そう思っている筈なのに。
雑念を払うように、剣に集中する。
一つずつ丁寧に、まだ遠い理想に近付こうと、剣を振るう。
目指す先の遠さは苦しみであり、喜びでもあった。
そしてそれとは全く別に、こうして剣を振るう事は、純粋に楽しい。
ふと、人がやって来る気配を感じて、僕は剣を振り終わった姿勢で、動きを止めた。
ここは宿の屋上で、見知らぬ者はやってこない。
以前の宿にはそんな広い屋上はなかったのだけれど、大きく改築された結果、増える洗濯物を干す為の、大きな屋上が設けられたのだ。
まぁこんな早朝に干されてる洗濯物は一つもないから、僕がこうして鍛錬に借りる事もできるのだけれど。
動きを止めたまま、ちらりとそちらに視線をやれば、アイナがこちらを覗き見てる。
……また随分と、今日は早起きだ。
怖い夢でも見たのだろうか?
話を聞こうかとも思ったが、ここで声を掛ければ、彼女は僕の邪魔をしてしまったと思うかもしれない。
だったらもう少しばかり鍛錬を続けてから、その後で話し掛けた方が良いだろう。
僕はそう考えて、再び剣の鍛錬を再開する。
呼吸を整え、丁寧に振るう。
それから構えを取らずに、最小限の動きで後ろに振り向き、サッと剣を振るう。
右にも左にも、四方八方に。
丁寧に振った斬撃が鋭いのは当たり前で、その更に先を目指して振るう。
静かで凄絶で、全てを断つと確信したカエハの剣を、目指して振るう。
四方八方に振るう剣が、丁寧に振った時の鋭さを、大きく下回ってはいけない。
構えを取らずとも、心の準備ができずとも、右でも左でも後ろでも、鋭く振るえるのが、カエハの剣だった。
汗か、それとも霧の水気か。
僕の身体を、水滴が流れ落ちる。
観客は、僕の剣に何を思うのだろう。
何かを思わせる力が、僕の振るう剣にはあるだろうか。
もしもアイナが、夢見が悪くて起きてきたのだとしたら、そんな悪い夢は切れてしまえと、僕は剣を大きく振るった。
鍛錬を一通り終えた僕に、こちらから声を掛けるまでもなくアイナは近づいて来て、
「エイサーさん! びゅんって! 凄い!」
目を輝かせて僕にそう訴える。
どうやら僕の剣の鍛錬が、彼女はお気に召した様子。
足りない語彙で、けれども物凄く純粋に褒めてくれるから、多少面映ゆいけれど、決して悪い気はしない。
けれどもその後に続く一言が、少しばかり僕を困らせてくれた。
「それ、アイナにもできる?」
きっとアイナは単純に憧れから、僕を真似たいと思ってくれたのだろう。
そしてできるかできないかで言えば、できるのだ。
何しろヨソギ流は、偉大な女剣士が振るった剣である。
カエハや、ユズリハ・ヨソギが振るった剣なのだから、性差はハンデにはなったとしても、越えられない壁じゃない。
また僕は、ツェレンという名の少女にも、ヨソギ流の剣を教えた事があった。
できないなんて言葉は、嘘になる。
……しかし、できると答えてしまうのも、僕には少し躊躇われた。
何故なら、アイナはこの宿に生きる少女だから。
その生き方に、果たして剣は必要だろうか?
恐らくそれは否である。
むしろ剣を握り、僅かばかりの武力や自信を持つ事で、命を縮める場合だってある筈だ。
例えばこの町がズィーデンに攻められ、占領されたとして、武器を握って抵抗した為に殺されるって未来は、絶対にないとは言い切れない。
もちろん無抵抗なら助かるのかといえば、それはどうか、わからない。
けれども本気で学び、その道に生きようとするのでなければ、アイナは剣を握るべきじゃないだろう。
憧れからカエハの剣を追い掛けた僕が、アイナの憧れを否定したくなんて、ないけれども。
「どうかなぁ? でも物を振り回すと危ないから、お母さんに怒られるかもね」
だから僕は、そう言って誤魔化す。
僕にアイナの生きる道を決める資格はない。
もし仮に、彼女の母、シェーネが構わないと言うのなら、基本の練習方法くらいは教えても構わないと思ってる。
だけどそれ以上は、僕だってそこまで長くはこの町に留まり続けないだろうから、不可能だ。
アイナは残念そうに唇を尖らせ、でも一応は納得したように、頷いてくれた。
僕は彼女の頭をくしゃりと撫でて、共に屋上を後にする。
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