第169話
「スクロームの連中だ!!」
帆を張る支柱に備え付けられた見張り台から、周囲を警戒していた船員のひと声を切っ掛けに、俄かに船は騒がしくなった。
スクロームというのは、この船の目的地であるミンタールに近い規模を持つ大きな国で、この辺りの海の覇権を争うライバルの名だ。
つまりは、やはり海洋貿易で栄える国である。
では一体何故、この船の船員達はこんなにも慌て、警戒しているのかといえば、……スクロームの軍船は、ミンタールと取引する商船にとっては海賊に他ならないからだろう。
当たり前の話だが、ミンタールと取引する商船は、スクロームにとっては彼の国を富ませる目障りな存在だ。
故にその取引を阻害する事は、スクロームという国にとっては至極当然で、近海の覇権を握る為に行う国策の一つである。
但し危険も多い海に出て商取引を行う商人、商船は貴重な存在でもあるし、取引相手を変える場合も少なくはないので、殺してしまったり船ごと沈めたりは、滅多にしない。
ただ通行料と称して金銭や積み荷の一部を徴収し、ミンタールとの取引に利がないと思わせるのが、スクロームの軍船の仕事だった。
尤もこれに関しては、ミンタールもスクロームに対して、また別のライバル国家と取引する船に対して、同様の行為を行っているからお互い様だ。
僕の感覚からすると野蛮に思えてしまうけれども、それがこの海の常識なのだろう。
因みに軍船ではない海賊船も少なくはなく、中には国の許可を得た海賊船、私掠船なんかも存在してるらしい。
遠くを見れば、確かに立派な軍船が一隻見える。
甲板に備え付けられているのは、大きなアンカーを撃ち出す為のバリスタか。
僕は船の装備といえば大砲を連想してしまうのだけれど、この世界に火砲の類はまだ存在しない筈だから、軍船であっても船首の衝角(ラム)にバリスタ、カタパルトが主だった。
要するにそれのみで船を沈めるには些か物足りない武装だ。
なので遠距離攻撃は相手の移動を阻害、制限する物で、本命は接舷しての切込みとなるのだろう。
相手の船は帆で風も受けるが、主な動力は人力による手漕ぎのガレー船。
漕ぎ手は接舷後は戦闘要員にもなる為、兵力では向こうがこちらの船を大きく上回る。
だけど速力は……、今は風が良いから、商いの為に船に多くの荷を積んでいても、帆船のこちらが勝っていた。
「まだ距離がある。全力で逃げ切るぞ!!!」
どうやら僕と同じ判断を下したらしいこの船の船長、黄古帝国人のスインは、船員達に逃走を指示する。
見張りが相手の船を見付けたのが早かったから、彼我の距離は十分だ。
このまま何事もなければ、逃げ切る事は可能だろう。
……そう、何事もなければ。
しかし残念ながら、やはりそんなに都合よく事は運ばないらしい。
たとえこの海の上では略奪行為が任務であっても、軍という存在は並の賊とは大きく異なる。
それは精神性なんてあやふやな物ではなく、兵の練度、武装の質、数といった、力に直結する要素が。
そしてこの場合に問題となるのは、三つのうちの最後の一つ、数であった。
「スイン船長、この方向はダメだよ」
海の上では船長、船員に身を預ける事。
それがルールであるから、口を挟むべきかは少し悩んだが、僕は意を決して、指示を出す事に忙しそうなスインに近付き、口を開く。
「あぁ? 幾ら森人様でも海の上じゃこちらの指示に従って貰う約束だったろ。今は見ての通り忙しいんだ。黙っててくれ」
殺気立った雰囲気のスインは、それでもできる限り語気を荒げないようにしながら、僕に向かってそう告げる。
まぁ、その反応は当然だ。
黄古帝国人でも稼ぎが多く、知識もあるスインだからこそ森人、エルフを殊更丁重に扱ってくれているけれど、他の国の人間だったら怒鳴り散らされていただろうタイミングで、僕は声を掛けていた。
「うん、それは分かるんだけれど、この先に二隻、別の船が待ち伏せてるから。多分このままだとスイン船長が困るんじゃないかと思ってね」
でもそれは、スインなら僕の話を聞いてくれると思ったからだ。
恐らく先の二隻と後ろから追って来る一隻は、最初から共同して動いているのだろう。
でなければ速度に劣り、距離も詰めれない後方の軍船が、諦めずに追って来る理由がないから。
数に勝る軍だからこそ行える、包囲。
今僕らは、網に向かって追い込まれてる。
僕の言葉に、スインの表情が険しく歪む。
今の状況を、正しく理解したからだ。
逃走を選択した事を、今は後悔してるのだろう。
当然の話だが、素直に停船した場合と、逃げようとして捕まった場合では、徴収される金や積み荷は大きく変わる。
そうする事で次の逃走の意思を削ぎ、ついでに他者に対する見せしめともする為に。
或いは、三隻の軍船の船長達が、軍務ばかりでなく自らの欲にも忠実だったなら、徴収する額を増やそうと敢えて逃走を誘発したのかもしれない。
軍船であっても、やはり船の上では船長の持つ権限は大きく、徴収した額が大きければ、中抜きでそれなりに私腹も肥やせるだろうから。
尤もそれを、僕は悪い事だとは思わなかった。
軍人であっても危険な海に出る以上、何らかの役得がなければ、やっていられないのも確かだろうし。
ただ一つだけ気に食わない事があるとすれば、僕が乗り合わせた船をその対象とした事だ。
スクロームの軍船にだってそれぞれの事情がある。
でもそんな事は、スインや他の船員だって同様だろう。
徴収に応じれば、次の商取引に影響が出ると考えたからこそ、スインは可能であるならば逃げるとの選択を取った。
だったら僕は、乗った船で世話をしてくれている彼らの事情を優先したい。
「あっちなら、逃げれるよ」
僕は指を差し、方向を示す。
今、船は帆に追い風を受けているからこそ、ガレー船である追手の軍船よりも速度が出てる。
だが向きを変えてしまえば風の恩恵は半減し、手漕ぎで動力を得るガレー船に捕まってしまうだろう。
だからこそ他の二隻の軍船は、風下で網を張っているのだ。
でもスインは僕の顔を数秒、ジッと見詰め、
「あいよ、森人様を信じるさ。取舵だ! 風が変わるぞ! 備えろ!!!」
大声で船員に指示を出す。
あぁ、海の男は誰も彼も、割り切りが良い。
その大声も、びりびりと響いて心地良かった。
「風よ、水よ」
故に僕も、協力は惜しまない。
吹き抜ける風の精霊。
雄大な海に宿る水の精霊。
その両者に僕は助力を願い、向きを変えた船を強く強く後押しする。
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