社則でモブ専なんですが、束縛魔教主手懐けました〜悪役武侠女傑繚乱奇譚〜

第五十二話 風にさらわれる【前】

　寥々（りょうりょう）と浮かぶ偃月（えんげつ）を目指し、早梅（はやめ）は夜闇を疾駆する。

　木々の合間を縫い、道なき道を駆けて、駆けて、駆け抜ける。

　もっとだ。もっと高い場所へ。

　鬱蒼（うっそう）とした傾斜を、馬車馬のごとく駆け上がる。

　と、せわしなく呼吸をくり返すさなかに枝の踏み折られる音をひろい、早梅は瞬間的に身を反転させた。

　なにもかもを奪ってきた手掌が、目前までせまる。

「なめるな！」

　早梅のほうが一枚上手だった。一瞬早く、地面すれすれまで体勢を落としたのだ。

「小娘が、ちょこまかと！」

　するどい蹴りが飛んできたが、鼻梁（びりょう）を直撃するすんでのところで、早梅はばんっと地面を叩（はた）く。

「なんだと──」

　避けられるとは思いもしなかったのだろう。

　とんだ自信家だ。

　生まれた一瞬の隙に、早梅はふり上げた足を、飛龍（フェイロン）の顎へ食らわせる。

　こちらの蹴りは、とどいた。

「まだまだゆくぞっ！」

　早梅は続けざまに腰を落とし、後方へ転回。

　体重を感じさせない軽やかな身のこなしで、早梅のからだはしなやかな弧を描く。

　逆さまの視界で身をひねり、剣をふるうと同時に、足をふり下ろして浮力をつくる。

　飛龍の脇腹から左肩にかけて斜めに切れ込みが入り、細かな血が飛ぶころ、早梅は危うげなく着地していた。

　見える。かわせる。

　対する飛龍は、本来の実力の一割も発揮できていない。

　毒のめぐりを遅めるために、内功（ないこう）をあやつって血液の循環を制限しているのだろう。

　その分、身体機能がいちじるしく低下しているのだ。

『氷毒（ひょうどく）』は即効性の致死毒であるからして、よく動けているほうではある。

（『滅砕掌（めっさいしょう）』は、一撃でも食らったら終わりだが）

　綱わたりをしているのは、早梅もおなじ。

　なにを恐れることがあろうか。

（この男は、私が殺す……必ずだ！）

　やつに対する憎しみこそが、この身の原動力。

　早梅は半身をとって剣をかまえつつ、飛龍の一挙手一投足を注視する。

　刺すように冷たい夜風が吹き抜け、早梅の翡翠の髪を巻き上げた。

「……っくく」

「なにがおかしい？」

　劣勢に立たされているのは飛龍だ。

　長期戦になるほど、戦況はこちらの有利にかたむくのみ。

　それを飛龍が理解していないはずがない。

　毒がまわる前に、一刻もはやく早梅を仕留めようと躍起になるはずだ。

　いや実際そうだった。つい先ほどまでは。

「私に傷をつけた女は、おまえがはじめてだ」

「それでお喜びになっていらっしゃるのですか？　変態ですね」

　なにか、ある。

　得体の知れないなにかが。

　虫の知らせにも似た違和感の正体を、早梅はすぐに思い知ることとなる。

「女は脆弱な生き物だろう。私がすこしふれただけでぽきりと骨が折れ、ころりと死んでしまう」

　──早梅は戦慄した。

　飛龍がわらっている。

　天気の話でもするように、人の死をわらっている。

「あなたにはっ、人を愛するこころがみじんもないのかっ！」

　わかりきった問いだと知りながらも、早梅はこみ上げるものを抑えられなかった。

　原作でも、飛龍は側室ふくめ、妃を娶ろうとはしなかった。

　そのため後継者は、亡くなった皇妃との間にもうけた皇子たったひとりのみ。

　愛する皇妃をしのび、忘れ形見である皇子をたいそうだいじにしていたと、表面上は『良き皇帝』であったものの。

（飛龍が妃を娶らなかったのではない。宮女たちが妃になりたがらなかったのだ）

　閨（ねや）に呼ばれた女たちが、忽然とすがたを消す怪事件を目の当たりにして。

　飛龍は加減を知らない。

　女をおなじ人とも思わない。

　彼はおのれの熾烈（しれつ）な感情に耐え得らない女たちを、こどもを生む道具以下の存在としてあつかっていたことだろう。

　そんな飛龍が、満面の笑みを浮かべている。

　早梅を目前にして、ひどく楽しそうに。

「気が変わった」

「しまっ……くぁっ！」

　反応が遅れた。

　早梅はまばたきのうちに距離をつめられ、からだを木の幹へ叩きつけられる。

　したたかな衝撃に肺呼吸をそこね、まぶたの裏が白くはじけた。

「早（ザオ）梅雪（メイシェ）」

　くい、と顎を持ち上げられる感触。

　早梅は意地でもまぶたをこじ開け、歯を食いしばって頭上の飛龍を睨みつける。

　血色の瞳がこちらを見下ろし、満足げに細まった。

「おまえは私がふれても、張り飛ばしても、壊れないな」

「だ、から……っ？」

「惜しくなった」

　不気味なほどに整った飛龍の美しい顔が、間近にせまる。

「甘い香りがするのは……ここか？」

　ゆるく弧を描いた飛龍の薄い唇が、ひらかれ。

　──ぶちり、と。

「──ッ！　あぁああッ！」

　あろうことか飛龍は、早梅の左の首すじへかぶりついたのだ。

　早梅の白い肌はいともたやすく食いやぶられ、先ほど憂炎（ユーエン）に噛まれたばかりの傷口から、どろりとした熱があふれ出す。

　飛龍の狂行（きょうこう）はそれだけにとどまらない。　

　早梅に胸を殴られようともびくともせず、耳障りな水音を立てながら、喉仏を数度上下させた。

　早梅の血液を啜り、嚥下（えんげ）していたのだ。

　そのさまは、瑞々しい桃の果実へむしゃぶりついているかのようで。

（生きたまま、私を食う気か……っ！？）

　いっそ叫んでしまいたかったけれど、これがはた迷惑な加虐趣味によるものなら、むしろ喜ばせてしまうだけだ。

　早梅はうめき声を噛み殺し、じっと痛みに耐える。

　ややあって、わずかに顔を離した飛龍は、さらに笑みを深めていた。

「愛（う）いな」

「……陛下の辞書にそのような文句があったことに、大変おどろいておりますわ」

　早梅がふいと顔を背ければ、飛龍はそれがお気に召さなかったらしい。

　ほほをわし掴まれ、早梅が正面を向かされたときには、瞳孔のひらききった血色の瞳がほぼ零距離にあった。

「早家の姫は、かん違いをしているようだ」

「なんですって？」

「私は無知が嫌いだ。だから『愛』を知らないのではない。知ろうとしたが、『愛』には至らぬ些末（さまつ）なものしか私のまわりにはなかった、が正しい」

　つまり飛龍は、こう言っている。

　女を愛そうとしても、女が先に壊れてしまったのだ、と。

　ここまで来れば、早梅がおぼえていた違和感は、焦燥へと成り代わる。