オリンピック選考会に向けて
高校三年生。
六月の全日本陸上がオリンピックの最終選考会となる。
全日本まであと一ヶ月となった五月。疾風学園陸上部の練習は緊張感が漂い、活気に満ちていた。ナツとナナエ以外でオリンピックに出場出来そうな選手は他にはいないけれど、全日本に出場する選手は十人以上いる。
女子の1500m の出場枠は三人。参加標準記録を突破している五人の選手の中で、ナツの記録が一番良く、ナナエは三番目だ。何としても二人揃って五輪に出場したい。
二人揃ってすこぶる調子は良く、その可能性は大きいと思える。その緊張感が陸上部全体に行き渡っていた。
その日、オレはいつものように皆とは少し離れた所で、マネージャーに付き添ってもらいながら一人で練習をしていた。
その場ドリル練習をしている時に何か異様な雰囲気を察した。
グラウンドの中央の方に注意を向けると、その場に人が集まってきているようだ。誰かが倒れている。
まさか‥‥‥。
ナツじゃないよな? 身体が凍りつく。そうじゃないと思いたいけれど、ナツに違いない。オレは吸い寄せられるように、慌ててその場に駆けつけた。
ナツは上体を起こし「すみません。大丈夫です」と声を出したが、立ちあがろうとしない。
実戦練習のような形で、ナナエとナツが競り合っている時に二人の足が交錯し、ナツが転んでしまったようだ。
「どこかやったのか」
コーチが心配そうに声を掛ける。
「足首、少し捻ってしまいました。またです。大切な試合前、私はいつもこう」
泣きそうな声で答えるナツ。
「ムリして立ち上がるな」
ナツは「大丈夫です」と言わなかった。
「運ぶから手伝ってくれ」
コーチの声に何人かが手を貸してナツを運んでいくようだった。オレは邪魔にならないようにその場に立ち尽くし、ただナツを見送る事しか出来なかった。
ハッと我に帰り、後からナツを追った。
「アイシングしてすぐに病院に連れていく」
先生の声がした。
「オレも一緒に行かせて下さい」
「お前が行ってどうする」
「力になります」
先生はオレを一緒に連れていってくれた。
「ケンタ、ごめん」
車の中でナツが小さく呟いた。
「何、謝ってんだよ。大丈夫だ。しっかりしろ。医者にちゃんと診てもらって、ちゃんと治して、オリンピックに行くぞ」
ナツの足が赤く腫れ上がっているような気がする。大丈夫だなんて確信は無いのに、そう言うしかなかった。そう祈るしかなかった。
幸い骨には異常が無かった。それでも、強い捻挫で靭帯の損傷が大きく全治二ヶ月。全日本には間に合わないと言われた。
ナツの落胆は隠しきれない。会計を待つ間、オレはナツに言った。
「治すぞ。『間に合わない』っていうのは地上の常識ってやつだ。
山では、どんなに大きな怪我を負っても、必要があれば物凄い力が出るのが常識だ。自分の力とオレの言う事を信じろ。
一ヶ月後にちゃんと走っている自分、切符を勝ち取るイメージを持ち続けるんだ。負けるなよ。最後までオレも一緒に戦うから」
ナツは顔をあげた。
「ケンタ、ありがとう。頑張るよ。見ててね」
決意のこもった声がした。
無茶はできない。ナツは地上に生きる人間で、山の常識は通用しないはずだ。それでもオレは出来ると思っている。
例え出来なくても最後まで諦めなければ悔いは残らないはずだ。ナツには「出来なくても」という事は絶対に言わないけれど。
オレはナツに無茶はさせないように、そしてナツが出来るイメージを持ち続けられるように、毎日足をさすり、励まし続けた。
☆
一ヶ月後。遂にその日がやってきた。全日本陸上、オリンピック最終選考会だ。参加標準記録を突破している者の中から、このレースでの上位三人が選ばれる。
ナツは驚異的な回復を見せ、何とかこのレースのスタートラインに立つ事が出来た。決して万全の状態ではなく、しっかりとテーピングをして臨んでいる。
予選は出来るだけ足を使わないようにしながら決勝に駒を進める事が出来た。
ここまで来る事が出来ただけでも奇跡に近い。ナツは「ケンタのおかげだよ」と言ってくれるが、正直オレはナツの身体と心がこんなに強い事に驚いていた。
もう充分だよと言ってやりたいが本番は明日だ。明日の為にオレ達は諦めずにここまで頑張ってきたんだ。
明日は何とか、何とか三着以内にナツが入る事を願う。
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