episode8−1 しばしの間だとはいえ

 ほかほかと。

 白い湯気を放つ『それ』は、思わず鼻をひくつかせてしまう、ほのかに甘くいい匂いを漂わせていた。

 つるっと丸いカップケーキ型に膨らんだ淡い黄色は、“地鶏卵をたっぷり使いました”という証であるらしい。

 薄く削った木の皮を編んで造られた笊の上に、小ぶりなそれが並ぶ様はなんだかかわいらしくも見える。

 しかし――。


「何故こんな田舎の、温泉保養地の名物菓子情報を押さえているのか」


 自分の家の領地であるだけに、その情報精度が怖い。

 観光客向けに立ち並ぶ出店の前で歩みを止め、笊の上の菓子をじっと見下ろしながらマーリカは思った。

 王都よりずっと北に位置するエスター=テッヘン領にある温泉保養地は、寒さの厳しい冬であるにもかかわらず盛況で通りは行き交う観光客で賑やかだ。マーリカもその一人である。


「それにしても。子供の頃はただ温泉小屋しかなかった寂れた町だったのに」


 この大市を模した土産物通りといい、立派なドーム型公衆浴場ハマムの色鮮やかなタイルの建物と意匠合わせた異国情緒あふれる街並みといい、温泉の地熱や成分を利用した商品の数々といい、町ぐるみで創意工夫の努力を重ねてきたのがよくわかる。


「伯母様達が来たがるのも無理もない。まさか自領の小集落がこんな地域復興成功モデルになっていたとは……ああっ、だめだめだめいまは休暇! そういうことは考えないっ!」


 いつもの地味な男装ではなく、白い毛皮の縁取りのついた真紅のケープコートを羽織った姿でマーリカはぷるぷると首を横に振る。

 そんなマーリカを黙って眺めながら、出店の店主は果たしてこれは声をかけたものかと迷っていた。

 侍女を一人つれ、明らかに貴族令嬢とわかる身なりをした、店の前で立ち止まった女性客。

 通常なら、ここぞとばかりに商品をおすすめするところだが、なにか妙な迫力でもって胡乱そうに商品をじっと睨みつけ、なにかぶつぶついいながら挙動不審でいる。

 おまけに人生でお目にかかったことがないような美女である。

 コートの赤によく映える艶やかな黒髪。雪のように白い肌は温泉の美肌効果のためかつるんとしていた。

 名物の地熱を利用した蒸しパン菓子を睨みつけているその黒い瞳の眼差しは、どこか憂いを帯びているようにも見え、貴き血筋を表すように上品な口元は紅を刷いていないのに赤い。

 おかげ、目立つ看板でも置いているように、先ほどから通りがかった人の目を集め店に立ち寄る客が途切れない。

 皆、この実に眼福な美女の隣に立ち、その美しさを近くで眺めたいがための口実に商品を買っていく。


(声をおかけした方がよろしいだろうか。でもこのお嬢様のおかげでなんかすごい売れていくし、もう少しこのままにしておこうか……)


 一方、まさか自分のせいで店が行き交う人々の注目を集めているとは露ほども思わず、マーリカはこのなんでもないような蒸しパン菓子が飛ぶように売れていくのに内心驚いていた。

 先ほどから、通りがかる人が吸い込まれるように店に近づいては次々と買っていく。

 聞いた通りに人気の名物菓子らしい。休暇に入る直前に「絶対」などと大変に重い言葉付きで、土産として買ってくるよう厳命された菓子だけはある、と胸の内で呟き頷く。

 事前に教えられたその色や形状、使用素材などの情報からして、いま目の前にあるもので間違いない。

 しかしどう見ても、これはこの場で食べて楽しむ類のものではとマーリカが呟けば、彼女へ声をかけるかかけるまいか迷っていた出店の店主はすかさず冷めても大丈夫と彼女に答えた。


「それにこちらの箱入りのものでしたら、いまの季節でしたら五日保ちます」

「五日? それは本当ですか?」

「ええ、お嬢様」


 黒曜石を嵌め込んだような、美しい切長の目を軽く眇めたマーリカの問いかけに、店主は愛想よく答える。

 五日――と、マーリカは手渡す相手に届けるまでの時間を頭の中で計算する。

 実家である領地屋敷にここから半日。荷物をまとめ、王都へ移動が三、四日。

 間に合う。


「なんという、情報精度……」


 やはり無能でも王族である以上、その周囲で仕える者の身辺を洗うのは当たり前ということなのか。それにしたって、こんな田舎領地の端にある、ささやかな土産物まで把握されているのは怖すぎる。

 マーリカが仕えているのは、深謀遠慮を要求される文官組織を統括する第二王子。

 フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。

 いつもそれっぽいことをなんとなく気分で話しているだけの無能殿下だというのに、謎の強運と見た目だけは侮れない迫力を持つ完璧な美貌で、何故か外交相手はなにか深遠な意味があるのに違いないと勝手に深読みする。

 信じられない功績を次々と上げ、“晩餐会に招かれればワインではなく条件を飲ませられる”といった噂を周辺諸国に響かせている彼の、マーリカは筆頭秘書官である。

 そして、マーリカは気がついていなかった。

 己もまた、いままさに周辺諸国同様の深読みをしていることに。


(流石は王太子殿下の率いる部隊。徹底している。たぶん古い家系で周辺諸国と縁付いている親戚が多いから警戒されたのでしょうが、伯爵家として弱小すぎる我が家の内情を知って安心されたことだろう。それより、調査内容を私欲に使うとはあの無能殿下っ)


 残念ながら、本件に関しては完全にマーリカの思い込みである。

 フリードリヒの要望で彼の筆頭秘書官に採用された文官令嬢のことを、王宮はもちろん調査はしていた。

 しかし、その情報は人事情報として王宮の法令遵守コンプライアンスに従い厳重に管理され、なに一つフリードリヒ本人には伝えられてはいない。

 そもそも、領内のちょっとした観光地の土産物までは調べない。

 王宮の諜報部隊は暇でもストーカーでもないのである。

 恐ろしきは、“美食王子”なる偽名で下町美味グルメ探求の世界では第一人者と目されている、フリードリヒの情報感度と調査力である。

 資質的にも環境的にも恵まれる王族は、普通にしてても一般貴族より能力の水準はそもそも高く、またかくあるべきとして育てられる。

 公務でなければ、そこそこの多才さと有能ぶりを発揮するフリードリヒなのであった。

 

「店主殿」

「はい」

「二日後に出立予定なのですが。その際、この箱入りを半ダースいただけますか。代金は前払いで」

「はいっ、喜んで! 大銀貨入りましたー!」

「……なんです、その掛け声?」

「景気づけってやつでございます」


 店主から引き渡し伝票を受け取ってマーリカは、やれやれと肩をすくめる。

 まったく休暇中に自領の保養地まできて、何故あのフリードリヒ無能の所望する市井の菓子を調達しなければならないのか。

 脳裏にちらつく執務室の光景や、顔形だけは極上にいい人の姿を振り払うべく、再びぶんぶんと首を勢いよく横に振る。


「はあ……とはいえ、休暇は休暇で面倒くさい」


 ここ数日、毎日一度は親族の誰かから、「マーリカちゃんってかわいいのに残念よね」「成人しても婚約者がいないのはどうかと思うぞ? 一族の誰か〇〇の倅とかどうだ?」「あらだめよ、マーリカには叔母様が素敵な人を見つけてあげますからね」「マーリカちゃん王宮に誰かいい人はいないの?」などと。

 若干相手にするのが面倒くさいことを言われている。


(まあ仕事を言い訳に、令嬢としては当然の社交や縁談を避けてるのがおかしいのかもだけど)


 三年に一度の親族懇親会。

 王国内のみならず、周辺諸国にいる分家の親族達もが、一斉に本家であるエスター=テッヘン家に集合するという、マーリカからすれば“親族仲が良過ぎてちょっとおかしい”、一大家族行事。

 この時、実家にいなければ、その場のノリと勢いで勝手に他国の見知らぬ相手との縁談か、従兄弟や再従兄弟との婚約が大盛り上がりにまとまってしまいかねない。

 それを防ぐため、二週間の長期休暇をマーリカはもぎ取って帰省したのである。


「本当、勘弁して……いまは殿下のことで手一杯」


 伝票を小さく折りたたんでコートのポケットへ納めながら、マーリカは小さく嘆息する。

 第二王子付筆頭秘書官は王宮でもっとも激務といった噂は本当だった。

 前の部署でも超過勤務が酷かったけれど、フリードリヒに仕えてとうとう四十七日間連勤の記録保持者になってしまった。

 社交や美容やお洒落などこの激務の中でやってられるかこのやろーな、立派な社畜ならぬ宮畜である。

 あんなやる気も気概もない無能殿下、放って痛い目にあえばいいと百万回くらい思っているのに、つい手を出してしまう。それがマーリカの仕事なのだから仕方ない。

 我ながら仕事中毒にも程がある。土産物通りを宿に向かって歩きながら、まあでもと伝票を収めたコートのポケットを上から軽く撫でるため息と共に微苦笑する。


(人の気も知らないで、王子にあるまじき天真爛漫さでうれしそうにされるのでしょうね……あの方は)


 そわそわしながらマーリカが差し出す土産を受け取る様子や、その後懐いた子犬がまとわりつくように仕事に戻ろうとするマーリカを引き止めて、お茶しようだの一緒に食べようだの誰それにもあげようだの、この菓子の良さはうんぬんかんぬんと解説を始めるところまで。

 一通り脳内に思い浮かべるとちょっと悪くない気がしてしまうから、本当にあの憎めなさはずるいと思う。

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