第二十四話 真白き物語【前】

 ハヤメはその夜、光の速さをも超えた。


「……なるほど、これがいにしえの5G回線……」

「ぶつぶつとどうしたんだ、俺の妹は」


 どうしたもへったくれもない。

 さらりとすず色の髪をゆらし、美貌を惜しげもなくまき散らしながら首をかしげているそこの暴君。

 すべてはあなたのせいである。


(超人的な身軽さだ。あれが、軽功けいこう


 軽々とハヤメを抱いた紫月ズーユェは、壁を足がかりに屋根へ駆け上がり、障害物をものともせずに月夜を疾駆しっくしてみせた。

 しゃべる烏がいるくらいなのだから、宙高くを飛んだり瞬間移動をする人間がいたって、おかしくないだろう。


 まぁ厳密には、紫月は半分だけ人間、なのだが。


 碁盤のごとく規則正しい街並みにおいて、歪んだ『目』めがけ、紫月は上空から跳躍した。

 見覚えのある路地裏がハヤメの目に入る。紫月が女行商人の紫霞ズーシャに扮して怪しげな露店をひらいていた、秘密の場所だ。


 ひとすじの月光だけが頼りの暗闇。

 ハヤメは壁へもたれさせるよう、紫月に下ろされる。


「紫月兄さまのことは、人でなしと呼ばせていただきます」

「心外だ。目に入れても痛くないほどおまえを可愛がっているというのに、なにが不満なんだ?」

憂炎ユーエンのことです。こどもを置き去りにするなんて……!」

「あの小僧はラン族だぞ。いやでも嗅ぎつけてくる。それよりおまえだろうが、梅雪メイシェ

「……うぅ」


 汗をにじませ、ずるずると壁づたいにくずれ落ちるハヤメの正面で、紫月が片ひざをついた。

 有無を言わさず夜空の散歩へ連れ出しておいて、妹の体調不良を目ざとく見抜いていた、小憎こにくたらしい兄だ。


「吐き気は?」

「ない、です……動悸が、ちょっと」

「血液の拍出亢進こうしんが起きている。おまえの氷功ひょうこうが、体内をむしばむ『灼毒しゃくどく』にあらがっているんだ」


王毒おうどく』とも呼ばれる『灼毒』は、その効果をあらわすまで三日ほどを要する。

 ぼんやりと微熱に浮かされた病態から一変、三日目には全身が焼けただれるような苦しみにあえぎ、死に至る。


 その運命を、紫月に渡された『千年翠玉せんねんすいぎょく』が変えたのだ。


「体内の気を爆発的に増幅させる秘薬、それが『千年翠玉』だ。内功ないこうを養っていない者には劇薬でしかない、が」


 男性にしては華奢で、女性にしては武骨な紫月の指先が、おもむろにハヤメへ差しのべられる。


「五体に気のとどこおりがあるだろう。それはせき止められた激流のようなもの」


 やがてハヤメのへその下、丹田たんでんへふれられ。


「ここで気を練り、なじませる。ほとばしる龍を、支配してみせろ」


 ハヤメは言われるがまま、まぶたを閉じ、余計な感覚を断つ。


「うっ……く……」


 血液が、ものすごい速さで駆けめぐっている。

 その流れは不規則で、荒々しい。

 突然の大雨に降られ、増水した河川のようだ。


 ハヤメは呼吸をととのえ、みぞおちに神経を集中させる。

 荒れ狂う血液の流れを、気の流れで制御するのだ。


(落ちついて、落ちついて……)


 頭、それから左右の手足。

 時間をかけて、『行き止まり』をひらいてゆく。


 正しく循環をはじめた血液は『濁り』がとれ、全身へと行き届く。

 先ほどまでがうそのように嵐はすぎ去り、青空を映す水面のように澄みわたる感覚がある。


 ハヤメがふたたびまぶたをもち上げると、藍玉の瞳が間近にあった。


「おまえの勝ちだ」


 ──嗚呼。


「いまだかつて、王たる毒を制した者がいたろうか。頑張ったな、よく頑張ったよ。すごい子だ、梅雪」


 無性に目頭が熱いったら。


「……紫月兄さまの、おかげです……」


『千年翠玉』がなければ。

 紫月が奔走し、導いてくれなければ、この身は業火にかれていただろう。


 肺いっぱいに吸い込んだ夜気の冷たささえ、ハヤメには愛おしい。

 凍てつく月夜が、この身にまだ命が灯っていることを教えてくれた。


「俺にとって、おまえが世界のすべて。おまえのためならなんでもする」


 淡い白光を背にしながら、紫月が藍玉の瞳をまぶしげに細める。

 からかうのではない、純粋な愛情をにじませた笑みは、ハヤメの鼓動を異様に脈打たせた。


「なぁ、梅雪……ふたりぼっちに、なってしまったな」

「兄さま……?」


 ふいにうつむいた紫月の表情は、影が落ちてよく見えない。

 紫月がなにを言わんとしているのか、ハヤメにはわからない。

 肩をこわばらせたハヤメの頭上で、ははっとわらい声がこぼれた。


「おまえだけが生き甲斐なんだ。だからおまえも、俺に縛られてくれ。これはその証だ」


 紫月にそっと左手をとられたかと思えば、くすぐったい感触が。

 見れば、中指に指輪がはめられていた。

 白漆で塗られた表面に、あお螺鈿らでん細工がほどこされた二連の指輪だ。

 ふたつかさね合わせることで梅の花がかたち作られ、その箇所だけ銀河を閉じ込めたように煌めいている。


「きれい……これは?」

「俺の内功ないこうを込めた法器ほうきだ。というとおおげさだが、要はお守りだ。おまえがとおになる年に、贈ろうと思っていた」


 六年前のことだ。

 それは、梅雪と紫月が決別した──


「『要らない』はきかないぞ」


 予防線を張る紫月に、今度はハヤメがわらってしまった。


「私も、紫月兄さまにお渡しするものがあります」


 これは予想外の返しだったのか。はたとこちらを映した紫月の藍玉の瞳が、まばたきも忘れてゆらめいている。

 ハヤメはえりへ右手をさし入れると、胸もとから折りたたんだ料紙の束を取り出した。

 朱の刺繍糸でくくられたそれを、紫月へさし出す。


「死を覚悟したとき、したためたものです。いまとなっては、必要ないものかもしれませんが……」


 憂炎へは直接言葉を遺した。


 これは、紫月とはもう会えないかもしれないから、せめてもと書き連ねたもの。

 を、とくための書だ。

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