木々のざわめき

 ナナエのオリンピックを観て、益々気合の入ったオレ達は、練習にも熱が入り絶好調だった。


 一日一日を大切に過ごし、パラリンピックまであとニ週間。オリンピックで出したナナエの日本新記録より速いタイムでナツが走れる可能性が高いと感じている。

 オレは自分自身の走力を高めるというよりも、より感覚を鋭くする事を重視し、ナツと合わせるトレーニング以外は山で過ごす事が多くなった。


 早朝、いつものようにあの山に向かう。

 山の入り口に杖を置き、ゆっくりと歩き始めた。

 何だか木々がざわめいているように感じる。風が吹いて木々の葉が音を立てているのとは違う。何か少し嫌な予感がした。


 何となく、その木々のざわめきに誘導されるように、いつものルートを外れて走った。何かに引き付けられていくような気がする。

 近くにロンの気配がした。

 ロン⁉︎ ロンがオレを呼んだのか?


 感覚を研ぎ澄ませると、こんもりとした草藪の中にロンを見つけた。

「ロン?」


 ゆっくりと近づいていくと「ウー」と低い唸り声をあげた。


「何だよ、ロン。オレだよ」

 これ位の距離ならいつも唸り声なんてあげないから、少し怖くなった。ロンはちょっと普通じゃない。


「怪我? ロン、怪我してるのか?」

 ロンはもう決して若くはないが、昨日だって元気に動き回っていたし寿命はあと数年先だろう。しかし今、ロンはとても弱っている。

 足か? 前足から出血していて変な曲がり方をしている感じがする。


 もっとちゃんと知りたくて、ロンに近づこうとすると、唸り声が大きくなる。

 どうしたらいいんだ? これ以上近くに寄れないにしてもロンを一人にしたくはない。

 直感的に、今直ぐに逝ってしまう事はないと思った。でももしかしたら長くは持たないかもしれないと思う。


 今日はナツと大切な合わせ練習がある。練習に行けないにしても連絡は入れないと。今日はロンのそばにいてやりたいからそれなりの用意も必要だ。

 オレは一旦家に戻る事にした。


 ナツに連絡を入れた。ロンの事を話し、練習を休む事を先生に伝えてくれと言った。

 その時、ある事がふと思い浮かんだ。

 ナツは中学三年の時、絶好調で調子に乗っていて、最後の全中陸上は直前に怪我をして出られなかったと言っていた。四ヶ月前のナツの怪我も絶好調の時に起こった物だった。

 オレ達は今絶好調で、調子に乗り過ぎているのかもしれないと思った。

「ナツ、今日は先生に言ってお前も休め。絶好調で迎えられそうだった大切な大会の前に、二回も怪我をしている事を思い出してごらん。オレ、今日は二人共休めって言われてるような気がするんだ」

 ナツは言う事を聞いてくれた。


「今日は一晩、ロンの近くで過ごす事になると思うけど、明日の部活には必ず間に合うように行くから」

 そう言って電話を切った。

 母ちゃんは家に居なかったので、明日の夜には家に帰ると音声を残しておいた。


 必要な物をかき集め、再び山に向かった。山に入ってもさっきのざわめきは聞こえない。きっとさっきは木々達がロンの怪我を知らせてくれたのだろう。


 ロンの所に向かうまで、感覚を研ぎ澄ませて薬草を探した。じいちゃんに教えてもらった事がある。

 治したい怪我や病気を鮮明に思い浮かべて、それに効く薬草を与えていただける事を強く願う。そしてその後、自分自身を透明に出来れば、その薬草の方が語りかけてきてくれる、と。

 その通りにすると、本当に薬草が見つかった。それを丁寧に頂いてロンの所に向かった。


 さっきの所に、さっきのまま、ロンは横たわっていた。

 近づくとやはり「ウー」と低い唸り声をあげた。


「ロン、大丈夫だよ」

 そう言いながらロンに近づいていった。相変わらずロンは唸り続けているが、構わずにゆっくりと近づいた。オレ達がこんなに接近した事はない。しかし、水を与えて薬草を足に巻いてやらなければ。


 口元に水の入った器を置くとロンは唸り声を止めた。しかし水を飲もうとしない。

「ロン、飲めよ。水を飲まなきゃ」

 そんなに弱ってるのか?

 手の平で少し水を救って口元に持っていくとペチャっと一回だけ舐める音がした。一回きりだった。手の平にヌルッとした温もりを感じた。ロンの舌が少しだけ触れた。


 薬草の葉を怪我した足に巻いてあげた。少しでも触れると痛いだろうに。ロンはプルプルと震えながら大人しくしている。

 生命力がとても小さいように思う。そっと背中を撫でると、モサモサとした毛の下に背骨の凹凸を強く感じた。


「今日はずっとそばにいるから。大丈夫だよ。きっと薬草が効いてくれる。水も頑張って飲むんだ」


 ロンの隣に横になれるスペースを作り、周りを木の枝や葉っぱで囲った。

 夏の終わり頃と言っても、山の夜は冷える。オレは焚き火をする枝を集め、夜を迎える準備を整えた。

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