全中陸上に向けて
私は絶好調だった。最後の全中陸上まであと一ヶ月という時に、昨年ナナエが樹立した中学日本記録にあと5秒にまで迫るタイムを記録会で出した。
コーチはあえて二人で競るような練習を避けてきていたので、はっきりとは分からないけれど、ナナエに勝つ自信はある。勿論優勝する為に走る。そして中学記録を塗り替える。
出来ると思えた。波に乗っていた。走る事が楽しいと心から思えた。練習を終えても疲れた感じがせず、いくらでも走れそうな気がした。
大会までちょうど一週間に迫った日の事。
「ナツ、調子に乗り過ぎるな。練習も少し物足りない位で終えるのがちょうどいい。調子がいいと疲れを感じないだけで、負荷はしっかり掛かっているんだから少し慎重になれ。ラスト一本は速く走っているイメージだけ持って軽く流せ」
私の心を見透かしているようにコーチが言ってきた。
大丈夫、200mのラスト一本は軽く流し気味に入って、気持ち良く行けたら最後だけあげて終わろう。そう思った。
「イタっ!」
突然だった。
ゴールまであと20m位の所だった。スピードが乗ってきた所でビキッという鈍い音と共に、突然右の太腿に激痛が走り、私はその場に倒れ込んだ。
「ナツ!」
コーチがすぐに飛んできた。周りにいた選手達も集まってきた。
台無しだ。今までやってきた事、全てがこの一瞬で消えたと思った。
痛さよりも悔しさで涙が止まらなかった。コーチの言う通り流して終えていたらこんな事にはならなかったはずだ。私はまた取り返しのつかない失敗をしてしまった。
あの時の失敗、そう、ケンタの言う事を守らなかった時の失敗が蘇り、私はオイオイ泣いた。
肉離れだった。全中陸上は棄権せざるを得なかった。
でも私は松葉杖をついて試合に同行した。出場出来ないなら行く必要はないと思っていた私に、出発前日にコーチが言ってくれたから。
「やってしまった事は仕方ない。オレももう少し慎重にやらせるべきだった。すまない。ナツは本当に良く頑張った。試合に出て勝たせてあげたかったよ。中学記録も十分狙えたはずだ。その機会は奪われてしまったけど、やってきた事は無くならない。オレにも、疾風学園の皆にも、ナツ自身にもちゃんと残っているから大丈夫だ。
まずは焦らずに怪我をちゃんと治して、また頑張ろう。ナツはまだ中三だぞ。これからもっともっと強くなれる。
どうしようもない悔しさは人を強くする事が出来る。辛いだろうけど今回は、大会をその目でしっかりと見る事。出場する疾風の仲間を出来る範囲でいいからサポートしてやってくれ。
あと、ナナエには何もしなくていいけれど、しっかりと彼女を見ておけ。ナナエから何か感じるものがあるはずだから」
「あっ! カエル!」
真面目な話をしているこんな時に、思わず私は声を上げてしまった。校庭の隅で座って話をしていた私達のすぐそばを、一匹の小さな茶色いカエルがピョンピョンと飛び跳ねていった。
「す、すみません」
謝る私にコーチは笑って、私の頭に手を置き「負けるなよ」と言って立ち去った。
コーチの話を聞いて、失敗を失敗のまま終わらせてはいけないんだと思った。ケンタの事だって、このままでは失敗のまま終わってしまう。ケンタが最後に言ってた言葉を思い出していた。
『それから「地上は楽しんだもの勝ちだ」って事、厳しい時もお互い忘れないようにしような。それがナツがオレの為に出来る事。分かるだろ?』
「楽しむ事」。私は出来ていなかったと思う。自分を追い込み追い詰め、怪我をする前はいい走りが出来ていて、走る事が楽しいって自然に思えたけど、少しの間だけだった。
「厳しい時も楽しむ事を忘れない」って難し過ぎる。「厳しい時」それは「今」。「今」をどうやって楽しめばいいんだろう? ケンタ、教えてよ。
その日、私は一生懸命に考えた。まじめに考えているのに、時々あのカエルが頭に浮かんできて何だかちょっと笑ってしまった。笑うと何だか少し気持ちが楽になった。そして自分なりに答えを出してここに来た。
いつもいつも自分の事に精一杯で、誰かの気持ちを考える事なんて殆ど無かった。自分だったら何をしてほしいかな。自分が試合に出ているとしたら、どんな雰囲気だったらやりやすいかな。
自分が出来ない事を考えるよりも、今自分が出来る事を考える方がずっとずっと楽しかった。
コーチにはこの大会、特にナナエをしっかり見るように言われた。記録会や大会ではいつも自分の世界に入っていて、他の人がどんな風に試合に臨んでいるかを私は知らない。きっと学ぶ事があるはず。
しっかり見る、そしてケンタが言ってたように目で見るだけじゃなくてしっかり感じてこようと思った。
絶対にこの大会を無駄にはしない。出場する事は出来ないけれど、最後の全中陸上三日間をしっかり楽しむ事を目標にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます