第27話
「
彼女の足が一瞬止まった。数秒の間を置いて、こちらの声が聞こえなかった風を装い、その場から去ろうとする。
「待って! 『残荘』観てました! 一番好きなアニメです!」
非常階段のこもった空間に声が響く。
彼女は再び立ち止まる。踵を返して私のもとまで戻ってきて、手を掴んだ。
「来て」
「へ?」
手を握られたまま階段を上り、出入り口から立体駐車場へ。人目につかない隅っこまで私を連れてくると、彼女はマスクを外して素顔を晒した。
「やっぱり紅音ちゃんだ!」
「しぃーっ。気づかれるでしょう」
私は両手で自分の口を覆い、こくこくとうなずいた。
朱羽紅音は声優である。『残念ヒロインには
その後も順調に出演を増やしていき、今や新作アニメの五本に一本は出てるんじゃないかと思うくらいアニメ業界に貢献している。
「私、『残荘』が大好きなの。ライブイベントも行ったよ。推しは
興奮のあまりオタク特有の早口語りを発動させてしまう。
紅音ちゃんは面を食らっていたけど、すぐに眩しい笑顔を向けてくれた。
「わあ、ありがとう! 『残荘』はわたしも思い入れのある作品なんだ。放送からけっこう経つのに、今でも好きでいてくれてうれしいな」
「ひゃあああああ! 紅音ちゃんが握手してくれた!」
「さっき階段で助けてくれたお礼だよ」
数々の作品に出演している人気声優に握手してもらえた。信じられない。
「とっきーが最推しなんだけど、紅音ちゃんもめっっっちゃかわいいなぁ」
「あ、渡季推しなんだね。素敵な声優さんだったものね」
「そりゃあもう! 私史上で最強&最愛の声優だからね」
「え~そこまで激推しだと、なんだか嫉妬しちゃうなぁ」
紅音ちゃんはぷるんとした唇に指をあてがい、目を細めた。
「ね、これを機にわたしに乗り換えてみない?」
「だ、駄目だよ! 私はとっきー
「今どきMNPなんてみんなやってるよ」
「心変わりはしないって決めてるから」
「なら二台持ちは? 初月はお試し期間で無料にしておくよ」
「推しの話だよね、これ!?」
ぷっ、と紅音ちゃんは吹き出した。
「あはは、あなた面白い子ね」
「あーっ! 試したなあ! もう!」
「ごめんごめん。ほら、握手してあげるから機嫌直して」
「お手々気持ちいい!」
「でもね、わたしのことも好きになってほしいっていうのはホントだよ? 二番目でもいいから、これからも応援してくれるとうれしいな」
果汁百パーセントで作られた矢で心臓を射抜かれた気分になった。
愛嬌のある笑顔。こんな一般人でもフレンドリーに接してくれる性格の良さ。
テレビで観る朱羽紅音そのものだった。
風町渡季という信念の推しがいなければ、私の心はこの子になびいていたかもしれない。
そんな背徳めいた想像が脳裏を
女の私でさえこんなに揺らいでしまうのだから、世の男性オタクがガチ恋してしまうのもうなずける。
「本当に渡季に一途なんだね。引退しちゃって寂しいね」
「うん。でも、また夢に向かって走り出した。私はそんなとっきーを応援したいの」
そのとき、紅音ちゃんの表情が変わった。
「あなた、渡季のお友達なの?」
「友達ってわけじゃないけど、つい最近、偶然知り合ったの」
どう答えていいかわからず濁した。
「あ、勘違いしないでね。リアルで知り合えたからとっきー推しになったわけじゃないよ。彼女のことはもともと好きで――」
「あ~大丈夫、そこは疑ってないから。あのさ、渡季の連絡先とか知ってたりする?」
「連絡先はわからないけど、家とバイト先は知ってるよ」
「バイト?」
「うん、コンビニでバイトしてるでしょ?」
「初耳ね」
意外だ。とっきーと紅音ちゃんは特番でもSNS上でも仲良しだったから、てっきり近況報告も密にしていると思っていた。
「渡季はプロダクションを辞めてから賃貸も引っ越したのよ。連絡先も一新したんだけど、新しい番号をわたしに教えるの忘れてるっぽくてね。コンタクト取れなくて困ってたのよ」
「あーなるほど」
とっきーは引退と同時にSNSもやめたから、紅音ちゃんも連絡を取る手段を失ってしまったようだ。
とっきーはしっかりしている印象だったけど、元同僚の紅音ちゃんに連絡先を伝え忘れるなんて、けっこう抜けている面もあるんだな。
「それなら今から会いにいく? 実は今日、当の本人と一緒に来てるんだ」
「え!? 渡季、このモールにいるの?」
紅音ちゃんは目を丸くした。
自分で言ってから気づいたけど、このショッピングモールには『残荘』声優がふたりもいることになる。これは大事件だ。
「ん~会いたいのは山々なんだけど、またの機会にするわ。これから収録なの」
「収録ってもしかして『アビサル・フェアリーズ』の?」
『アビサル・フェアリーズ』は、有名アニメ制作会社が手掛けるオリジナルアニメ。来年一月から放送予定で、前評判は上々。
メインヒロインの声を紅音ちゃんが演じることになっている。
「アビフェアの収録はとっくに終わってるわ。今日録るのは夏アニメの分ね。これ、キャスト情報まだ解禁されてないから、話しちゃダメよ?」
「へえ~! 一年も先の収録を、もうやっちゃうんだね! すごいなぁ」
「今日録るのは番宣で、本編のアフレコはまだ先だけどね」
順当にいけば『アビサル・フェアリーズ』は翌年上半期の覇権アニメに躍り出るだろう。
その正ヒロインを務めるだけでも大役なのに、次のお仕事まで決まっているなんて、やっぱり紅音ちゃんは超売れっ子声優だ。
ふたりの尊い絡みを生で見たかったけど、紅音ちゃんは多忙な身。無理を言ってはいけない。
「へー……
「家もわりと近くなんだよ。ちなみに私のアパートも駅の反対側。すごいよね、ずっと憧れていた推しがこんな近くに住んでいたんだから」
「ドラマや漫画みたいだね!」
とっきーのバイト先を教えてあげると、紅音ちゃんはすごく喜んでくれた。
「色々ありがとう。なにもお礼できなくてごめんね」
「人気声優と直接お話できただけで昇天モノだよ」
声優と直接交流できるのは全オタクの夢。ましてや好きなアニメの声優となれば、それは一生の宝となる。
「そういえば名前聞いてなかったね」
「八重城姫梨……だけど。プリンセスの『姫』にフルーツの『梨』で姫梨」
「姫梨ね。うん、覚えたわ」
「!?」
覚えた……だと……? あの紅音ちゃんが? 私の名前を?
「はいこれ、わたしの連絡先ね」
「!?」
一緒にトイレに行った女友達がハンカチを貸してくれるような自然な動作でスマホを差し出してくるものだから、脳が一瞬フリーズしてしまった。
「これもなにかの縁だしね。わたし、姫梨のことけっこう気に入っちゃったみたい。よかったら連絡先交換しましょ」
「~~~~~っ!」
やばい。だらしない顔になっているのが自覚できる。
とっきーと出会えたのだって人生最大レベルの奇跡なのに、紅音ちゃんとも知り合いになれて、連絡先まで交換してもらえるなんて。
奇跡に奇跡が重ねられ、累乗された奇跡が無限大数的に膨れ上がっていく。
「またね、姫梨。あ、友達に教えちゃダメだよ? 流出問題になるからね」
「友達いないから大丈夫!」
「うふふ、なによそれ」
軽やかに弾む声を私の耳朶に残して、紅音ちゃんは去っていった。
その声は紛れもなく、何回も観たアニメで吹き込まれていたものと同じものだった。
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