<case : 10> transfiguration - 変貌
白い壁に覆われた部屋。幼少時に、よく連れてこられた部屋。
その場所では、たくさんのテストを受けた。カードの裏の模様を当てたり、幾何学のパズルを解いたり。でも、結果は毎回失敗。研究者の人がいつも残念そうな顔をしていたのを覚えている。
「やはり、発現は兄だけか」
誰かが言う。廊下を歩いていると、向かいから別の研究者に連れられて、一人の男の子が歩いてくる。年は私と同じか、少し上くらい。昔、あの部屋で一緒に写真を撮ったことがある。
男の子とすれ違う瞬間、一瞬だけ目が合う。暗くて赤い瞳。私と似ている。
ふと、思い立って振り返る。部屋に入っていく彼の横顔。
///
「……」
フラッシュバックする、過去の記憶。永い眠りのせいで、途切れ途切れにしか思い出せない。
残党街には、今日も澱んだ埃交じりの空気が漂っている。
緋色髪の女は、暴走の末に自死した瀬田ダンジの自宅に向かっていた。人目につかないよう、夜の闇に乗じ、白狐の面から、朝の来ない世界を見据えて。
ここ数日、あのヴェルという男について調べた。彼は人工生命犯罪対策室、通称ファントムに所属するエージェントだった。あの場にいた他の者たちと違う黒づくめの格好と、ダンジを追った際の人間離れした動き。彼がファントムの中でも精鋭で、恐らく特殊部隊の類に属する者だろうというのは、調べなくても分かる。
「機関の血を継ぐ組織が、今もまだある。それなのに……」
幼さの残る声で、女は呟き、ダンジの住んでいた居住区に足を踏み入れる。一段の高さが微妙に異なる階段をいくつか登り、ゆっくりと奥へ進む。
手前の部屋のドアが半分開いているのが目に入る。壁に背をつけ、静かに中を覗き込む。老婆が、血を流して倒れていた。女は即座にレッグホルスターから銃を抜く。
近くに気配がないことを確認して傍までそっと近づくが、脈は確かめるまでもなく、老婆はずいぶん前にこと切れていた。辺りは、あまりにも静かだった。アパート全体を調べる余裕はないが、もしかしたら他の部屋も……。
「ごめんなさい。後で警察を呼んであげるから……」
女は立ち上がると老婆の部屋を出て、再び突き当たりまで歩いていく。
ダンジの部屋のドアに触れる。鍵はかかっていない。ゆっくり開いて、中を覗く。
人間なら、真っ暗で何も見えないかもしれない。だが、彼女の赤い瞳は、闇の中からでも情報を得る。そういう風に、彼女は造られている。
まず、誰かがいる、それは間違いない。隠れている、侵入者に備えて。そして、匂い。
それは、紛れもなく血の匂い。
検視局に侵入して取得した瀬田ダンジのデータによると、ここには彼を除くと、あのヴェルという男が話していた兄妹とその両親が住んでいたはずだった。なのに、人数分の気配を感じない。
女は一歩ずつ、奥へ足を踏み入れていく。散乱するゴミや衣類、その他の得体の知れないものを避けながら、居間らしきスペースに入る。
「これは……」
視線の先で大人の男女が、折り重なるようにして死んでいた。先ほどの老婆と比較しても、何度も鋭利な刃物で刺されたらしく、遺体の損傷が著しい。床、壁、そして天井までが、血しぶきで赤黒く染まっている。
その時、奥の暗闇から何かが女をめがけて高速で飛んできた。
咄嗟に銃のグリップエンドでうまくその飛翔物を弾く。静寂に尖った金属音が響き、弾かれた飛翔物はそのまま女の後ろの壁に突き刺さる。
「誰!」
どうして、こんな物が?
刃が飛んできた方向に銃を向けようとした次の瞬間、闇の中から幼い少年──例の兄妹の兄が、まるで獣のように女に飛び掛かってきた。少年の力は尋常ではなく、女は背中から床に叩きつけられ、その衝撃で銃を手放してしまう。
女は腕の仕込みナイフを取り出して逆手で持つと、やむを得ず少年に向かって繰り出す。少年はその高速の手刀を避けると、後方に一回転跳躍して距離を取る。
「あなた……一体」
少年の顔には生気がなく、人形のように一点をじっと見つめている。明らかに様子がおかしい。まず、こんな少年が、戦闘技術を持っている自分を不意打ちできるとは思えない。しかも、その跳躍力や力は通常ではあり得ないものだ。
おかしな点はまだある、ダンジはいつ暴走してもおかしくないようなマキナスだったが、この少年は紛れもなく普通の人間だ。
それが、外の老婆や後ろの両親を殺した? その理由は? 一体、何があったというのか。
「お姉さんは……」
少年が口を開いた。言葉に感情が乗っていない、抑揚のない声。
「お姉さんは……ニンゲン? それとも……マキナス?」
「この人たちは、あなたが殺したの?」
「ニンゲン? ……マキナス?」
ひと呼吸置いて、女は面をゆっくりと外す。
幼さを残した、赤い髪に映える美しい顔が、その髪色と同じ赤い目で、少年を見据える。
「マキナスは……要らない……ぐぐぐ」
「どういうこと?」
「……男の人……来た。薬……くれた」
「薬……それを打ったの?」
「打ったら……上層に……住める……」
そう言うと、少年は歯を食いしばって苦しみ始めた。
「痛い! 痛い! ヴェル兄ちゃん……助けて!」
「どうしたの!」
少年は頭を抱えて叫び、やがて、ボコボコという音が身体の中から鳴り始めた。悲鳴とともに、少年の顔の半分が、内側から何かが這い出そうとしているかのように脈動し、やがて灰色の変色して硬質化した。
少年は叫びながら、ふたたび円刃を女に向かって投げた。今度はナイフで円刃を弾くと、その隙に少年は視線を女に向けたまま後方に跳んで、闇に姿を消した。
「待ちなさい!」
少年を追って、闇の中に足を踏み入れる。
そこは、壁に大穴の空いた、瀬田ダンジの部屋だった。少年の姿はすでになく、状況から判断するに、ダンジが空けた大穴から出ていったようだ。
「そんな……!」
部屋の隅には、妹らしい少女が血を流して倒れていた。
すぐに駆け寄って状態を確認する。生きている。服についている血は返り血だ。デバイスを開き、匿名で警察と救急にコールを出す。
あの少年がこれを? あり得ない。少年は兄として妹を守っていた。妹があのヴェルという男に石を投げた時も、自制心でそれを制していた。そんな子が、こんな惨いことをできるはずがない。
だが、今しがた少年に起きた異変……顔の半分が……あの顔は……。
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