第212話妖精神

「くっそ! なんでこんなに硬いんだよ!?」


 自分と鍛治神の手によって作られたこの世最高の刀である武器を手にし、仙桜種から教えられた技術で持って切り付けたエルピスは傷一つつかない邪竜の強度に驚きを隠せないでいた。

 先程までは問題なく切り落とせていたはずの邪竜の身体は、切りつければ切り付けるほどに徐々に硬化していきいまとなっては刃が通らないまでになっている。

 エキドナは早々にリタイアし、今頃は龍の谷で全身に負った傷を治そうとしているところだろうか。

 彼女の安否を気にしたいところであるが、いまのエルピスには心の中で他社をいたわる余裕すら存在していなかった。


「俺達が昔戦った時よりはるかに強いとはいえこの強度……理由は一体なんだ?」

「イロアスは原因の解明をお願い! エルピスはもう少し後ろに下がって!」

「母さんこそ下がってよ! 俺なら負傷しても問題ない!!」


 エルピスだけではなくクリムもイロアスも生傷を全身に負いながら、なんとか致命傷だけは避けて戦闘をしている状況であった。

 エルピスとしても破壊神の権能で強化されている可能性があるにしろ、ここまでの強度を持つ生物がこの世界にいる事に驚きを隠せないでいたが、実際に戦ったことのある二人の驚きはそれよりも更に大きなものである。

 竜の息吹に対してエルピスが魔法障壁を展開すると、ビシビシとひび割れながらもなんとか防ぎ切ることに成功するが、それでもいつまでも続けばいつかミスが起きる可能性もあった。


「ジリ貧ね……エルピス、最悪の場合は貴方一人でも逃げなさい」

「冗談きついよ母さん。こんなところで誰かが死ぬなんて絶対に嫌だね」

「わがままを言わないの、それくらいの相手ってわけよ」

「分かってる。それでも絶対に二人を死なせない、どれだけわがままでも俺はそれを押し通す」


 一度頑固になってしまったエルピスの思考を変える事は難しいだろう。

 ほんの一瞬だけでも顔を見ればその決意が分かるほどのエルピスを見て、イロアスはなんとかしなければと頭をフル回転させる。

 最悪なのは三人とも死ぬ事、二番目に最悪なのはクリムかエルピスのどちらかが死ぬ事。

 そう考えたイロアスは最も自分が危険でありながら、最も倒せる可能性のある選択肢を提示する。


「エルピス! 龍神の権能は使えるか!?」

「打てるよ父さん! だけどそんな隙どこにも──」

「一発分、隙を無理やり作る。気合いで当てろ」


 重要なのは敵をしっかりと殺し切ることができる事。

 いま最も攻撃力が高いのはもちろん神の称号を持つエルピスであり、イロアスはエルピスが龍神の権能を使用するまでの時間稼ぎをする為に己の命を賭ける価値があると判断した。

 自分の息子のためにならば命を差し出すことも厭わないその姿勢、それは英雄だからではなく彼が素晴らしい父親であるが故のものだ。

 その信頼に応えるようにしてエルピスの身体は光の粒子をその身に纏い、徐々に髪としての力を強めていく。


「絶対に当てる──っ!!」


 龍神の権能は必中で必殺、放たれた瞬間に結果の確定するこの世界で最も最強の攻撃手段である。

 エルピスの手のひらから放たれた息吹は神域ですら感知不能な速度で放たれると、邪竜の脳天目掛けて飛んでいった。

 思わず勝利を確信してしまうほどの圧倒的な手応え、これで負ければどうすればいいのかいよいよ判断が難しくなってくるほどの一撃。

 だがそんな龍神の権能は無惨にも邪竜の額に弾かれる。


「弾いた!?」


 弾かれていった龍神の権能は空高く舞い上がりながらほんの一瞬爆ぜたかとおもうと、立っていられないほどの強風と熱風を辺りに撒き散らしほんの余波でしか無い威力で周辺数百キロにいたであろう生物全てを抹消しえた。

 能力の判定外に存在するが故にエルピスやイロアスなどといった面々は無傷であったが、その対象に入っている邪竜が無傷で済んでいるのはもはや理解の範囲外である。


「そんな筈は──龍神の権能は必中のはず、それを弾くなんて有り得ない!」

「一旦体制を立て直すぞ! クリムはエルピスを抱えて後ろに下がってくれ!!」


 イロアスの言葉に反論する時間すら惜しむようにして、権能の反動によりまともに動けなくなったエルピスを小脇に抱え込みながらクリムは走る。

 幸い熱発の方は嫌がらせ程度にはなっていたようで、邪竜は不機嫌そうにしながらも動く気配はなさそうである。

 抱えながら逃げる中でエルピスは己の中で可能性として考えられるものを整理していた。

(理由を考えろ、なんでだ? なんで龍神の息吹が効かない? 相手が龍神だから? いやそれば絶対にあり得ない。

 あれは竜じゃない。龍じゃない事が問題なのか? いやそれも違う、封印されていたことは? 関係ないだろどう考えても!)


 思考は堂々巡り、考えても考えうることではこの結果こそ異常なのだから。

 発狂しそうになる頭をなんとか抑え込み、絶望しそうになる心を無理やり否定してエルピスは更なる可能性の探究を目指す。

 それは前人未到の領域、この世界での禁忌の一つにも近い程のもの。

 先程の権能使用時よりもさらに強い光がエルピスの体を包み込み、森妖種の国で暴走していたあの頃のほんの一歩手前までの力の狂気に体を支配させる。


(かくなる上は致し方ない、上手くいってくれ!)


 妖精神の権能で最も最強と名高い能力はその未来を見通す目であることは周知の事実だが、最も利便性の高い能力は別にある。

 それは過去を知る力だ。

 歴代の妖精神は未来を見通す目と過去を見る力の両方を持って全知に近い知性でその力を大いに振るった。

 今代の妖精神もその例に漏れず、己の権能を解放した妖精神は気がつけば過去の世界にいた。

 自分を抱えて少しでも遠くへと逃げようとしていた母の姿は隣になく、代わりに若き頃の父と母、そして前国王の姿などが見受けられた。

 彼等はいまと同じように黒龍と戦っており、その戦闘はさすがに世界中で語られるだけあって何にも変え難いほどの技量と圧倒的な力によって見るのもを圧倒させるほどの戦闘を行なっている。

 一挙手一投足に意味を持たせ常にお互いの位置を意識し合い邪竜を攻撃し続ける父達。

 だが時間が長引けば長引くほどに人間である父達は疲弊していき、疲れを知らない邪竜のみが優勢に変わっていく。

 だがそれでも何度か致命傷を与え、もう少しで戦闘が終わるだろうと言う頃にはもはや父と母しか立っていなかった。

 いや、父も立っているかと聞かれれば正直怪しいものではあった、全身血だらけで返り血が自分の血かも分からないような状態。

 父でなければ死んでいるだろうとエルピスに思わせるには十分なほどの体だったが、それでも立っているとエルピスが判断したのはその目に闘志が宿っていたからだ。

 全身から魔力を激らせた父は一心不乱に邪竜へと攻撃を続け、邪竜がそれを嫌い攻撃を仕掛けると母がなんとかそれを止め続ける。

 神がかり的で奇跡を常に起こしているような、針のように細い糸の上で行われていた戦闘はついに終わりを見せ、邪竜はその体を大地につける。


 確かに父が口にしていた通り特におかしなところはない。

 ただ強すぎる邪竜を英雄が奇跡的な所業で打ち倒した、エルピスにはそうとしか見えなかったのだ。

 どれだけ頭を回して見たところで気がつくことなど一つもなく、ならば考えが底から間違えていたのだろうか。


(考えろ! ここで何も思い付かなきゃ絶対にどっちかが死ぬ。父さんと母さんが…妹が…全員が死ぬっ! 何か! 何か!!)


 過去の世界で邪竜を倒し笑みを浮かべる両親の顔を眺めながら、エルピスは頭を抱えて可能性を全てリストアップしていく。

 だがダメだ。

 エルピスの頭で考えられることなど所詮は限界がある、さらに言えば残念ながら過去の世界にいつまでだっていられる訳じゃない時間制限はついて回る。

 過去の世界から戻ればその瞬間エルピスは選ぶ事になるだろう、父と母を逃し自分が死ぬかどちらかに犠牲になってもらうか。

 そんな事考えたくないと考えることは簡単だが、決められた定めから逃れたいのであればその定めを解き明かすほかないのである。

 絶望に打ちひしがれそうになりながら、それでも何かないか考え続け、そうして気がつけばエルピスは知らない場所にいた。

 いや、きっと知っているのだろう、ただ思い出せないだけだ。

 どこかの国のどこかの町、そんな街の人混みに紛れていつものように影が嬉しそうに手を振っていた。

 人が想像する未来そのもの、可能性の神でありエルピスが心の中でいま一番求めていた存在でもある影はニヤリと頬まで裂けそうなほどの笑みを浮かべる。


「素晴らしいよエルピス、最悪の結末を迎えたくないという君の願いは僕すらここに引き寄せた。常世の神がこの僕を呼び出したんだ」


 影は耳まで裂けるほどの大きな三日月の口を作り、産まれて初めて笑うかのように大きく不恰好な笑い声を上げる。

 引き攣っているようなそんな笑い声を聞きながら。エルピスは彼の言葉の意味を理解するよりも先に問いたださなければいけない事を聞く。

 膝を折り、手を頭よりも上にして、まるで神に祈るようにしてエルピスは懇願した。


「なぁ頼む! どうすればこの状況を打開できる? どうすればあいつを──」

「まぁ待て、そう焦るなよ。かっこよさって言うのは落ち着きの中にある。

 常に他者からどう見えるかを考える必要はないが、他者の前では己を律しなければ……そんな目で見るなよ、わかってる教えるよ」


 いまはそんな場合ではないと言いたげなエルピスに対して、影は流石におちょくり過ぎたかと反省すると淡々と事実だけを述べ始めた。


「アレは俺が自分の手で用意した英雄作成用機構、この世界で唯一直接英雄になるための足掛かりがアレなんだよ。

 英雄は一人で戦わなければいけない。その場で戦闘の意思を示している人間が死力を尽くし戦闘を行えばギリギリ勝てる強さに邪竜はなるし、その人物と一対一でないと瀕死の邪竜は攻撃を喰らわない。

 一人は一種族につき一人だからいろんな種族で同時に戦闘を仕掛ければその枷もほとんど意味を成さないんだけど、まぁ今回ばかりはね」

「なら俺が一人であれと戦えばいいのか?」

「そう。父君も母君も既に英雄だからね、もう戦えない。だから君しかいないのさ」


 英雄であった父や母の攻撃が通ったのは邪竜がまだまだ生き生きとしていたから、だがいまや邪竜も瀕死のようでそうなってくると条件とやらも信憑性が無いわけでは無い。

 龍神の権能を防げるとなるとそれくらいの──世界のルールよりもさらに上の破壊神が作り出した概念があっても不思議なはなしではない。

 どちらにせよこれで邪竜討伐の目処は立ち、最悪の事態は避けられそうである。


「……助かりました、疑っててすいません。これからは貴方の言うことには耳を傾けるようにします」

「まだ疑ってたの? 疑り深いな、だけどその言葉はもう少し後まで取っておいたほうがいい。

 こちらにとっても想定外の事態が起きた、その軌道修正のために魔界から離れていたからね、君が呼び出してくれて助かったよ。

 このまま放置していたらこちら側でも大変なことになっていた」

「そっちでも何か?」

「君はきっと僕を恨むようになるだろうけれどあえて言わせてもらうよ、言えない。

 いまの君は邪竜との戦闘だけを考えるんだ、生きていれば法国に向かう最中のどこかで夢に出るよ」


 嫌な予感がほんの一瞬だけ頭をよぎり、その可能性を考慮に入れることすらいまからの戦闘では死に直結すると考えたエルピスはその考えを思考の海から取り除く。

 影の言葉が本当ならば問いただすのはいまでなくとも良いだろう、もしその時に影のことを敵だと認識していたのならばその時に動けばいい話。

 別れも告げずにどこかへ行ってしまった影の跡を惜しむようにしてエルピスが目を閉じると、気がつけばクリムの腕の中でゆさゆさと揺さぶられている最中であった。


「──エルピス! 大丈夫!?」

「大丈夫だよ母さん。あいつの能力がわかった、ここから先は一対一で戦わせて」


 おそらくは二度目の権能の使用、それによって気絶したであろう息子をなんとか死の淵から引っ張り戻せたと安堵したクリムに対して、いきなりエルピスは驚きの言葉を口にする。

 あの邪竜はもはや誰も勝てないだろう、誰があれに負けて文句をつけるというのか。

 この世界のおおよそクリムが把握している軍隊などと呼べるものでは相手にならない、最高位冒険者を全員呼んでようやく戦闘として成り立つだろう。

 そう思えるほどの相手に対してこともあろうに一人などと、母親としてそんなことを認めるわけにはいかなかった。


「ダメよ! そんな事させられるわけが…」

「やらないとダメなんだよ母さん。俺一人でやらないと、それがあいつを倒せる唯一の方法なんだ」

「……分かったわ、危なくなったら助けに入るからね」

「それもダメなんだよ母さん、本当に一人じゃないとダメなんだ」


 本当に一人でしか倒せないのか? 他に方法はないのか? そう聞きたくなるクリムだったがエルピスが先程まで使用していたのは権能だ。

 権能とは英雄の常識すら覆しうるほどの圧倒的なルール違反、この世の例外の力を使った結果それが答えであるというのならばそれ以外の方法はないのだろう。

 だからこそクリムは一人で戦いたいという申し出に対して素直に受け入れた。

 下唇を噛み切ってしまうのではないかと思うほどに噛み締めながら、世界と息子の命を天秤にほんの少しでもかけようとしてしまう自分を恨みながら送り出すことも考えた。

 だが危なくなったら助けに入ることもできないなど、あまりにも酷いではないか。

 だとすればもし目の前でエルピスが死にかけていたとしても、自分の息子が目の前で殺されそうになっても手を出さずに呑気に指を咥えて死ぬのを待てというのか。


「そんな…貴方に何かあったら……私の可愛いエルピス」

「ごめんね母さん、でもここだけじゃない、辛いのは他のところだってそうだよ。父さん達はニル達の援護に行ってあげて」

「あの二人なら強いから大丈夫よ。だから…ね?」

「母さん、二人は冷静じゃないからきっと冷静に戦えない。けど俺はいまそれを気にする余裕がないんだ、だから母さんにしか頼めない」


 イロアスは邪竜を抑えるために集中しているため、会話は耳に入っているが会話に入れるほどの余裕はない。

 だからこそクリムはイロアスの分も責任を持って決断する必要があった。

 逃げるだけであれば今からでも三人とも逃げられるだろう、この世界を犠牲にして逃げるのなんて簡単なことだ。

 一度は助けてあげた世界、それを自分達の手で間接的にでも終わらせることに罪悪感こそあれど家族を救うためであれば割り切れる。

 だがクリムと違いイロアスもエルピスもこの世界を守るために動いているのだ。

 なら自分にできる事なんてもう信じて送り出すことしかない。


「──分かったわ、そう言う事なら任せなさい」

「ありがとう。父さんもそう言う事だから」

「死ぬなよ」

「大丈夫だよ」


 撤退していく父と母の背中を見送りながら、エルピスは軽く息を吐く。

 解放している権能の数は四つ、龍神・魔神・邪神・妖精神。

 戦闘に使うだろう最低限度のリソースだけを残しておき、フェルやエキドナに貸している権能もほとんど自分のものとして掌握しエルピスは邪竜の前にたった。

 相変わらず右手には刀を持ったまま、だがいつもとは違い構えを作ったりはしない。

 必要なのは敵を殺すことだけ、今回に限って言えば条件は本当にただそれだけである。


「両親の名にかけてお前を倒す。英雄の子、その力を見せつけてやる」


 言葉が通じるなどとは微塵も思っていないが、名乗りを上げることこそが英雄としての試練に挑むに相応しい態度であるとエルピスは考えていた。

 だからこそ自然と名乗りは口からこぼれ、片手で握っていた刀を両手持ちに切り替えるとそのまま邪竜へと向かって切り掛かる。

 刃先は先程までのような硬い感触ではなく柔らかいものを切った手応えが感じられ、攻撃が通じることがこれで証明されたわけでもある。

 だが刀による傷はやはり致命傷となるには遠く、エルピスが魔法を放つために後ろへと下がると邪竜もそれに合わせて新たな能力を使用する。


「──────!!!!」


 吠える邪竜の口から飛び出たのは息吹ではなく小さな珠。

 黒いそれは邪神の権能が触れるべきではないと判断する程の危険なもので、エルピスは弾丸のような速度で飛んでくるそれらを神域の全開使用でなんとか避け切る。

 鑑定してみればそれは虚空の中に広がる液体、触れればこの世界のありとあらゆる毒よりも凶悪であると言われていた液体を口の中に隠し持っていたのだ。

 なんとも卑怯な手もあったものであるが、それでも戦闘に使えるものを有効活用している相手に対して文句など言えるはずもない。

 充分な距離を離したと判断したエルピスは地面に刀を突き刺すと、両の手を前へと突き出して多数の魔法を発動させる。


「まだまだっ!!」


 この世界にきてから撃った魔法の数よりもさらに多い魔法の数々。

 考えうる全ての属性でもって放たれたその魔法は邪竜を切り刻み、叩きつけ、伸ばし、削り取り、消し飛ばし、初級に分類されるものから神級に分類されるものまでおそらくこの世界の魔法文明ではもはや到達不可能なほどの数多の魔法が放たれた。

 だが邪竜は死なない。

 その巨体を一歩一歩前進させ、エルピスの命を刈り取るため確実に一歩ずつ前へと進んでくる。

 まるで死神、これが本当にこの世界の生き物だなんて冗談もいいところだ。

 一体どうすれば死ぬのか、どれだけの魔法を放てば死ぬのか。

 あと少し──ほんの少し──


「まだ…死ねない…っ! 俺はお前を……」


 魔神の身体は魔法を最適化し、通常では不可能な量の魔法の同時発動を可能にし、無限の魔力を宿すことができる。

 だがその魔神の体ですら耐えきれないほどの魔法の使用にエルピスの身体はほんの少しずつ変化し始める。

 いつもより病的に白くなった肌には血管が浮かび上がり、顔の至る所からの出血はもはや痛々しさを感じずにはいられない。

 だがエルピスは魔法を撃つ手を止めることはない。

 全身の痛みを無視するために砕けてしまうほどの力で歯を食いしばり、喉が潰れてしまうほどの大声でエルピスは吠える。


「…殺す!!」


 だが邪竜はついにエルピスを殺せる距離にまで近づき、その凶爪によってエルピスの頭部を吹き飛ばそうと横凪に爪を払う。

 もはやエルピスにそれを避ける気力は残っていなかった、体に力を入れようとしてもどう頑張っても動いてくれそうにはない。

 敗北を確信するにはあまりにも長いだけの時間がそこにはあった──が、邪竜の爪はエルピスの頭部を刎ねることはなくそのほんの少し上を通過していく。

 邪竜に攻撃が蓄積されていたこととエルピスが疲労のあまりに上体を維持できなかったこと、どちらにせよ偶然が重なりこの一番に明確な隙が生まれる。


「ァァァァァアッッ!!!」


 踏み出した力をそのまま、邪竜を貫かんばかりの威力でエルピスは真っ直ぐ突撃した。

 深々と突き刺さった刀は竜の心臓を正確に貫き、命の灯火が竜の目から徐々に消えていく。

 魔物ならば体内に必ず存在する核、それを完璧に破壊したのだ。


「────!!」


 だが邪竜は未だ死なず。

 核が破壊されようとも体に残った力だけでせめてエルピスだけでも道連れにしようと手を差し伸ばしエルピスの体を完全に掴む。

 手の中でもがくエルピスはさぞ邪竜には滑稽に映っていることだろう、この格好からではもはや刀による攻撃などできるはずもない。

 だがエルピスはもとよりこの程度で邪竜が死ぬなんて考えていなかった。

 だがらこそ彼は#詠唱を終わらせた__・__#。

 師匠から受け継いだ剣の技、もちろん信頼に足りるそれとは別に、エルピスにはもう一つの奥の手段がある。

 魔法はいつだってエルピスの最終手段、ましてや使用制限すら世界から設けられる最強の魔法ともなれば最後の最後までのこして置くものだろう。


「神の体を生贄に、大いなる悪を討ち滅ぼす。#三重詠唱__・__#、天災魔法〈天地開闢〉」


 天災魔法の同時使用によって放たれる自爆魔法はこの世界が作られた時と同じ温度の獄炎を無造作に当たり一体に撒き散らす。

 その炎の中では法則という概念は存在せず、世界が作られる前の状態へとゆっくりと戻り始めていく。

 眩い光の中黒き邪竜はその身体をバタバタと動かすが、もはやその行いは無意味であると断言できる。

 そうしてゆっくりと白に侵食されるようにして邪竜は溶けて消えていくのだった。


 /


 世界への影響を考慮して閉鎖された空間で戦う三名の戦いは、拮抗しているというにはあまりにも片側の生傷が多かった。


「ここら辺が引き時かな。楽しめたよお姉さん達」


 全身に傷を覆いながらもその命は未だに健在。

 むしろ傷を負えば負うほどに敵の動きは素早く重たくなっていき、瀕死の重傷でありながらいまが一番強いと言っても過言ではないほどのものだった。


「姉さん逃がさないで!」

「もちろんわかってるわよ」


 だが逃げる敵の背中を見過ごす理由にはならず、セラが能力を使用すると空間は完全に外の世界と隔絶される。

 これで転移魔法を含めて全ての技能による移動方法も阻害され、敵は完全に逃げ道を無くしたというわけだ。

 しかし窮鼠猫を噛むという言葉もある通り、追い詰められた生物というのはここぞというところで思いもよらないほどの力を発揮することがある。

 油断なく構え直したニルとセラを前にして、それでも男はタダで死ぬ気は無いようだ。


「逃げられないか……仕方ない。どっちか片方は絶対に死んでもらうよ」

「やれるものなら──」


 戦闘再開の合図とも取れる男の言葉に対してセラが言葉を返そうとすると、完全に閉鎖されたはずの空間にヒビが入る。

 この世界に干渉できるのは相当上位の神だけ、だがヒビを入れて無理やり中へと侵入することができるのはそれこそ最上位の神にしか許されない芸当である。


「おい、いつまで遊んでいる」


 空間へと入ってきたのは全身を白で覆った大男であった。

 その男の顔を見た瞬間にニルとセラは今日一番の警戒心を顕にする。


「誰かと思えば冷愛と狂愛の女神じゃないか」


 それはかつてセラが女神であった時に武器を交わした破壊神の僕であり、破壊神陣営の実質的なNo.2。

 破壊神の右腕でありこの世界には本来存在することが不可能なはずの神の一柱の一つでもある。


「お前は……なぜここに」

「私はかのお方の言葉を告げるもの。かのお方が存在する世界に私はいる。

 残念だがどちらも本調子ではないようだな、それで私に勝てるかな?」


 この世界で彼がどれくらいまでその実力を発揮できるのかは定かでは無い。

 かつてロームをエルピスに召喚させた時には、その力の全てを封印し召喚したのにも関わらずエルピスの魔神の権能のリソース全てを食らってしまっていた。

 だとすればこの世界で彼があの時と同じような実力を発揮出来ると考える方が不自然ではあるが、もしあの時の力を30秒でも発揮できるのであればセラとニルの敗北は必須である。

 空間形成のために使う力すら無駄だと判断したセラは、閉鎖空間を解除して油断なく構えを取ると互いの間に沈黙の時間が訪れる。

 どちらから先に手を出すか、そんな状況で均衡を破ったのはエルピスに見送られて援護にやってきたイロアス達である。


「ニルちゃんセラちゃん援護に来…た…ぞ? どう言う状況なんだこれ」

「お父様、下がっていてください。目の前に居るのは神です。それも片方はこの世界の神ではない」

「ふむ、君に父親が居たという話は聞いたことがないな。だがまあいい、先ほども言った通り今回はここまでだ。

 次は3年後、人類生存権の外側から人類種を滅ぼすために我らは行動を開始する。

 その時までは偽りの安寧を享受するのだな」


 だがイロアス達がやってきたことで戦闘意欲が削がれたのか、破壊神の右腕はそれだけを言うとどこかへと向かってと去っていってしまった。

 できれば殺し切りたかったものだが、リスクを取るにはいまの状況はあまり芳しくなかったので仕方がない。


「いったん脅威は去った…のか?」


 イロアスの疑問たっぷりの言葉に対して答えられるものは誰もいない。

 とはいえこれにて魔界での戦闘は無事に終結したのである。

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