第百六話 ちっぽけなわがまま【前】

 仙人のすまう霊山では、今日も今日とてゆるやかな時が流れる、はずだった。


「お嬢さま、本日はいかがなさいますか?」

「うーん……へやで、おとなしくしていようかなぁ」


 もしやと思えば、案の定。

 どこかへ出かけるかという黒皇ヘイファンの問いに、曖昧な苦笑が返ってくる。


 ここ一週間ほどの話だ。早梅はやめの体調が思わしくない。発熱こそないが、どうも調子が出ないらしい。


 夜は頻繁に目が覚めているようで、その反動か、日中にうとうとしていたり。

 腹の具合が悪いのか、食もすこし細くなったり。


 散歩と称してしばしば金玲山こんれいざんを散策していた早梅も、出歩く気力が尽き、とうとう青涼宮せいりょうぐうにこもるようになってしまった。


「あたたかいお茶をお淹れしましょう」

「そうかい? じゃあ、たのもうかな」


 黒皇ができるのは、そっと寄り添うことだけだ。

 黒皇はじっくりと煮出した黒豆茶を用意し、室にもどる。

 文机に向かって読み物をしていた早梅は、「ありがとう」とはにかみ、書物を置くが。

 白い指先にふれた茶杯が、早梅の手のひらへおさまることなく、こぼれ落ちる。


「お嬢さま!」


 黒皇がとっさに早梅を抱き寄せるのと、茶が机上にぶちまけられるのは、ほぼ同時だった。


 熱い飛沫を浴びせずにすんだと、黒皇が安堵したのもつかの間。腕の中で背を丸めた早梅の異変に気づく。


「……うぅ、あ……」


 早梅は腹をおさえ、苦しげにうめいている。

 淡色あわいろきぬすそをじわりと濡らすものの存在に気がついた黒皇は、即座に声を張り上げた。


青風真君せいふうしんくんをお呼びしてまいります!」



  *  *  *



 黒慧ヘイフゥイの耳に衝撃的な一報が舞い込んだのは、つとめを終え、金玲山へと帰り着いたときのことだった。


梅雪メイシェさまが倒れられたですって!)


 報告のためおとずれた金瓏宮こんろうきゅう金王母こんおうぼのすがたがなかった時点で、黒慧も胸さわぎはしていたのだ。

 あわただしく青涼宮へ向かう静燕ジンイェンと遭遇し、『晴風チンフォンがつきっきりで診ている』旨をしらされた黒慧は、顔面蒼白になって身をひるがえした。


(梅雪さまになにかあったら、僕は、僕は……っ!)


 黒慧はがむしゃらになって、飛ぶように駆けた。

 どうかご無事で。それ以外に望むものはありませんから、と懇願しながら。

 そして駆けつけた青涼宮の一室にて、黒慧はその光景を目の当たりにする。


 晴風、黒皇、金王母。それから黒慧のあとを追ってやってきた、静燕。

 早梅の室には、錚々そうそうたる顔ぶれが集結していた。


「あら、おかえりなさい。小慧シャオフゥイもこちらにいらっしゃいな」


 緊急事態だと聞きおよんだのだが、黒慧を手招きをする金王母はにこやかで、落ち着いている。

 わけもわからないまま、歩み寄る黒慧。

 そして寝台にぐったりと横たわり、汗だくになって四肢を投げだしている早梅へ視線を落とし、はたと呼吸をとめた。


「ははは……」

「大丈夫か、梅梅メイメイ!」

「だいじょばないです……ははっ……」

「目が、目が死んでるぞ! 死ぬな梅梅!」

「わたしまだ、いきてるんです? ほんとに、しんだかと、おもっ……」

「梅梅しっかりしろ~っ!」

「ごめんなさい、フォンおじいさま……うるさいです」

「ぐぁあっ!」


 やかましい晴風が早梅のひと言で撃沈したおかげで、ようやく気づいた。


 ……おぎゃあ、おぎゃあ!


 その泣き声は、早梅の枕もとから聞こえてくる。


「元気な男の子ねぇ」


 くすりと笑みをもらした静燕の言葉で、黒慧は我に返る。


「あの、ファン兄上っ……!」


 夢中で見上げた先、寝台のそば近くに、黒皇はいた。無言でうなずき、ひざをついて、先ほど黒慧がしていたように早梅をのぞき込んだ。


「よく、がんばりましたね……お嬢さま」

「えへへ」


 黒皇の黄金の隻眼は、揺らめいていた。

 ふにゃ、とほほをゆるめた早梅も、まなじりに涙の粒をにじませる。


 おぎゃあ、おぎゃあ!

 わんわんと、産声がひびきわたる。

 まだ目もあかない赤ん坊に顔を寄せて、早梅はほろりと、ほほを濡らした。


「会いたかったよ、私の赤ちゃん」


 慈愛に満ちあふれたやさしい声に、黒慧まで熱がこみ上げる。


(兄上たちも……僕にも弟がうまれていたら、こんな気持ちだったのかなぁ)


 すると無性に泣けてきてしまって、わっと早梅たちへ抱きついてからのことは、黒慧もよく覚えていない。

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