第十四部「憎悪の饗宴」第1話 (修正版)
誰も恨むな
必ず何かを見誤る
☆
その日は朝から曇り空。
深夜からだろうか、早朝までは雨が降っていたらしく、街の景色の総てがまだ濡れたまま。空気を埋め尽くす湿度を払うための日の光も顔を見せない。
昨夜は帰りが遅くなった
夜に
『もう帰ったでしょ? 遅くまでごめんね。
あの時間まで残っていて欲しいという
翌日、朝の空気の重さに耐え切れないまま、
住んでいるのは隣のアパート。
「早いね、昨日は遅かったんだろ?」
「
いつもとは違うことの連続に、
「珍しいですね
押し出すようにして、なぜか
「……うん…………その、
その
──…………やだ…………
普通の仕事ではない。
普通の世界ではない。
そんなことは
次の
「…………昨日の夜に……遅い時間に…………亡くなったんだ…………」
何かを覚悟していた。
その覚悟が何を表すのかも分からないまま、唯一自分を受け入れてくれた
「…………電話…………昨日…………話しました…………」
「その後だろう…………
「…………どうして…………何があったんですか…………私は何も聞いてません…………」
しだいに消え入るように小さくなる
「近い内に…………
それからの細かいことは
事務所の荷物を整理し、
──……
なぜか、不意にそう思った。
アパートの階段を登ると
その一つ手前に
ドアの上には採光用の小さなガラス。
採光用なのに黒いレースなんて────と言ったこともあったが、同時に
その黒いレースはもう無い。
ドアノブに触れてみると、冷たかった。
こんなに冷たく感じたことが今まであっただろうか。
回してみるが、もちろん鍵がかかったまま。
何度も右に左にと回すが、少しだけで何かに引っかかる。
途端に感情が溢れた。
涙が止まらない。
☆
正直、
それから母親が家にいたことはほとんどなかった。
帰ってくることもあれば帰ってこないこともある。
食べるものは母親が買ってきてくれるのでそれほど困った記憶はない。
ただ、母親と一緒に食べたことはない。
思い返せば、決してまともな食生活ではなかった。
しかしまだ幼かった
他の子供の生活も、他の家庭も知らない。
だから、母親から暴力を振るわれるのも、そういうものなのだろうと受け入れた。
それでも決して嬉しいものではない。
嫌だった。
痛く、苦しかった。
それでも〝命〟という言葉の意味も理解できないままに、
母親以外からの暴力もあった。
誰なのかは分からない。
色々な男性が母親と共にやってきては、家にしばらく出入りする。
定期的に入れ替わるが、その誰もが
小学校にも通わせてもらえなかったが、
ある日、スーツ姿の大人たちがアパートの部屋に押しかけた。
そして、その夜から
それ以来、母親に会うことはなかった。
お風呂に入れてもらい、見たこともないような料理が目の前に並ぶ。
食べ方も分からないような食事をとった。
夜に部屋の電気が付いていることにすら
初めてお腹いっぱいご飯を食べた。
初めての柔らかい布団は少し落ち着かなかった。
周りには同じくらいの歳の子供たちがいた。
こんなに大勢の人間に会ったことがない。
それだけでも
しかし、ここに暴力はない。
白衣を着た大人が身体中の怪我を治してくれた。
ここに苦しみはなかった。
小学校に通うようになると、少しずつ、色々なことを知っていく。
そして初めて、母親というものが何なのかを理解する。
しかし、再び母親が
そして、新しい家族も見付からないまま。
中学を卒業する頃にはだいぶ世の中の仕組みも理解出来てきた。
〝支援〟というもので高校にも入学出来た。
それが有難いことなのは理解出来たが、同時に
自分で選んだ人生ではない。
しかし、そうすることで周りの大人たちも喜んでくれた。
自分の意思があったわけではない。
どうするべきかを考えていたわけではない。
ただ、大人に反抗してはいけないことだけは、母親から学んでいた。
それでも、その感情は誰に対しても同じだった。
相手から接してくる時、
初めは
友達のいない
それでも決して威圧的なわけでないことは分かった。
やがて
それでも
自分とは正反対のはずの
「今日もどこか寄ってく?」
初めて他人というものを意識する。
「私も一人だよ。古いアパートなんだけどさ」
「なんか言ってくるような奴らにはさ、堂々と言い返してやればいいんだよ」
いつものように教室の外に迎えにきてくれた
廊下から下りの階段に進路を変えた時、突然駆け上がってきた女生徒が
そして相手の生徒の小さな笑い声が
「おい」
決して大声ではない、それでいて低く響く
背後の足音から、生徒の足が止まったことが分かった。
その目は、初めて
「私の友達にそんな目を向けるな」
誰も返せないままに
「今度、
翌日、
それでも
初めて自分を守ってくれた。そんな人がいることが嬉しかった。
基本的に
そんな
それが
☆
しかし、アパートに訪ねてきた
あれからすでに三日。
詳しい話を知らなかったのもあるが、
「……質素なお部屋なんですね…………
そう言って
決して物欲の強いタイプではない。家具も服も最小限。休みにどこかに出かけるような性格ではないが、
「お引っ越しなさるんですか?」
「そうですね…………」
小さな声でそう応えた
「……もうここにいても仕方ないので…………」
すると、
「一度、神社のほうにいらしては頂けませんか?」
「
まるで意味が理解出来なかった。
自分は
──……行けば……今よりもっと
それを
しかし
「はい…………少々、
「私に…………何か……?」
「
☆
少し遅めの朝食。
開け放った縁側から入り込む風は穏やかだった。
縁側に寝そべる三匹の猫の体を撫でた風は不思議と柔らかく感じる。
気温も今日はそれほど湿度を含んではいない。
「今日は過ごしやすいね」
そう言ってコーヒーのマグカップを二つ持った
朝食をとってから、すぐに
「
そう言いながら
「
すると、
「そうだね。印刷がメインとは言ってもあちこちに手書きでメモが書き込まれてるよ。ほとんどは
新しくしたばかりのコーヒーの香りが風に乗って
「サンキュー」
コーヒーを一口含んで溜息を吐く。
それを見ていた
「これからでしょ。溜息なんか
「そうだね。
「まだまだ色々あるんだから。
「分かってるよ…………」
少しだけ苛立った
──……私も余裕ないのかな…………
そう思った
「ごめん…………余裕ないのってダメだね…………」
「ごめん…………
「良かった。それが一番心配だった」
思えばいつも不安を抱えていた気がする。それでもだからこそ
だからここにいれるとも思う。再び一緒にいられるようになって分かる。以前とは何かが違っていた。
──……私たちは、二人だけじゃない…………
「
すると再び目の鋭くなった
「多分……あるんだろうね。
「
「
古事記に出てくるヒルコはイザナギとイザナミの最初の子供。しかしヒルコは産まれてすぐに川に流されたと記されている。
「古事記かあ…………面倒な話……神話だから成立する話でしかないんだけどね。後から作られた
「でも
「本人たちに聞いてみるしかないねえ。あれだけの立ち回り見せておいて…………このままで終われるわけがない」
その時、外から車の音。
縁側で陽に当たっていた三匹の猫が頭を上げた。
「さて……行こうか」
三匹の猫が一斉にその姿に振り返ると、
「またしばらく帰らないからね」
すると横に立ち上がった
「自動の
「うん……三匹も待ってるんじゃ仕方ないねえ」
そして車のエンジン音が止まると、近付いてくるのはいつものスニーカーの足音。
「お疲れ様です。すぐに出ますか?」
それは
しかし縁側から覗いたその顔に、以前のような明るさは無い。
それだけ
また、自らの血の過去を紐解いた。
それは
──……私たちは、命をかけて
今の
「少し休んでから行かない? 長いドライブになるよ」
「そうですね。じゃあ少しだけ…………」
その
そして三人で資料を覗き込む。
「どこから行きますか?」
その
「そうだなあ…………」
そして資料の一番最後のページをテーブルに出して続ける。
「正直難しいね…………これだけじゃ何の手掛かりにもならない」
そのページの下半分の空白には手書きで
〝 私をさがして 〟
「現実的に考えたら、やっぱり近場からだろうね」
「分かりました。ルートを調べます」
そこに
「
基本的には高速での移動となった。
資料にあった神社は全国に点在していたが、それほど時間もかけたくない。
「一応、警察の知り合いにも調査は依頼しておきました」
車を運転しながら
「資料に過去の事件と関係がありそうなことも書いてましたし…………公安調査庁の名前まであるとなれば、やっぱり一度テコ入れは必要かと思って」
しかし
☆
『──また宗教絡みか?』
その声から、
それでも
「ちょっと違うかな。宗教法人の登録は無いはず。でも公安調査庁が動いてる可能性はある」
『もっとマズいだろ。誰の依頼か知らないけどキャリア失うぞ』
「その覚悟は出来てるよ…………でもこれは私からの依頼。どうしてもやらなきゃならないの…………お願い…………」
『また関わり過ぎなんじゃないか?』
また…………その言葉に
嫌な過去が蘇った。
それは
二人はとある事件をきっかけに不倫関係になって二年ほど。もちろん
そんな頃に
それは警察庁内部での、誤認逮捕の揉み消しの事実。
よりによって…………と
雑誌社も決して
結果的に
「バレたら俺は終わるぞ」
当然、
いつもの密会の後、
「俺が誰の孫で誰の息子か知ってるだろ⁉︎ ウチは警察一家だ…………バレたら俺だけの問題じゃなくなるんだぞ」
もちろんそんなことは
それでも
「じゃあ…………知らないフリをすればいいの?」
「俺を絡ませないなら好きにしろ。内部に入り込むのは難しいとは思うが…………」
「だから頼んでるんでしょ⁉︎」
反射的に
「自分に火の粉が降り掛からなきゃそれでいいなんて…………あなたは
しかし
「……それが組織ってものだ」
「大した警察庁ね。あなたに警察官の資格はないわ」
やがて、車が
何かを言いたくても、お互いに口を開けない時間が続く。
そして、最初にその口を開いたのは
「……どこまで情報を流せるか分からないぞ…………」
その
「可能な範囲でいい…………後は自分で何とかする…………」
「一週間、時間をくれ…………いつも通りこっちから連絡する」
やがて、その情報を元に書かれた記事は世間を賑わした。
警察庁幹部数名の辞任に発展するが、内部で
そして、二人は距離を取り始めた。
それから数年。
自分も変わったと感じながら、やはりあの頃の感覚が捨てられない自分もいた。
──……確かに…………関わり過ぎなのかもしれない…………どうしてだろう…………
いつの間にか
そのままスマートフォンに向けて言葉を繋げる。
「ごめん…………今回で……最後だと思うから…………」
☆
三人が
周りは森に囲まれた山の中。道中に分かりやすい看板も無かった。普通に探すとなるとかなり苦労しそうな佇まい。人が訪れることを想定しているとは考えにくい場所だった。
小さな鳥居の前までは車を入れられた。
その先には細い階段が二〇段程度見える。角度はそれほどない。神社自体がさほど高い所にあるようには見えなかった。
その鳥居は木で作られていたが、すでに表面の赤い塗装は禿げ、ひび割れが目立つ。赤かったはずの
その鳥居を前に最初に口を開いたのは
「一応結界は残ってるみたいだけど…………弱いね。ほとんど残ってない…………」
「なんだか廃神社みたいですね……階段も落ち葉だらけですよ。秋でもないのに」
そして、隣の
小さく振り返り、鳥居を潜りながら声を上げる。
「
すると
「さすがですね」
その声は僅かに微笑んでいた。そして
緊張感はそれほど張り詰めてはいない。
──……大丈夫…………やっていける…………
決して大きな神社ではない。
短いながらも石畳の参道があるが周囲は剥き出しの土。雑草が目立つ。賽銭箱も
「ここは神社庁にも登録されてないのよね」
返すのは
「そうみたいですね。だからこんな廃墟なんでしょうか…………どう見ても人の手が入ってるようには…………」
「でも」
そう呟くように口を開いた
「
「そうね…………」
そう言った
「────匂いがする……」
僅かに全員の嗅覚が感じるのは、何かを燃やした匂い。
夕方とはいえ、中の暗さが際立つ。僅かに傾きかけた陽の光が、空気の動きに舞い上がる
横幅はそれほど広くないが、奥行きは長い。
その奥が見えない。
「……大丈夫…………ここには誰もいない…………緊張はいらないよ」
その声に、
そして
その後ろで、
やがて奥に見えるのは
「どのくらいかな」
「一週間とか……そのくらいじゃないかな…………」
その
「かなりの量を燃やしたね…………ここは
「見た目だけ神社にして隠してたか…………やったのは、誰か分かる?」
「〝あの時〟…………
すると、その
「天井まで焦げ臭い
「大丈夫だよ。ここにはもう誰もいない。私たちに見られてマズい物は全部燃やされちゃった」
「よほど慌てたんだろうね…………結構古い箱も多いよ…………ここにはかなり古くて大事な物があったはず…………」
「やられましたね…………」
呟くように小さく返した
しかし、不意に
「ま、やられちゃったけど、なるようにしかならないよ」
「必ず辿り着くよ…………焦ったら相手の思う壺…………でしょ?
そう言って今度は
「…………〝私たち〟は、負けることなんか考えていない…………だから、ここにいるの」
そして振り返った
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十四部「憎悪の饗宴」第2話へつづく 〜
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