第百九十二話 まばゆい日々に【前】

 北向きに面した離れの一室をおとずれた早梅はやめは、間もなく、沈んだ父の横顔を認める。

 桃英タオインは、数刻前とほとんど変わらぬ体勢だった。寝台の横にひざをつき、上体を起こしたまま沈黙する桜雨ヨウユイの細い指先をにぎっている。


「お父さま」

「……梅雪メイシェ


 大丈夫ですか? などと、わかりきったことは訊くまい。

 早梅はもう一歩歩み寄ると、ふたたび父を呼んだ。


「お父さま、おききしたいことがございます。『筆』を、お持ちですか」


 たったのひと言。その問いに、ぴくり、と桃英の肩がこわばる。

 早梅は確信した。こちらがなにを言わんとしているのか、桃英も察したのだと。


 桜雨の指先をくすぐるように右手を引いた桃英は、おもむろに早梅へ向き直ると、ふところをさぐる。


「……持っているとも。この二十一年、一度も手放したことはない」


 桃英がとりだしたのは、一本の筆だった。艷やかな、すず色の毛筆だ。


は私に、これを返させてはくれなかった」


 語る合間に瑠璃の双眸がゆらめくそのわけが、わからない早梅ではない。

 筆をにぎる桃英の手を両手でつつみ込み、息を吐き出した。


「お父さま……大丈夫です」

「……梅雪?」

「お母さまは、きっと大丈夫ですから」


 早梅は目頭が熱くなるのをなんとか堪えながら、笑ってみせる。だから。


「もうすぐ、大丈夫になります」


 多くを語れぬいまを、どうかゆるしてほしい。



  *  *  *



「梅雪さま、お加減は大丈夫なのですか……っ!?」


 見ているこっちがヒヤヒヤするくらい真っ青な顔で濡れ羽髪の青年が駆け寄ってきたのは、早梅が離れを辞してすぐ、回廊でのことである。


「えっ? どうしてかなっ?」

「母君のことで、落ち込んでおられるとききましたので……」

「あぁ、そ、そうか! 心配かけたね、シアン。私はへいきだよ!」


『からだ』の心配をされていると思ってヒヤリとした早梅だが、杞憂だったようだ。

 よかった、どこぞの猫たちを問い詰めることにならずにすみそうで。


「ならば、よいのですが……」


 口ではそう言いつつも、爽の表情は晴れない。


「爽こそどうしたの? なにかあった?」

「それは……」


 何かを言いかけては、口をつぐむ爽。

 が、意を決したように夜色の瞳が向けられたと思った次の瞬間、ぎゅうと、早梅は抱きしめられていた。


「……いきなり、ごめんなさい。でも、梅雪さまにきいてほしくて」

「へっ?」

「一晩、ずっと考えていました。それで、やっとわかったんです。やっぱり、この気持ちは止められないって。……お慕い、しております」


 胸中を吐露する爽の声が、ふるえる。

 それに呼応するかのように、とくりと、早梅の胸が脈打った。


「射落とされる恐怖を……かつての悪夢を、あなたが消し去ってくれた。だから前を向けるって、俺はがんばれるって、思えるようになったんです」

「爽……」


 夜を閉じ込めたような爽の双眸がゆらめいている。

 それは、決して悲壮によるものではない。

 

「俺、恋とかよくわからなくて、どうしたらいいのかとかも、ぜんぜん、わからないんですけど……でも、俺の人生に、あなたが必要だってことはわかります。俺を見てほしいって、思います。梅雪さまが、好きなんです」


 梅雪さま、と吐息をもらすようにつぶやいた爽が、右手を取ったかと思えば。


「俺にとってのしあわせを、つかみとりに行っても、いいですか?」


 手の甲に、そっと、やわらかい感触。

 あまりに自然なその所作に、早梅は瑠璃の瞳を見ひらいた。


「おうじさまみたいだ」

「俺は皇族ではありませんが……?」

「素でそれかい。末恐ろしいこと」


 見当ちがいな言葉が返ってくるのは、爽に下心がないあかしだ。


「思わず見惚れちゃうくらい、男前だったってこと」


 左の袖で口もとを隠し、くすくすと笑う早梅をしばし呆けたように見つめた爽は、ほほから耳までをかぁっと赤らめた。

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