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用意された馬に乗せられて、私は六歳の時からずっと住んでいた教会の外の世界に初めて足を踏み入れた。
初めはラディーレのことで頭がいっぱいだった私も、移り変わる景色を眺めているうちに、心が弾んでしまっていた。
フォルティス将軍と呼ばれていた男は、荷物の中から一枚の毛布を取り出して、私に手渡した。
「その格好では、今の時期風邪をひきかねません」
教会からしばらく経って、景色は草原がただ広がっていた。
海から流れてくる冷たい風を、遮る物が何もなかったので、馬に乗っていると、叩きつけるような冷たい風が私たちを襲っていたからだ。
上着も羽織らせる時間を与えなかったのは、あなた達じゃないか。
という言葉をグッと飲み込んで、私は手渡された毛布を身体に巻きつけた。
服の隙間から入り込んでいた冷たい風が、私が持っていた物より遥かに上等な質の毛布によって完全に遮断される。
じんわりと身体が温まっていくのを感じた。
大きな川を越えると、広い草原は、賑やかな街に景色に姿を変えた。
人気が増えていくにつれて、私は視線をどこに向けていいのか分からず、目の前を走っているフォルティス将軍の後頭部に向けることにした。
長いウェーブのかかった黒髪が、馬の駆け足によって左右に揺れる。
時折「騎士団様だ!」という子供達の声が、私の耳に届いては後ろに流れ去っていた。
騎士団の者は、証明書を持たない者からすれば、恐ろしい人間達ではあるが、証明書を持つ者からすれば、心強く頼もしい存在に違いない。
「ここで降りていただきます」
大きな屋敷の前に到着すると、フォルティス将軍は形だけの敬語を使って、私に馬から降りるように指示をした。
私は、乗っていた馬のたてがみをゆっくり撫でた後、フォルティス将軍の手を借りて、地面へと降り立った。
屋敷の呼び鈴を鳴らすと、しっかりとニスが塗られ、細かな模様が彫られている大きな木製の扉から一人のメイドが顔を出した。
「フォルティス様。いかがなさいましたか?」
「アルベルト様より、この者を屋敷に案内し、温かいスープでもてなすよう指示を受けました故、連れて参りました」
フォルティスの将軍の言葉を聞いた後、メイドの視線は私に向けられた。
そして、一瞬にして怪訝そうな表情になり、彼女はそれを隠そうともしなかった。
「慈善事業でも始めるんでしょうか?」
「……」
メイドの質問にフォルティス将軍は何も答えなかった。
アルベルトと呼ばれたあの男の注文を成し遂げた今、彼は余計なこと言いたくもしたくもないといった様子だ。
「承知しました。ご案内いたします。フォルティス様もあがられますか?」
「いや、私はアング・ストス湾付近の村に戻らなくてはならないのでここで失礼する。えっと……」
フォルティス将軍が私の方を見て困ったような表情で、髭を撫でていた。
「マーレと言います」
私は、自分の名前を正直に名乗った。
フォルティス将軍は「ミス、マーレをよろしく頼む」とメイドに言付けて、二頭の馬を引き連れながら屋敷を後にした。
不信感を隠そうともしないメイドは、私の存在に興味津々の様子だった。
しかし、粗相をして後でアルベルトに言いつけられたら困るのか、メイドは私に余計なことを尋ねてきたりはしなかった。
隙間風が入る古びた教会とは異なり、立派な絨毯が敷き詰められ、壁には私が持ち上げられないほどの大きな肖像画がいくつも豪華な額縁に入れられて飾られている。
天井からぶら下がる大量の蝋燭の灯りは、この屋敷のメイド達が一つ一つつけるのだろうか。
「こちらです」
案内されたのは、大きなテーブルに椅子が置かれている広い部屋だった。
メイドは私を案内し終えると「温かい飲み物か食べ物をお持ちいたしますので、少々お待ちください」とだけ言い残して部屋を出て行った。
一人広い部屋に残された私は、フカフカのクッションが置いてある椅子にぎこちなく腰を下ろすと、再びラディーレがどうなったのか気になり始めた。
うまく逃げることができていればいいのだが。
そこまで考えた時、どうして私は逃げないのだろうかと思い立った。
いくら私が証明書を持っていなかったとしても、わざわざここで温かいスープを待つ必要はない。
ちょうど大きな窓があるので、そこから外へ出ようと窓に手をかけた時だった。
「失礼します」
一人の女性騎士が部屋の中へと入ってきた。
「フォルティス将軍より指示を受けまして、私があなたの見張り役となりま……まさか、逃げようとしてなどおりませんよね?」
しばらく沈黙が続いた後、私は素早く鍵を開けて窓を開けた。
「ちょっと!待ちなさい!」
慌てて追いかけてきた女騎士に、私はあっさりと捉えられてしまい、無理矢理に椅子に座り直させられた。
「……窓の外の空気を吸おうと思っていただけです」
「嘘です。そもそも移民なのにも関わらず、こんな寛大措置を取ってもらっていただけるんですよ。逃げるなんてとんでもありません」
ダリアと名乗った女騎士は、私にアルベルトがどれだけ寛大な心でもてなしているのかトクトクと説いている。
彼女の話を半分以上聞き流している間に、先ほどのメイドが戻ってきて温かいスープとお茶をダリアの分も合わせて持ってきた。
温かいスープを前にすると、私はお腹が空いていたことに気がついた。
海鮮と野菜がたくさん入ったクリームスープは、顔がすっぽり入ってしまいそうな大きさの皿の中で湯気を立てている。
「とりあえず……いただきましょう」
ダリアも腹が減っていたようで、私にも食べるように促した。
最初は疑心暗鬼になって、様子を伺うように食べていたが、出されたスープは絶品だったので、しばらく口も聞かないで食べてしまった。
焼きたてのパンも一緒についており、浸して食べても美味しかった。
「ここの奥様がグルメで、ここで出てくる料理はイージェス王国一美味しい料理が出てくるのよね」
満足気に全てを平らげたダリアが、お茶を飲んでいる。
「捕まった人は……どうなるんですか?」
腹が満たされた私は、ラディーレがどうなったのか気になって仕方なくなり、ダリアに尋ねた。
「どうなるって、もちろん祖国に強制送還するわ。例えどのような理由があろうともね」
「強制送還……」
「当たり前よ。何でもかんでも入れてしまったら、イージェス王国はあっという間に無法地帯になるもの。近頃は、アバルース王国からの移民が多くてねえ。国境警備隊は何をやってるのかしら」
祖国ナタリア王国が今どのような状況になっているのか、私は知らない。
ラディーレも、知らないと言っていた。
そもそもラディーレは私をナタリア王国の姫君だったと言っているが、私にはその自覚がない。
古ぼけた教会の中で、一日中篭りきり、決められた時間だけ太陽の光を浴びるために崖に面した庭で日光浴しているだけなのだ。
むしろ、祖国に戻ることができるのであれば、それはそれでいいような気がした。
それ以降の時間は、ダリアと特に話すこともなく、私は長い時間を部屋の中で過ごした。
時折、メイドがお茶を入れ替えに部屋に入ってきたが、それ以外は特にすることもなく、私は部屋の壁をずっと眺めているだけだった。
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