episode7−1 ここにいない彼女を思う

 冬である。

 地域差はあれど、オトマルク王国の冬は概ね寒さが厳しい。

 王都リントンもその例にもれず、夜に降り積もった雪で街は白く粧われ、昼間もここ何日かは雪曇りの薄暗い日が続いている。


「うぅ、外は寒そうだねえ」


 北側の窓辺に立ち、外の様子をしばし眺めていたフリードリヒはぶるりと軽く身を震わせると、彼の弟と妹がお行儀よく席についているテーブルへと戻った。

 テーブルの上には焼菓子と、湯気を立てるコーヒーとチョコレートドリンクが用意されている。

 コーヒーはフリードリヒと五歳年下の弟のための、チョコレートドリンクは十歳年下の妹のためのものだ。


「冬ですもの寒くて当然ですわ、フリッツ兄様。コーヒーが冷めてしまいましてよ」

「そうだね、シャルロッテ」


 本日は安息日。

 フリードリヒは、今、王宮内の弟の私室で兄妹仲良く、午後の寛いだ時間を過ごしている。

 私室といっても、そこは王族の部屋。

 数人の侍従と侍女が常に給仕や暖炉の火などに気を配っているし、部屋の隅にはそれぞれの王族付の護衛騎士が控えてもいる。

 しかしそれは王族ならば生まれた時から当たり前。

 室内にいる者達は、皆、気心の知れた信用の置ける者達であり、ゆえにざっくばらんな身内同士の会話を聞かれても気にすることはない。


「公務には慣れたかい? アルブレヒト」

「はい、兄上。秋に行われた調印式では、兄上の手伝いで様々なことに関われましたし、文官達とのやりとりも随分慣れることが出来ました」


 フリードリヒと同じ、金髪に空色の瞳を持つ弟アルブレヒトの、にっこりカップを傾けながらの返答に、そうかそうかと満足げにフリードリヒは頷いた。

 オトマルク王国での成人年齢は二十一歳。

 半年ほど前に成人年齢を迎えて、最近公務に関わり始めた弟の言葉は頼もしい限りだ。


「兄上や大兄上は、十八から公務についていたのですよね。すごいなあ」

「あー、私の頃までは色々な教師がついて、あれこれ詰め込まれて、側近なんかも幼少期から家格と歳の近さで勝手に決められてたからねー」


 いまは貴族の子弟や優秀さを認められた者が進学する全寮制の学園に、王族の子弟も十五、六の年で入学することになっている。

 様々な立場の者と触れ合い、切磋琢磨し、学園行事を取り仕切る経験と学びの場であり、側近候補を探す場でもある。

 卒業後は、成人するまでの一、二年は王宮内部のことやら政治や外交の教師がついて教わり、大抵は上の兄弟か大臣の補佐で公務デビューといった流れだ。


「ほら、いまは自主性とか適性とか大事ってなってるから」

「う、うん」


 もしかして、フリードリヒを見て国王である父が側近と相談してそう決めたのではといった考えがアルブレヒトの脳裏をちらっと過った気がしたが、彼は大変優しく兄思いの弟であったので気のせいだと、なかったことにした。


「でも、着任早々に調印式だなんてびっくりしたよね」


 アルブレヒトは、いまフリードリヒの補佐についている。

 ゆくゆくはフリードリヒと文官組織の管轄を分け合うことになるだろう。


(そうなればマーリカの仕事も少しは楽になるかも)


 フリードリヒは彼の筆頭秘書官のことを思いながら熱いコーヒーを啜る。

 マーリカが常に激務なのは、無自覚に仕事を丸投げしているフリードリヒ自身に起因するものであるのだが、彼はすっかり忘れてしまっていた。

 忘れることはフリードリヒの特技の一つである。

 

「そうですわ。あの時は、本当に大変そうでしたものア……」

「しっ、シャルロッテっ!」

「ん? どうしたの?」

「あー、いえ……あの時は、あっ、兄上もお忙しかっただろうなあーと……」


 ほら、外交的に急展開でしたし。

 そうだよねシャルロッテ、と。

 何故か公務にまったく関係していない妹に、同意を求めるアルブレヒトを少々不思議に思いながらも、その言葉にそういえばそうだったとフリードリヒは思い出す。

 たしか某国外交官と会食後に、一気に彼の国との鉄道利権の調整が進みはじめ、あれよという間にまったく予定も想定もしていなかった調印式へという運びになったのだったか。


(なにがどうしてそうなったのか、あまり覚えてはないのだけどね)


 忘れることはフリードリヒの特技であった。

 麗しき彼の筆頭秘書官から、色々と説明を受け怒られたことだけなんとなく記憶している。

 だからフリードリヒは、弟の言葉に乗っかって相槌を打つだけに済ませた。


「うん、そうだったね」

「あ、うん……ですよね」


 フリードリヒの相槌に、弟のアルブレヒトは手にしたカップの黒々とした中身へと目線を落とした。

 その青い瞳が若干翳って見えたけれど、きっと湯気のせいだろう。

 何故ならフリードリヒは知らなかった。

 彼の弟が、“無能殿下”と文官達の間で揶揄されるフリードリヒのため、約一ヶ月もの間、文官が回してくる大量の書類仕事に埋もれ、胃薬が手放せない状態となっていたことを。

 あまりに軽いフリードリヒの返事を聞いて、アルブレヒトの愚痴を聞いていたシャルロッテは、気の毒そうにほっそりと小さな少女らしさを残す手をすぐ上の兄へそっと伸ばした。

 

「アル兄様……」

「いいんだ。僕はあの仕事で僕の役目がなんたるかを、あらためて理解できた気がしている」

「小さい頃から本当に真面目だな。アルブレヒトは」

「兄上達のことを見ていたからね」


 一般的に、三男はちゃっかり者になりがちと言われているが、アルブレヒトに至っては当てはまらない。

 自分にも他人にも厳しく勤勉で努力家な長兄と、人は良いが運と顔の良さだけの怠惰な次兄。

 正反対な兄二人とその周囲の家臣達の様子を見て育った彼は、フリードリヒを反面教師にすっかり真面目で苦労性の第三王子に育ってしまっていた。

 まだ学生の第四王子の弟や、この場にいる妹シャルロッテにまで、フリードリヒの皺寄せがいかないようにしていかなければと、五人兄妹の真ん中の子として使命感すら抱いている。

 もちろん、アルブレヒトの心中など当のフリードリヒは知る由もない。


(王太子の大兄上は超優秀なのに、どうして兄上はこうなってしまったんだろう……)


「そう」

「うん。僕ももう大人だからしっかりしないと」

「そんなに気負う必要はないと思うよ。まだ先は長いし、長距離走を途中で倒れないよう細く長くやっていこうくらいで……」


 御歳二十六の若さであるというのに、中間管理職文官の退官挨拶のようなことを弟に語り出すフリードリヒであった。


(兄上は、もう少し気負ってもいいと思う)


 そう、声に出して言いたいところを、アルブレヒトは小さなメレンゲ菓子と一緒に飲みこんで、さすがは兄上だねと微笑んだ。

 軽く目を伏せてコーヒーカップを口へと運ぶ姿だけ見れば、貴公子として完璧な容姿をしているフリードリヒとは違って、目がくりくりとして可愛らしく素直な子犬を思わせる健気そうな容姿そのまま、健気な弟のアルブレヒトである。


(まあでも、なんだかんだで憎めない兄上ではあるし。それにこの人、結果的に実績だけは上げてるもんな……)


「兄上は、すでに諸外国から一目置かれてもいるし」

 

 オトマルク王国の第二王子。

 フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。

 深謀遠慮を要求される文官組織を統括するアルブレヒトの兄は、とにかく王族としていろんな意味で特異であった。

 けして愚かではないのだが、とにかく公務に対するやる気がない。

 そのことで家臣達がなにを言おうと、いつも穏やかにのんびりと構えている妙な大らかさがあり、加えてなにを考えているのかよくわからない掴みどころのない受け答え。

 それが金髪碧眼の完璧な貴公子の容姿と合わさって、よく知らない者には底知れない只者ではない王子に見えるらしい。

 さらには偶然に偶然が重なって、歴史の教科書に載ってもおかしくないようなあり得ない外交成果を上げたり、家臣の不正を暴き出したり、優秀な人材に何故か恵まれなんとなかなってしまう、謎の引きの強さを持つ強運体質。

 

(大兄上や大臣はじめ家臣達の対処があってこそだけど、本当に、意味不明に国益にすっごい貢献してるもんな……)


「武官組織を束ねる聡明で勇猛な王太子に、文官組織を束ねる切れ者の第二王子もいて、オトマルクは磐石だって調印式に来ていた先方の文官も言っていたよ」

「見えすいたお世辞もいいところだなあ」


(いや、これが本当に他国ではそう思われてるんだって)


 過去の実績により、“晩餐会に招かれれば、ワインではなく条件を飲ませられる”といった、彼をよく知る身内からすれば悪い冗談のような噂を、フリードリヒは周辺諸国に響かせ怖れられている。


「って、あれ? 晩餐会にアルブレヒトもいたっけ?」 

 

 テーブルの三段トレーから胡桃のタルトを摘んで首を傾げたフリードリヒに、カップの中のコーヒーを冷ます振りをしてアルブレヒトは軽くため息を吐く。


「いないよ。補佐で成人したばかりの若輩の身でいるわけないじゃない。随行の人達の労いの場で顔を売っていたんだよ」

「そんなことをしていたの?」

「当面、兄上の補佐で外交絡みの執務には関わるだろうし、僕ならそれほど構えられずに王族が顔を出すおもてなし感もあるってマーリカが」

「マーリカが?」


 弟の口から突然出てきた、己の筆頭秘書官の名前にフリードリヒはちょっぴりどきりとして聞き返す。

 自分の補佐についている弟であるから、当然、自分の筆頭秘書官とも執務を通じて関わる機会はある。

 それにしたって、兄付きの筆頭秘書官に対して、呼び方が少しばかり馴れ馴れしくないかなと、フリードリヒはうれしそうに邪気なく話す弟に複雑な思いを抱いた。


「うん、自分は不測の事態に備えて控えていなければならないからお願いしますって」

「へえ」


(秘書官殿とか、マーリカ殿とか、エスター=テッヘン嬢とかさ、もっとこうさ……あとマーリカも面倒見良すぎない?)


「僕と同い年なのにものすごく優秀だよね、彼女」

「マーリカは私の筆頭秘書官だからね。アルブレヒト」

「わかってるよ」


(兄上と違って婚約者もいる僕に警戒するって、マーリカって本当兄上に気に入られてるよね。そのせいでやばい仕事量になってるけど) 


 長兄すら匙を投げた怠け癖のある、兄フリードリヒを支え、きちんと仕事もさせる。

 優秀な秘書官であるマーリカをアルブレヒトは大いに尊敬しているし、正直この兄の面倒を見られるのは彼女だけだろうと彼は思っていた。

 

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