朱羽紅音

朱羽紅音あかばあかねちゃん……?」


 彼女の足が一瞬止まった。数秒の間を置いて、こちらの声が聞こえなかった風を装い、その場から去ろうとする。


「待って! 『残荘』見てましたっ! 一番好きなアニメですっ!」


 非常階段のこもった空間に声が響く。彼女は再び立ち止まると、体を反転させて私のもとまで階段を降りてきて、そのまま手を掴んだ。


「来て」

「へ?」


 手を握られたまま階段口を抜けて、出入り口から立体駐車場へ。人目につかない隅のスペースまで私を連れてくると、彼女はマスクを外して素顔を晒した。


「やっぱり紅音ちゃんだ!」

「しぃーっ。あんまり周りのお客さんに気付かれたくないの。お忍びで来てるから」


 やはり彼女は朱羽紅音、本人だった。『残念ヒロインには理由があり荘』で、主役の一人である砂星すなぼしなぎさを演じた。『残荘』がきっかけで、紅音ちゃんは今や数々の作品に引っ張りだこだ。


「私、『残荘』が大好きなの。発売記念ライブにも行ったし、今でも定期的に円盤見直してるんだ。推しは依鈴いすずちゃんなんだけど、渚ちゃんも大好き。ていうか、『残荘』キャラはみんな好きすぎる!」


 興奮のあまり早口でまくし立てる私に対して、紅音ちゃんはしばらくの間面を食らっていたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。


「わあ、ありがとうございます! 『残荘』はわたしも思い入れのある作品です。放送からけっこう経つのに、今でも好きでいてくれてうれしいです」

「ひゃあああああ! 紅音ちゃんが握手してくれて……っ! 指ほそっ!? 手柔らか?! なんだこれえええ!?」

「えへへ、さっき階段で助けてくれたお礼です。ささやかなファンサービスってことで」


 気持ちのいい爽やかな笑顔を私に向けてくれる。


「とっきーが最推しなんだけど、生紅音ちゃんもめっっっちゃかわいいなぁ」

「あ、渡季推しなんだね。

「そりゃあもう、私史上で最強&最愛の声優だからね」

「え~そこまで激推しだと、なんだか嫉妬しちゃうなぁ」


 紅音ちゃんは頬に指を当てて、目を細め、口角を上げた。


「ね、これを機にわたしに乗り換えてみない?」

「だ、だめだよ! 私はとっきー一筋ひとすじなの……っ!」

「今どきMNPなんてふつうだって~。みんなやってるよ」

「心変わりはしないって決めてるから」

「なら二台持ちは? 初月はお試し期間で無料にしておくよ」

「推しの話だよね、これ!?」


 ぷっ、と紅音ちゃんは小さく吹き出して笑った。


「あはは、あなた面白い子ね」

「あーっ! 試したなあ! もう!」

「ごめんごめん。ほら、握手してあげるから機嫌直して」

「お手々気持ちいい!! なんか良い匂いもする! なんだこれえええ!!」

「でもね、わたしのことも好きになってほしいっていうのはホントだよ? 二番目でもいいから、これからも応援してくれるとうれしいな。えへへ」


 果汁百パーセントで作られた矢で心臓を射抜かれた気分になった。


 愛嬌のある笑顔、こんな一般人でもフレンドリーに接してくれる性格の良さ。彼女は、私の知る朱羽紅音そのものだった。風町渡季という信念の推しがいなければ、私の心はこの娘になびいていたかもしれない。


 そんな背徳めいた想像が脳裏をよぎってしまうくらいには、紅音ちゃんの魅力は確かなものだ。女の私でさえこんなに揺らいでしまうのだから、世の男性オタクがガチ恋してしまうのも頷ける。


「それにしても、本当に渡季一途なんだね。引退しちゃって寂しいね」

「うん、悲しかった。でも、今も夢に向かって頑張ってるし、私はそんなとっきーを応援したいの」


 そのとき、紅音ちゃんの様子が微かに変わった。


「あなた、渡季のお友達なの?」

「友達……っていうわけじゃないけど」

「昔の同級生とか?」

「そういう関係でもなくて……、つい最近、偶然知り合ったの」


 どう答えていいかわからず、少し濁した。


「あ、勘違いしないでね。リアルでとっきーと知り合えたから推しになったわけじゃないよ。彼女のことはもともと好きで――」

「あ~大丈夫、そこは疑ってないから。あのさ、渡季の連絡先とか知ってたりする?」

「連絡先はわからないけど、家とバイト先は知ってるよ」

「バイト?」

「うん、コンビニでバイトしてるでしょ?」

「初耳ね」


 意外だ。とっきーと紅音ちゃんは特番でもSNS上でも仲良しだったから、てっきり近況報告も密にしているのかと思っていた。


「あの娘、最近引っ越したのよ。同時にスマホも新しくしたらしいんだけど、わたしに番号を教えるの忘れてるっぽくてね。コンタクト取れなくて困ってたのよ」

「あーなるほど」


 今のアパートに住所を変えたのは最近のことらしい。私も一人暮らしを始めてまだ一年と経っていないから、同じ時期に国立くにたちに来たのかもしれない。


 それにしても、親友の紅音ちゃんに連絡先を伝え忘れているなんて、猫をかぶっていない素のとっきーはしっかりしている印象だったけど、けっこう抜けている面もあるみたいだ。


「なんなら今から会いに行く? 実は今日、当の本人と一緒に来てるんだ」

「え!? 渡季、このモールにいるの?」


 紅音ちゃんは目を丸くした。自分で言ってから気付いたけど、今このショッピングモールには『残荘』声優がふたりもいることになる。これは大事件だ。


「ん~会いたいのは山々なんだけど、またの機会にするわ。これから収録なの」

「収録ってもしかして『アビサル・フェアリーズ』の?」


 『アビサル・フェアリーズ』は、有名アニメ制作会社が手掛けるオリジナルアニメ。来年一月から放送予定で、前評判は上々。メインヒロインの声を紅音ちゃんが演じることになっている。


「アビフェアの収録はとっくに終わっているわ。これから録るのは夏アニメの分ね。これ、キャスト情報まだ解禁してないから、他の人に話しちゃダメだよ?」

「へえ~! 一年も先の収録を、もうやっちゃうんだね! すごいなぁ」

「今日録るのは番宣で、本編のアフレコはまだ先だけどね」


 順当にいけば『アビサル・フェアリーズ』は翌年上半期の覇権アニメに躍り出るだろう。その正ヒロインを務めるだけでも大役なのに、その次のお仕事まで決まっているなんて、やっぱり朱羽紅音は超売れっ子声優だ。


 ふたりの尊い絡みを生で見たかったけど、紅音ちゃんは多忙な身。無理を言ってはいけない。


「へー……国立くにたちのコンビニでバイトしているのね」

「家もわりと近くなんだよ。ちなみに、私のアパートもすぐ近く! すごいよね、ずっと憧れていた推しがこんな近くに住んでいたんだから」

「ドラマや漫画みたいで、わくわくするね!」


 とっきーのバイト先を教えてあげると、紅音ちゃんはすごく喜んでくれた。


「色々とありがとう。なにもお礼できなくてごめんね」

「そんなことないよ。こうやって人気声優と直接お話できただけで昇天モノだもん」


 声優と直接交流できるのは全オタクの夢。ましてや推しアニメの声優となれば、たとえエデンにたどり着いたとしても得られない至福を与えてくれる。


「そういえば、名前聞いてなかったね」

「八重城姫梨……だけど。プリンセスの『姫』にフルーツの『梨』で姫梨」

「姫梨ちゃんね、これからは呼び捨てでもいい?」

「!?!?」

「あれ、いやだったかな?」


 首が千切れるくらい横に振った。


 それってつまり、私の顔と名前を覚えてくれるってこと……?


「それと……はいこれ、わたしの連絡先ね」

「?!?!?!?」


 ハンカチを貸してくれるような自然な動作でスマホを差し出してくるものだから、一瞬脳がフリーズしてしまった。


「これもなにかの縁だしね。わたし、姫梨のことけっこう気に入っちゃったみたい。よかったら連絡先交換しましょ」

「~~~~~っ!」


 やばい。だらしない顔になっているのが自覚できるくらい、うれしい。とっきーと出会えたのだって人生最大レベルの奇跡なのに、紅音ちゃんとも知り合いになれて、連絡先まで交換してもらえるなんて。


 奇跡に奇跡が重ねられ、累乗された奇跡が無限大数的に膨れ上がっていく。


「またね、姫梨。あ、友達に教えちゃダメだよ? 流出問題になるからね」

「友達いないから大丈夫!」

「うふふ、なによそれ」


 軽やかに笑いながら彼女は去っていった。背中でなびくきれいな今様いまよう色の髪を最後まで目で追ってしまった。

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