幕間:外出

 街中を歩くエルピスとアウローラ、その少し後ろにコソコソとした二つの人影があった。

 人影の主はイロアスとムスクロル、分け合って後から追いかけているわけだがその姿は普段の堂々とした立ち振る舞いからは考えられないほどひどく他社の視線を気にしてるようにも見えた。


 服装は黒く視線は周囲を気にしているように落ち着きがなく、とてもではないが英雄や大と呼ばれるような人間の立ち振る舞いではない

 もちろん彼らも目的がなくそうしているわけではない。

 今回の彼等の目的はヴァスィリオ家とアルヘオ家の両家の関係性を良くするために今後家を継ぐであろう2人に親睦を深めてもらおうと少し前から計画していたものを実行に移したのである


 計画は実にシンプルでまず王都内を自由に散策してもらった後、近くのカフェや喫茶店などでたわいのない会話を繰り広げてもらいある程度仲良くさせることが今回の目標だ。

 聞けば2人の間に会話がないわけではない。

 むしろ王族やその他の貴族に比べれば2人の会話は特段多いと言える。


 それはおそらく2人が転生者であることが関わっているだろうと言う事は王もわかっていることだが、端から見てみればいまだに知り合いの域を超えていないようなそんな雰囲気を感じてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。


 本来ならばヴァスィリオ家党首であるビルムが後をつけたかったところではあるが、残念ながらビルムは仕事の山に埋もれてしまいいまや動く屍のようになっていることだろう。


「エルピス君がどちらに転ぶか、気になるところではあるな」


「どちらに転ぶか? エルピスはあれでも結構明るい子だ、友達の一人や二人くらい簡単に作れるさ」


 イロアスの脳内で楽しそうな笑みを浮かべるエルピスは、幼い頃から一定水準の社交性というものを有していたように思える。

 もちろん幼さが残るところがないわけではないが、それでも年上相手にあれだけ会話が成立するのだから同年代との会話も上手い具合にいくだろうというのがイロアスの読みだ。

 だがそれに対してムスクロルは首を横に振る。


「友達の話をしているのではない。あそこにいるのは男と女、それも仮にも王国内では成人と同じような責任を追求される十歳を既に超えている。

 誰と付き合うか、誰と愛し合うか、そういう話だよ」


「なっ!? エルピスはまだ幼い子供なんだぞ! そんな事まだ早い!」


「早いか遅いか、それを決めるのは本人達だ。それにエルピス君の子供は多い方がいい、妻もなるべくな。所帯を早く持たせないと狡猾な奴らはすぐに来るぞ」


「くっ……」


 アルヘオ家の価値はこの世界で最高峰だ、もし取り入ることができたのであれば玄孫の代にまで渡って安定した生活が送れることは間違いがないだろう。

 だがアルヘオ家に雇われることはとても難しい。

 関わる仕事という意味で言えばないわけではない。

 たとえば税務間、各支部にあるアルへオ家の取引先などなど。


 だがメイドや執事として働くのはほとんど不可能だと言っていい。

 各国にある家にいる執事やメイドはそのほとんどがイロアスかクリムが直接選んだ人間であり、それ以外だとその家にいる人物がどうしても人手が必要になり雇っているというような状況だ。

 お抱えの商人や鍛治師というのは既に繋がりが出来上がっておりいまさら参入するのはとてもではないが難しい。


 それらの要因が相まって他者がアルヘオ家に関係性を持とうと思うならば嫁か夫になることが、最も楽な方法であると考えられる。

 しかしイロアスはこれ以上嫁を持つつもりがないし、クリムとてこれ以上旦那を迎えるつもりもない。

 もしかすれば可能性がなかったと言うわけではないが、ニ人の物語はエルピスが想像しているよりもさらに根深い人気を得ており、今更ニ人の間に誰か他の人物が参入すると言うのは難しいことであった。


 その点エルピスは楽でいい。

 まず幼い、小さな頃の男児など優しく甘えさせてくれる女性には目がない、だからそんなエルピスを狙う女性というのは少なくないだろう。

 それに小さい頃から関係性を手に入れておけばメイドや商人としての道もある、イロアスとは違い第二第三夫人の道だって十分開けていると言っていい。


 これ以上ないほどの優良物件、狙われない方が難しいというものだ。


「ほら来たぞ」


 そうこうしている間にもアウローラが隣にいるのを分かっているにもかかわらず、まるで何も居ないかのようにしてエルピスに話しかける女性達の姿がそこにはあった。

 街中で喋りかけられている以上エルピスも対応しないわけにもいかず、そうして時間がかかってくると付近にいる人間はエルピスは喋りかけると対応してくれる人物であると考え始める。


 そうするともう外出なんて満足にできなくなるのだ。

 だからイロアスは基本的に外出中は変装をするし、クリムはそもそも人の街に顔を出すことが殆どない。


「仕方ない。俺らが対応するか」


「息子に甘いぞイロアス。それに俺は王だぞ、民草にこんな格好を見られるわけにはいかん」


 仕方がないから息子のために一肌脱ぐかと一歩前に出るが、ムスクロルに止められてイロアスはそれもそうかと後ろにさがる。

 だがそれとほぼ同時にイロアスたちの方に視線を向けたエルピスは、普段の人畜無害そうな顔からは想像もつかないほどに悪そうな顔をしながらイロアスたちの方に指を指し周りの人間に言葉を投げかける。


「そんなこと言っても――あいつ俺らの方に指差してないか?」


「……イロアスお前しくったな。俺は一旦離れる」


「おい嘘だろお前!?」


 一目散にこちらに向かってやってくる大衆の姿は確かにイロアスの方へと向かってきていた。

 音も無く消えていくムスクロルと同時にイロアスはしぶしぶ対応に回るのであった。


 ¥


 場面は変わってエルピス側。

 道中で様々な人に話しかけられ困っていたところ、店のガラスに偶然反射した父の姿を見かけたエルピスはその対応をすべて父に投げ捨てて人通りの少ない道路をアウローラと共に歩いていた。


「相変わらずアルへオ家は人気ね? まさか写真もSNSもないこの世界で顔まで割れてるなんて」


「同じ服ばっかり着てるのでそのせいかもしれませんね。次からは変装して外出するようにしましょうか」


「黒髪は目立つから髪色も変えた方がいいかもしれないわね」


 この世界では国王からの説明もあった通り黒髪の数は極端に少ない。

 アウローラと共に横を歩くのであれば、そんな珍しい黒髪が二人もそろうわけで、そうなってくるとエルピスの事を知らない人物でもおそらくそれなりに名前のある人物なのだろうという事を予想されることもある。


 髪色を変えると髪が痛むのであまりやりたくはないのだが、それでも普段の行動が難しくなるのであれば致し方のないことなのかもしれない。

 そう考えていたエルピスはふと昔の事を思い出す、そういえば彼女はアレを持っていたはずだと。


「それで言えばアウローラ様は道具持っていませんでしたっけ、髪色を変える事の出来るようになる」


「これの事?」


 アウローラが無造作にポケットの中から取り出したのは小さな指輪だ。

 装飾もなく無骨なそれを指にはめてアウローラがほんの少しだけ魔力を込めると、綺麗な黒の長髪であったアウローラの髪は徐々に金髪へと変わっていき、数秒もすると色も落ち着いて元からそうであったように綺麗な金髪に変わっていた。


「どうこれ、便利でしょ。貴族たちの間でよく使われている変装用の装備品よ」


「へえ、魔道具を用いての変装ですか、面白いですね」


「一応これも魔法を使ってるわけだし、真似したり出来ないの?」


「練習すればできないことは無いでしょうが……すぐには無理ですね」


「あんなにすごい魔法が使えるのに?」


「魔道具を使用しての魔法は通常使われる魔法のそれとは違うのですよ確か。あまり詳しい話は知らないのですがね」


 そもそも魔道具とは何か、それから語る必要があるだろう。

 魔道具とは魔法を魔力さえ持っていれば誰でも扱えるようにする道具であり、この世界で機械の代わりに一般的に普及している便利な道具である。

 発案者は土精霊と人間とされており、亜人種を含め多くの種族が魔道具による生計を立てていた。


 今回の髪を金色にする魔法などもそういった魔道具の特性を活かしながら作られた者であり、元となる魔法はもちろんあるのだがそれを知らないエルピスはこの魔道具に刻まれた魔法を真似するほかない。

 だがそれは魔道具ように作られたものだ、物にその魔法を刻印した後に使用することは今でもできるかもしれないが、何もない状態で使用するというのは難しい。


「なんでもできそうなのに意外と何もできないのね」


「うっ、ぐさっとささること言いますね。所詮はまだまだ現実的な範疇ですよ私の力なんて」


 現実的な基準をどこに置くかで話は変わるが、父や母に比べればまだ出来ないことの方が多いとエルピスは考えていた。

 それでももちろん規格外ではあるのだが、逆にそんな彼ですら細やかなルールに縛られていることがアウローラからしてみれば億劫な出来事でもあった。


「それだけの力を手に入れても、自由なんて得られないのよね」


「……何が言いたいんですか?」


「いや何も。子供と喧嘩なんてするつもりないわよ、ましてやお互いに立場のある身なんだから。店に入りましょ」


 子供と議論を交わすことはあっても喧嘩をするなど恥ずかしい。

 言い方が悪かったなと己の言動を改めながら、アウローラは店の中へと入っていくのであった。


 /


 脅威の子、定めの子、特異点。

 エルピスを形容する言葉というのは通り名ですらそれほど多く存在するのだ。


 にこやかな笑みを顔に貼り付け、その腹の下で何を考えているのかもろくにわからないような男の相手をしながらアウローラは昼間のことを思い返す。


(エルピス君は元気にしているかしら。まさか彼が高校生だったなんて、若いとは思ってたけれど本当に子供だったなんてね)


 王国の貴族達が集まる舞踏会、もちろん王国貴族の頂点に君臨するヴァスィリオ家の令嬢であるアウローラも参加しているわけだが、エルピスの姿はどこにもない。

 それはクリムがエルピスの参加を認めなかったからだ。

 彼女は人の汚れた部分を嫌い彼女自身もこういった場には決して姿を表すことはなかった。


 貴族の子供であれば10を越えれば舞踏会へと足を伸ばし、そうしてすいもあまいも味わいながら大人になっていくのだ。

 一夜の過ちによって枕を濡らす少年少女は数知れず、芽生えた恋心は両家にとってどれだけの利益を生むかという打算でしか計算できないようになっていく。


 そんな中でアウローラは一人だけ異質な存在であった、まずアウローラは親に願われてこの場にいるのではない。

 自らの意思でこの場にいるのである。


「それにしてもアウローラ嬢は本当に聡明な方だ。ビルム殿もこれであれば将来は安泰だな」


「まぁ叔父様ったら、まだまだ私は未熟な身でございます。お父様の心労は残念ながら未だ拭う目処すら立っていません」


 そして大人達と対等に近い関係性を築けていた。

 それはもちろんアウローラの家の力もある、それを否定するのであればこの話はそれまでになってしまうだろう。

 だがそれ以上にアウローラの聡明さというところが、利益を追求する王国貴族達の琴線によく触れているのだ。

 話せば様々な会話が可能で、政治的な話にもそれなりに耳が立ち、なによりもどちらが上でどちらが下かというのを明確に理解している。


 これは貴族にとって大切なことだ、相手の所属している派閥や最近の盛況具合に武力の有無や性別などなど。

 どちらが上で下かを明確に見極める目があったのなら、他者との交流は随分と上手くいくことだろう。


 その点アウローラはそれが神がかり的に上手かった、それに交渉させると確かにな、とかなるほどな、とかなんとなく反論しにくい感情を心の内に作らせる力に長けているのだ。


(これで今日のところの仕事は終わりかしら)


 ホッと一息をつき会話をしていた貴族の元を離れ、ベランダから身を乗り出して風を浴びながら外を眺めて時間を潰す。

 アウローラがいましていたのは自分がこれから歳を重ねて行った後、そこで得られるコネ作りのための作業である。


 正直に言ってしまえばヴァスィリオ家がこれより下や上に行くことは無い。

 これより上は王族だし下は諸事情や家族間の交流なども含めて落ちることなど無いといってもいい。

 だとするとなぜわざわざアウローラがこの場所に来ているか、それは結局のところ保険とそれくらいしか出来ることがないからだ。


 保険はその考えれないほど悪いことが起きた時用に、その時に自分の家族が不利益を被らないためのものである。

 そしてそれくらいしかできない、とはその言葉の通りだ。

 アウローラはまず基本的に家から出る事に良き顔をされない、父と母はアウローラの事を確かに愛しているのだろうが、それ以外の身内や使用人などはアウローラの事を忌み嫌っている。


(そりゃあ可愛い孫の中身が知らない女だったらドン引きもするでしょうね)


 たとえば腹の中から出たばかりの子供が喋り始めたらどうだろうか、自分の知らない事を知っていたらどうだろうか。

 人間が心の内に浮かべる感情はまず間違いなく不気味の一言に尽きるだろう。

 そうして二言目に何が出てくるかといえば、私の子供を返してほしいだ。


 だが言わせてほしい。何も別に貴方の子供を奪い取ったわけでは無いのだ、ただ私という存在が貴方の子供として生まれてきたという事実だけが残っているだけで、貴方が想像していた可愛らしい子供というのは存在していなかったのだ。

 だがそんな事を許容できる人間なんていない、せめて種族も何もかも違うものが産まれたらならまだ納得できるのかもしれないが、外側だけ想像通りのものが出てくるのだ違和感は拭い切れないだろう。


 むしろ父や母の対応が異常であるという事をアウローラは十二分に理解しているし、だから己の存在価値を父や母以外にも示し続ける必要性があった。

 父や母が突然死んでしまえば後に残るのはアウローラをまるで怪物のように扱う人物達だけ、そんな中でのうのうと暮らしていけるほどアウローラは能天気では無い。


 己の存在価値を証明できるのが己だけしか居ないのであれば、虚構によって作られた全てが嘘の空間で人形として踊る事だって許容する必要がある。


(……エルピス君に意外と何にも出来ないって言ったのは言いすぎたかな。彼もこの世界に来ていろいろ大変な中で頑張ってただらうに、私がストレスを溜め込んでるからって強く当たりすぎたかしら)


 だがアウローラの考えは残念なことに優しさを捨てきれずにいた。

 エルピスとの関係を数字だけで割り切ればそんな考えも浮かばなかっただろう、だが同郷としてエルピスのことを心配していたアウローラはエルピスの心を案じていた。

 もしこれでアウローラがエルピスに対して打算的な態度を示したのであればとうの昔に縁を切られていただろう。

 邪神の力を持つエルピスは他人の黒い感情に敏感だ、だからこそ小さき頃に王国の貴族というのはばっさばっさと面談の機会を切られて行っており未だに会えるのは本当に一部の貴族のみになっていた。


「……なんて事考えてたら、何してるのエルピス」


 こつんと靴の音を鳴らしながらアウローラが体重を預けていた柵にどこからともなく飛び乗ってきたエルピスに対し、アウローラはその体制を変える事なく質問を投げかける。

 昼に見る彼と夜に見る彼は見た目はあまり変わっていないものの雰囲気がガラリと変わって見えた。


 昼は学生と言われても納得できるだけの能天気さがあるのだが、夜に会うからはまるで何かを狙う肉食獣のように鋭い気配を出しているのだ。

 種族的に見ても被捕食者と捕食者の関係性、目を合わせると背筋を冷たいものが通っていくが我慢できないほどではない。


「あれアウローラ様、やけに騒がしいと思ったら晩餐会ですか?」


「そうよ。アンタも参加していく?」


「冗談きついですよ、踊りもまともに踊れませんし」


 手摺に乗っかったままエルピスはアウローラと視線を合わせる事なく言葉を返す。

 彼の目線の先にあるのは踊りを踊る貴族達の姿、彼からしてみればあんなところに居る人間はどう映るのだろうか。


「そうね、踊れそうかと聞かれるとそんな事ないのもの。貴方これから何しに行くの?」


「私はこれから街に出かけてぶらぶらと。城の中が鬱陶しくて嫌なので」


「鬱陶しい?」


「隠し事とか思ってもない事を口にすると魔力がほんの少しだけゆらめくんですよ、普段なら気にならないんですけどこうも何度も揺らめいているとウザいです」


 技能スキルで言えば〈魔力察知〉の技能を持っていればそんな風に感じることもあるだろうか。

 アウローラにはそれほど高いレベルの技能スキルは無く、彼の見えている世界がどのようなものなのか分からないがアウローラだって最初の頃は嘘ばかりのこんな場所に疲弊したものだ。


 王都にやってきて日の浅い彼がなれていないのも無理はない。

 いまにも城下町へと飛び出していきそうなエルピスに対してアウローラはほんの少しの間だけ踊っている貴族たちの方を向くと、エルピスに対して問いかける。


「人の魔力で感情がわかる…か。なら私の今から言うことも嘘かどうか分かるかしら?」


 なるべく時間をかけてほんの少しの間だけでもいいからあの場所に戻るまでの時間を稼ぎたかったアウローラは、別に聞くつもりもなかった話をエルピスに対して話しかける。


「分かりますよ? ここが一番直にくるので嘘かどうか見抜くのは一回だけですが、やりたかったらどうぞ」


「いいわよ。なら私からの問題はただ一つ、私をここから連れ出して」


 特に言葉に意味はない。

 思いついたことを聞いてみただけ、嘘か本当か自分ですらあまり分かっていない程度のそんな問い。

 アウローラ本人がそう考えているだけで、実際のところはもしかしたら心の中で何か別に考えていることもあるのかもしれないが本人も理解できていないことを他人に理解できるはずなどないのだ。


「……答えがない問題には残念ですけどどうにも出来ませんね」


「答えがない?」


「連れ出してというのが嘘なら連れ出して欲しくないと言うことですが、その顔はどう見ても連れ出してほしいという顔です。

 なら連れ出してほしいと言うのが本当かと言うと、それもまたどうやらそうして欲しくないみたいなので」


 エルピスはそんなアウローラの胸の内を冷静に見抜き、ただ淡々と事実だけを口にする。

 自分よりもはるかに幼い子供に対してそんな事を口にされると言う事実がアウローラの羞恥の感情を刺激し、返そうと考えていた言葉がどこかへと霧散していく。


「まぁでもひとつだけ答えを簡単に出す方法はありますよ。

 この手を取ってくれればそのまま真下の光輝く城下町まで瞬き一回で連れていきます、私が連れましたとなれば抜け出したところで面目も立つでしょう。どうします?」


 そうして次は選択権をこちらに委ねてきたエルピスに対してアウローラは戸惑いを見せた。

 その手を取れば嫌な事からは逃げられるだろう、だがそれから逃げたとてこれから先の長い人生を彼と歩めるわけではない。

 幼い子供と共に歩く人生などまっぴらごめんだ、私はただ一人だって生きていけるように両足を地面につけて歩いていく必要があるのだ。


「────やめておくわ。まだまだやらなければいけないことが沢山あるもの」


「そうですか、残念です。手を取ってくれるかもと思ったのですが」


 心底残念そうな顔を見せ、だがあまり気にするような素振りもないエルピスは最後に言葉をかけて去ろうとする。


「そう? 貴方と私まだ出会って二月ほどしか経っていないでしょう? 私の何が分かるのかしら」


「何もわからないですよ、ただそうなるかもと思っただけです。では次は…明後日ですね。それでは」


 メモを取り出して予定を確認したエルピスはそれだけ口にすると、とうとうベランダから飛び降りてどこかへと行ってしまった。

 上から眺めてみるもののどこにも姿は見当たらず、そうして上から眺めていたアウローラに後ろから声がかかる。


「アウローラ様、外は冷えるでしょう。どうぞ中に…っと、どなたかとお話し中でしたかな?」

「いえまさか、私は一人でしたよ。中へ戻りましょうか」


 エルピスと会話されている事を知られるのはあまり面白くない結果を招く可能性が高いと考えたアウローラは、やってきた貴族の一人に対して嘘をつきながら中へと戻る。

 そこは先程までいた涼しげな風が吹く場所では無く、ほんのりと湿った嫌な空気が肌を舐めながら舞踏会へと戻るのだった。


 /



 あったかいベット、あったかい食事、あったかい家。

 優しい家族に囲まれて、思い出を語りながら朽ち果てていくように死んでいきたい。


 そう出来たのであればどれだけ幸せなのだろうか。

 あの少年はそんな幸せな道を選ぶ力を持って、何故それをほんの少しの間だけ私の方に向けたのだろうか。

 だがその手を取るわけにはいかないのだ。

 あんなに暖かい場所にいればきっとこの牙も爪も抜け落ちていくだろう、一人で生きていけない生物など生きている意味もない。


 騙し騙され、それが私の人生であると言うのであれば、私はその人生を謳歌して見せようではないか。

 私の人生は私一人の手によって選ばれるものだ、他者によって何かが変えられるなどあってはならない。

 それがだった二ヶ月しか会ったことのない自分よりも一回りは年下の幼い子供であれば尚更。


 羨ましいと言う感情があったとしても、そんなもの蓋をして仕舞えばいい。

 もはや心を殺すのにはなれてしまった。

 目は見る事をやめ、耳は嘘を聞く事をやめ、鼻と舌はとうの昔にその働きをやめてしまった。


 そうしていつしか温度も感じられなくなった地の底で、私は家族の暖かさだけを頼りに生きていくのだろう。

 ――それが、大人になると言う事だ。






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