第十四部「憎悪の饗宴」第1話 (修正版)

     誰も恨むな

     必ず何かを見誤る





 その日は朝から曇り空。

 深夜からだろうか、早朝までは雨が降っていたらしく、街の景色の総てがまだ濡れたまま。空気を埋め尽くす湿度を払うための日の光も顔を見せない。

 昨夜は帰りが遅くなった美由紀みゆきだが、それでも今日はいつも通りに出勤していた。

 夜に萌江もえたち三人が帰るとすぐに西沙せいさから電話があった。

『もう帰ったでしょ? 遅くまでごめんね。美由紀みゆきももう上がって。明日はゆっくりでいいからさ』

 あの時間まで残っていて欲しいという西沙せいさの指示の理由が結局分からないままに、美由紀みゆきはモヤモヤとしたものを抱えたまま帰宅した。出勤はゆっくりでいいと言われたが、やはり不安は拭い切れない。

 翌日、朝の空気の重さに耐え切れないまま、美由紀みゆきはいつもの時間に事務所に到着する。

 住んでいるのは隣のアパート。西沙せいさの隣の部屋だ。昨夜もやはり西沙せいさが帰った様子はない。

 立坂たてさか西沙せいさの事務所を訪れたのは朝の一〇時。

 立坂たてさかは、昨夜帰りが遅かったはずの美由紀みゆきがすでに出勤していたことに驚いた。

「早いね、昨日は遅かったんだろ?」

立坂たてさかさん…………」

 西沙せいさがいない時に立坂たてさかが来たのは初めてだ。

 西沙せいさ立坂たてさかへの連絡もマメ。立坂たてさか西沙せいさの動きを把握していないことはなかった。西沙せいさがしばらく事務所に来ていないことを知らないはずがない。しかしそれは美由紀みゆきも同じだったはず。

 いつもとは違うことの連続に、美由紀みゆきの中の不安は朝から膨れ上がった。

「珍しいですね立坂たてさかさん…………西沙せいさなら…………」

 押し出すようにして、なぜか美由紀みゆきは言葉を絞り出そうとしている自分に気が付いていた。

 立坂たてさかはすぐに返す。

「……うん…………その、西沙せいささんなんだけどね…………」

 その立坂たてさかの口調には嫌な雰囲気しかなかった。


 ──…………やだ…………


 普通の仕事ではない。

 普通の世界ではない。

 そんなことは美由紀みゆきも分かっていた。例え自分には分からなくても、西沙せいさは常に〝目に見えない世界〟の近くにいた。それを否定したことはない。西沙せいさが心身を擦り減らしていたことも知っている。自分では助けられないもどかしさを何度も味わってきた。

 次の立坂たてさかの言葉が、美由紀みゆきの脳裏に張り付く。

「…………昨日の夜に……遅い時間に…………亡くなったんだ…………」

 何かを覚悟していた。

 その覚悟が何を表すのかも分からないまま、唯一自分を受け入れてくれた西沙せいさに、美由紀みゆきはすがり続けた。

「…………電話…………昨日…………話しました…………」

 美由紀みゆきの精一杯のその言葉に、立坂たてさかもその気持ちを感じていた。

「その後だろう…………さきさんから電話をもらってね……すまない…………我々にも責任がある。隣のアパートはさっき引き払ってきたよ。荷物は今日中に業者が私の所に移してくれる。ここも…………今日には閉めるよ…………いきなりですまない。美由紀みゆきちゃんの再就職は私が面倒を見る。西沙せいささんと約束してたんだ」

「…………どうして…………何があったんですか…………私は何も聞いてません…………」

 しだいに消え入るように小さくなる美由紀みゆきの声に、立坂たてさかは目線を落としていた。

 美由紀みゆきもゆっくりと視線を落とす。

 立坂たてさかは小さく返した。

「近い内に…………美由紀みゆきちゃんにも総て話すよ。だから、もう少し待って欲しい…………」

 それからの細かいことは美由紀みゆきは覚えていない。

 事務所の荷物を整理し、立坂たてさかが事務所の鍵を閉めた時はすでに夕方。

 美由紀みゆきがドアの前で振り返ると、細い路地を挟んでアパートが見える。


 ──……西沙せいさは、まだ帰ってないの…………?


 なぜか、不意にそう思った。

 アパートの階段を登ると美由紀みゆきの部屋は一番奥。

 その一つ手前に西沙せいさの部屋。

 西沙せいさのいた部屋。

 ドアの上には採光用の小さなガラス。西沙せいさはそこに黒いレースのカーテンをかけていた。

 採光用なのに黒いレースなんて────と言ったこともあったが、同時に美由紀みゆき西沙せいさらしいとも感じていた。

 その黒いレースはもう無い。

 ドアノブに触れてみると、冷たかった。

 こんなに冷たく感じたことが今まであっただろうか。

 回してみるが、もちろん鍵がかかったまま。

 何度も右に左にと回すが、少しだけで何かに引っかかる。

 途端に感情が溢れた。

 涙が止まらない。





 美由紀みゆきの両親が離婚したのは物心がついたばかりの頃だと記憶している。

 正直、美由紀みゆき自身にも明確な記憶はない。あるのはおぼろげな父親の記憶だけ。特定の思い出もなかった。

 それから母親が家にいたことはほとんどなかった。

 帰ってくることもあれば帰ってこないこともある。

 食べるものは母親が買ってきてくれるのでそれほど困った記憶はない。

 ただ、母親と一緒に食べたことはない。

 思い返せば、決してまともな食生活ではなかった。

 しかしまだ幼かった美由紀みゆきにそんなことが分かるはずもない。それが当たり前だと思っていた。栄養の偏りがどうかなど考える余地もない。

 他の子供の生活も、他の家庭も知らない。

 だから、母親から暴力を振るわれるのも、そういうものなのだろうと受け入れた。

 それでも決して嬉しいものではない。

 嫌だった。

 痛く、苦しかった。

 それでも〝命〟という言葉の意味も理解できないままに、美由紀みゆきの世界は母親しかない。

 母親以外からの暴力もあった。

 誰なのかは分からない。

 色々な男性が母親と共にやってきては、家にしばらく出入りする。

 定期的に入れ替わるが、その誰もが美由紀みゆきに対して暴力を振るった。

 小学校にも通わせてもらえなかったが、美由紀みゆきには小学校の存在すら分からない。

 ある日、スーツ姿の大人たちがアパートの部屋に押しかけた。

 美由紀みゆきには分からない言葉で母親と言い合っている。

 そして、その夜から美由紀みゆきは大きな施設で眠ることが出来た。

 それ以来、母親に会うことはなかった。

 お風呂に入れてもらい、見たこともないような料理が目の前に並ぶ。

 食べ方も分からないような食事をとった。

 夜に部屋の電気が付いていることにすら美由紀みゆきは戸惑う。夜であることを忘れた。

 初めてお腹いっぱいご飯を食べた。

 初めての柔らかい布団は少し落ち着かなかった。

 周りには同じくらいの歳の子供たちがいた。

 こんなに大勢の人間に会ったことがない。

 それだけでも美由紀みゆきにとっては恐怖だった。

 しかし、ここに暴力はない。

 白衣を着た大人が身体中の怪我を治してくれた。

 ここに苦しみはなかった。

 小学校に通うようになると、少しずつ、色々なことを知っていく。

 そして初めて、母親というものが何なのかを理解する。

 しかし、再び母親が美由紀みゆきの前に姿を現すことはなかった。

 そして、新しい家族も見付からないまま。

 中学を卒業する頃にはだいぶ世の中の仕組みも理解出来てきた。

 〝支援〟というもので高校にも入学出来た。

 それが有難いことなのは理解出来たが、同時に美由紀みゆきに選択肢がなかったのも事実。

 自分で選んだ人生ではない。

 しかし、そうすることで周りの大人たちも喜んでくれた。

 自分の意思があったわけではない。

 どうするべきかを考えていたわけではない。

 ただ、大人に反抗してはいけないことだけは、母親から学んでいた。

 それでも、その感情は誰に対しても同じだった。美由紀みゆきは人と関わるのを避けた。自分の成長と共に、周りの学校の生徒たちも大人に見えた。いつ自分に暴力を振るうか分からない大人。だからこそ出来るだけ人と接するのを嫌った。

 相手から接してくる時、美由紀みゆきは相手を怒らせないように意識した。それは極度に美由紀みゆきを疲れさせていく。


 初めは西沙せいさに対しても同じだった。

 友達のいない美由紀みゆきになぜか絡んでくる。

 それでも決して威圧的なわけでないことは分かった。

 やがて西沙せいさにも友達がいないことを知ると、美由紀みゆきの気持ちが少しずつ変化していった。

 それでも西沙せいさ美由紀みゆきのように怯えて学校の廊下を歩くようなタイプではない。美由紀みゆきから見ても、西沙せいさは常に堂々としていた。美由紀みゆきよりも頭ひとつ分は身長が低く華奢に見える印象だが、常に美由紀みゆきを引っ張っていたのは西沙せいさ

 自分とは正反対のはずの西沙せいさと、いつの間にか美由紀みゆきは一緒に行動することが多くなっていった。もちろん最初に声をかけるのは西沙せいさ。授業の終わりと共にいつも西沙せいさ美由紀みゆきの教室の外で待っていた。

「今日もどこか寄ってく?」

 西沙せいさがどこに暮らしているかは分からなかったが、いつも西沙せいさ美由紀みゆきの養護施設まで一緒に帰ってくれた。美由紀みゆきの家が養護施設だと知っても西沙せいさは決して距離を置かない。他の同級生は違った。どこか美由紀みゆきさげすんだ目でいつも見てくる。それは美由紀みゆきにとっては他人からの拒絶に他ならない。美由紀みゆき西沙せいさがいつも気にかけてくれているのが分かった。

 初めて他人というものを意識する。

 西沙せいさのことを知りたいと思った。

「私も一人だよ。古いアパートなんだけどさ」

 西沙せいさが教えてくれた。実家はあるということだが、詳しい話を聞くのはまだ先。

 西沙せいさが虐めにあっていることも知った。美由紀みゆきもあやふやではあったが、自分がいわゆるイジメの対象になっていることは自覚していた。全く違うタイプなのに、どこか西沙せいさと自分の共通点を感じて美由紀みゆきは不思議と嬉しかった。

「なんか言ってくるような奴らにはさ、堂々と言い返してやればいいんだよ」

 いつものように教室の外に迎えにきてくれた西沙せいさがこう言うが、やはり美由紀みゆきには難しい。

 廊下から下りの階段に進路を変えた時、突然駆け上がってきた女生徒が西沙せいさの横をすり抜けたかと思うと、そのすぐ後ろの美由紀みゆきの肩に体を当ててきた。明らかに意図的な体の動きであることは美由紀みゆきにも分かった。

 美由紀みゆきはその生徒と目が合う。同じクラス。いつもと同じ冷たい目が注がれるが、反射的に美由紀みゆきは目を逸らす。

 そして相手の生徒の小さな笑い声が美由紀みゆきの耳に届いた時だった。

「おい」

 決して大声ではない、それでいて低く響く西沙せいさの声。

 背後の足音から、生徒の足が止まったことが分かった。

 西沙せいさが頭だけを回して生徒に目を向けた。

 その目は、初めて美由紀みゆきが見る鋭さ。

「私の友達にそんな目を向けるな」

 誰も返せないままに西沙せいさが続ける。

「今度、美由紀みゆきにそんな目を向けたら────潰すぞ」

 翌日、西沙せいさが職員室に呼ばれたことを知った。周りから聞こえてきた声では、初めてではないらしい。

 それでも美由紀みゆきは嬉しかった。

 初めて自分を守ってくれた。そんな人がいることが嬉しかった。

 基本的に美由紀みゆきは他人を信用しない。出来なかった。

 そんな美由紀みゆき唯一人ただひとり気持ちを許せる相手。

 それが西沙せいさだった。





 西沙せいさが自殺であることは立坂たてさかから聞いていた。

 しかし、アパートに訪ねてきたさきから詳しく話を聞こうとは思わなかった。

 あれからすでに三日。

 立坂たてさかから短い電話は一度だけあったが、美由紀みゆきも無理に動く気にもなれないまま部屋から出ることはなかった。

 さきが訪ねてきたのは突然だった。

 詳しい話を知らなかったのもあるが、美由紀みゆきさきを責めるわけではない。むしろ西沙せいさの話を聞きたいとすら思っていない。正直、さきの顔を見るだけでも西沙せいさを思い出す。どんなに目を背けようとしても、それでも西沙せいさの面影が心に浮かぶ。

「……質素なお部屋なんですね…………美由紀みゆきさんらしいです…………」

 そう言ってさきは軽く室内を見渡した。

 決して物欲の強いタイプではない。家具も服も最小限。休みにどこかに出かけるような性格ではないが、西沙せいさが出張の度に買ってきてくれるお土産は楽しかった。

 さきは部屋の隅に重ねてある段ボールの箱を見ながら続ける。

「お引っ越しなさるんですか?」

「そうですね…………」

 小さな声でそう応えた美由紀みゆきが続けた。

「……もうここにいても仕方ないので…………」

 すると、さきが小さく息を吐いてから口を開く。

「一度、神社のほうにいらしては頂けませんか?」

さきさんの所ですか?」

 まるで意味が理解出来なかった。

 自分は西沙せいさと違うと常々思ってきた。西沙せいさのような能力を持っているわけでもなければ、何より身寄りすらないような人間。


 ──……行けば……今よりもっと西沙せいさを思い出す…………


 それを美由紀みゆきもすぐに感じた。

 しかしさきは続ける。

「はい…………少々、美由紀みゆきさんにお願いしたいことがありまして…………」

「私に…………何か……?」

美由紀みゆきさんにしか、お願い出来ないことです…………」





 少し遅めの朝食。

 開け放った縁側から入り込む風は穏やかだった。

 縁側に寝そべる三匹の猫の体を撫でた風は不思議と柔らかく感じる。

 気温も今日はそれほど湿度を含んではいない。

「今日は過ごしやすいね」

 そう言ってコーヒーのマグカップを二つ持った咲恵さきえ萌江もえの隣に腰を降ろした。

 朝食をとってから、すぐに萌江もえはテーブルに書類を広げていた。

 西沙せいさ杏奈あんなに預けていた書類だった。枚数は五〇枚以上になる。決して短時間でまとめられた物ではない。ページによっては日焼けした物も多く、そもそも同じのはサイズだけで紙質は複数の種類。

立坂たてさかさんがこんな物作ってたなんてね」

 そう言いながら咲恵さきえが覗き込んで続けた。

西沙せいさちゃんと二人でこっそり作ってた感じ?」

 すると、萌江もえは複数の書類に目を通しながら返す。

「そうだね。印刷がメインとは言ってもあちこちに手書きでメモが書き込まれてるよ。ほとんどは立坂たてさかさんから西沙せいさに向けたものだね」

 新しくしたばかりのコーヒーの香りが風に乗って萌江もえの鼻に届くと、すぐに萌江もえはマグカップに手を伸ばして続けた。

「サンキュー」

 コーヒーを一口含んで溜息を吐く。

 それを見ていた咲恵さきえが口を開いた。

「これからでしょ。溜息なんかいて…………」

「そうだね。杏奈あんなちゃんに怒られちゃうなあ」

「まだまだ色々あるんだから。美由紀みゆきちゃんにもその内会いに行かないと…………心配でしょ?」

「分かってるよ…………」

 少しだけ苛立った萌江もえの返答に、咲恵さきえも少し自分を嫌悪する。


 ──……私も余裕ないのかな…………


 そう思った咲恵さきえはすぐに返した。

「ごめん…………余裕ないのってダメだね…………」

「ごめん…………咲恵さきえのことは嫌いにならないから安心して」

「良かった。それが一番心配だった」

 咲恵さきえの中では、もはや何でも言い合える気がしていた。それに関しては不思議と不安はない。

 思えばいつも不安を抱えていた気がする。それでもだからこそ萌江もえのことを考えてこれた気もした。何度も壁にぶつかりながらも、その度に何度も萌江もえを求めた自分がいる。

 だからここにいれるとも思う。再び一緒にいられるようになって分かる。以前とは何かが違っていた。


 ──……私たちは、二人だけじゃない…………


 咲恵さきえ萌江もえの口元が微笑んだのを確認して自分の気持ちを確かめると、話題を変えるように続けた。

清国会しんこくかいの拠点になってる神社ってどこも七福神の名前なんだよね…………何か意味があるのかな…………」

 すると再び目の鋭くなった萌江もえが応える。

「多分……あるんだろうね。清国会しんこくかいが裏の世界の組織なんだとすれば、裏七福神?」

恵比寿えびす神社ってのもあるけど…………ホントは二文字の方の〝蛭子えびす〟かもね。だとすれば古事記の〝ヒルコ〟に通じるし…………」

蛭子えびすって書いてヒルコって読む奴か…………本来の読み方は〝ヒルコ〟なんだろうね。まあ普通に読んだらそうだし。〝エビス〟って読むほうが不自然だ」

 古事記に出てくるヒルコはイザナギとイザナミの最初の子供。しかしヒルコは産まれてすぐに川に流されたと記されている。

 萌江もえが続けた。

「古事記かあ…………面倒な話……神話だから成立する話でしかないんだけどね。後から作られた御伽噺おとぎばなしだし」

「でも清国会しんこくかいはそれを信じてきたわけでしょ? それじゃ私たちとは話合わないわけよね。西沙せいさちゃんはどうなのかな……御世みよはどうだったんだろう…………」

「本人たちに聞いてみるしかないねえ。あれだけの立ち回り見せておいて…………このままで終われるわけがない」

 その時、外から車の音。

 縁側で陽に当たっていた三匹の猫が頭を上げた。

「さて……行こうか」

 萌江もえがそう言って立ち上がる。

 三匹の猫が一斉にその姿に振り返ると、萌江もえが猫たちに言葉をかけた。

「またしばらく帰らないからね」

 すると横に立ち上がった咲恵さきえが言葉を拾う。

「自動のえさやりマシンにも補充はしておいたよ。でも、なるべく早く帰ろうね」

「うん……三匹も待ってるんじゃ仕方ないねえ」

 そして車のエンジン音が止まると、近付いてくるのはいつものスニーカーの足音。

「お疲れ様です。すぐに出ますか?」

 それは杏奈あんなの声。

 しかし縁側から覗いたその顔に、以前のような明るさは無い。萌江もえ咲恵さきえもそれが気がかりだった。西沙せいさがいなくなってから杏奈あんなの態度は明らかに変化していた。それでも萌江もえ咲恵さきえも無理にどうにかしようという気はない。西沙せいさのいない寂しさを考えれば当然だと思えた。

 それだけ西沙せいさの存在は大きかった。

 萌江もえ咲恵さきえと、どちらとも血の繋がりがあったと分かった直後では、その重みは増していた。過ぎたこととはいえ、受け止める時間はそれぞれ違う。

 萌江もえ杏奈あんなのことを心配しているのは分かっていたが、咲恵さきえからすると萌江もえ自身も心配だった。

 また、自らの血の過去を紐解いた。

 それは咲恵さきえ自身も同じだったが、不思議と咲恵さきえには不安が無い。


 ──……私たちは、命をかけて萌江もえを守るだけ…………


 今の咲恵さきえにはその気持ちしかなかった。

「少し休んでから行かない? 長いドライブになるよ」

 咲恵さきえのその言葉に杏奈あんなも少し表情がゆるむ。

「そうですね。じゃあ少しだけ…………」

 その杏奈あんなが縁側から上がると、すぐに猫たちがその足に絡まってきた。萌江もえがその光景に顔を緩ませ、マグカップを手に再びソファーに腰を降ろす。新しいマグカップを持った咲恵さきえ杏奈あんなをクッションに促した。

 そして三人で資料を覗き込む。

「どこから行きますか?」

 その杏奈あんなの言葉にすぐに応えたのは萌江もえだった。

「そうだなあ…………」

 そして資料の一番最後のページをテーブルに出して続ける。

「正直難しいね…………これだけじゃ何の手掛かりにもならない」

 そのページの下半分の空白には手書きで西沙せいさの走り書きがあった。


 〝 私をさがして 〟


 萌江もえが続ける。

「現実的に考えたら、やっぱり近場からだろうね」

「分かりました。ルートを調べます」

 杏奈あんなは鞄からタブレットを取り出した。

 そこに咲恵さきえが口を開く。

福禄寿ふくろくじゅ神社? 白髭しらひげ明神か…………」


 基本的には高速での移動となった。

 資料にあった神社は全国に点在していたが、それほど時間もかけたくない。

「一応、警察の知り合いにも調査は依頼しておきました」

 車を運転しながら杏奈あんながそう言って話し始める。

「資料に過去の事件と関係がありそうなことも書いてましたし…………公安調査庁の名前まであるとなれば、やっぱり一度テコ入れは必要かと思って」

 しかし杏奈あんなにとって、それは自分の過去と向き合うことでもあった。





『──また宗教絡みか?』

 その声から、佐々岡ささおかがいい顔をしていないことは杏奈あんなにもすぐに分かった。

 それでも杏奈あんなに引き下がる気はない。

 杏奈あんな佐々岡ささおかに電話したのは萌江もえ咲恵さきえの所に行く前日。誰に聞かれてもまずいネタだけに、杏奈あんなは自宅のキッチンの床に座り込んで小声になっていた。

「ちょっと違うかな。宗教法人の登録は無いはず。でも公安調査庁が動いてる可能性はある」

『もっとマズいだろ。誰の依頼か知らないけどキャリア失うぞ』

「その覚悟は出来てるよ…………でもこれは私からの依頼。どうしてもやらなきゃならないの…………お願い…………」

『また関わり過ぎなんじゃないか?』

 また…………その言葉に杏奈あんなは気持ちの奥底を揺さぶられる。

 嫌な過去が蘇った。

 それは杏奈あんながまだ雑誌社に勤めていた頃。

 佐々岡ささおかは警察庁勤務。警視総監の孫として、いわばエリート組。

 二人はとある事件をきっかけに不倫関係になって二年ほど。もちろん杏奈あんなは分かっての関係だった。決して佐々岡ささおかに結婚を求めるわけでもなく、いつまでもというわけではないことは理解しながらも続いていた関係。

 そんな頃に杏奈あんなに回ってきた情報は雑誌社でも議論がされたものだった。しかもマスコミ各社の中でもその扱いは慎重にならざるを得ないネタ。

 それは警察庁内部での、誤認逮捕の揉み消しの事実。

 よりによって…………と杏奈あんなが思ったのも無理はなかった。しかし杏奈あんなの中にそれを記事にしないという選択肢はない。会社が決めたことでもあるが、何より杏奈あんな自身が記事にしたかった。

 雑誌社も決して杏奈あんな佐々岡ささおかの関係を知っていたわけではない。杏奈あんな佐々岡ささおかを巻き込むべきか悩んだ。しかし、現実的に佐々岡ささおかは最も内部の情報に切り込める存在。

 結果的に杏奈あんな佐々岡ささおかに協力を頼む。

「バレたら俺は終わるぞ」

 当然、佐々岡ささおかにはそう返される。

 いつもの密会の後、佐々岡ささおかは車を運転しながらも珍しく声を荒げた。

「俺が誰の孫で誰の息子か知ってるだろ⁉︎ ウチは警察一家だ…………バレたら俺だけの問題じゃなくなるんだぞ」

 もちろんそんなことは杏奈あんなも分かっている。しかし気持ちが動く。いくら自分の所に回ってきた仕事とはいえ、このまま見過ごすことは出来なかった。しかも問題になっている冤罪えんざい事件は殺人事件。そしてこのままでは無実の人間を国家機関が裁くことになる。

 それでも佐々岡ささおかの珍しい態度に、杏奈あんなは僅かに萎縮して応えた。

「じゃあ…………知らないフリをすればいいの?」

「俺を絡ませないなら好きにしろ。内部に入り込むのは難しいとは思うが…………」

「だから頼んでるんでしょ⁉︎」

 反射的に杏奈あんなは叫ぶ。

「自分に火の粉が降り掛からなきゃそれでいいなんて…………あなたは冤罪えんざいの犠牲者より自分の保身のほうが大切なの⁉︎」

 しかし佐々岡ささおかは冷静に応えた。

「……それが組織ってものだ」

「大した警察庁ね。あなたに警察官の資格はないわ」

 やがて、車が杏奈あんなのアパートの近くで停まる。いつもアパートの前までは行かない。秘密の関係ではそのくらいが丁度いい。

 何かを言いたくても、お互いに口を開けない時間が続く。

 そして、最初にその口を開いたのは佐々岡ささおかだった。

「……どこまで情報を流せるか分からないぞ…………」

 その佐々岡ささおかの言葉に、杏奈あんなの目の前が僅かに明るくなっていく。

「可能な範囲でいい…………後は自分で何とかする…………」

「一週間、時間をくれ…………いつも通りこっちから連絡する」

 やがて、その情報を元に書かれた記事は世間を賑わした。

 警察庁幹部数名の辞任に発展するが、内部で佐々岡ささおかから情報が流れたことが発覚したことは報道にならないまま。そのまま佐々岡ささおかは地方県警盗犯課への移動を命じられる。

 そして、二人は距離を取り始めた。

 杏奈あんなは、自分がまっすぐ過ぎることを自覚しながらも、同時にそれを変えられない自分を恨んだ。

 それから数年。

 自分も変わったと感じながら、やはりあの頃の感覚が捨てられない自分もいた。


 ──……確かに…………関わり過ぎなのかもしれない…………どうしてだろう…………


 いつの間にか杏奈あんなはキッチンの床を呆然と見つめていた。

 そのままスマートフォンに向けて言葉を繋げる。

「ごめん…………今回で……最後だと思うから…………」





 三人が福禄寿ふくろくじゅ神社に到着したのはすでに夕方。

 周りは森に囲まれた山の中。道中に分かりやすい看板も無かった。普通に探すとなるとかなり苦労しそうな佇まい。人が訪れることを想定しているとは考えにくい場所だった。

 小さな鳥居の前までは車を入れられた。

 その先には細い階段が二〇段程度見える。角度はそれほどない。神社自体がさほど高い所にあるようには見えなかった。

 その鳥居は木で作られていたが、すでに表面の赤い塗装は禿げ、ひび割れが目立つ。赤かったはずの朱色しゅいろは上部に僅かに残るばかり。とても管理されているようには見えない。傾いていないのが唯一の救いだった。

 その鳥居を前に最初に口を開いたのは咲恵さきえ

「一応結界は残ってるみたいだけど…………弱いね。ほとんど残ってない…………」

 杏奈あんなが返す。

「なんだか廃神社みたいですね……階段も落ち葉だらけですよ。秋でもないのに」

 そして、隣の萌江もえが歩き始めた。

 小さく振り返り、鳥居を潜りながら声を上げる。

咲恵さきえも言ってたじゃない。結界なんてただの思い込み。気付かなければ影響ないって時点で催眠術と同じ」

 萌江もえは悠々と石段を登り始めた。

 すると咲恵さきえの隣で杏奈あんなの声。

「さすがですね」

 その声は僅かに微笑んでいた。そして杏奈あんな萌江もえの後に続く。

 咲恵さきえも足を進めながら、無意識に表情と気持ちが解れていった。

 緊張感はそれほど張り詰めてはいない。


 ──……大丈夫…………やっていける…………


 決して大きな神社ではない。

 短いながらも石畳の参道があるが周囲は剥き出しの土。雑草が目立つ。賽銭箱も本坪鈴ほんつぼすずも無い。掠れた板造りの本殿の建物は荒れた印象しかない。

「ここは神社庁にも登録されてないのよね」

 咲恵さきえはそう言うと、小さな板の階段に足をかけて屋根の裏を見上げた。

 返すのは杏奈あんな

「そうみたいですね。だからこんな廃墟なんでしょうか…………どう見ても人の手が入ってるようには…………」

「でも」

 そう呟くように口を開いた萌江もえがゆっくりと続ける。

立坂たてさかさんの作った資料にこの神社があったってことは…………ここには清国会しんこくかいの〝何か〟があるってことだよね」

「そうね…………」

 そう言った咲恵さきえが本殿の扉に顔を向ける。首からネックレスのチェーンを外すと、左手に水晶と共に絡めた。それを見た萌江もえが気持ちを引き締めた直後、咲恵さきえが再び口を開く。

「────匂いがする……」

 萌江もえ杏奈あんなも意識を集中させた。

 僅かに全員の嗅覚が感じるのは、何かを燃やした匂い。

 咲恵さきえは階段を登って本殿の扉を開けた。

 夕方とはいえ、中の暗さが際立つ。僅かに傾きかけた陽の光が、空気の動きに舞い上がるほこりを照らした。

 横幅はそれほど広くないが、奥行きは長い。

 その奥が見えない。

 咲恵さきえが一歩そこに足を踏み入れると、いつの間にか背後に寄り添っていた萌江もえがその肩に手をかけた。そしてささやく。

「……大丈夫…………ここには誰もいない…………緊張はいらないよ」

 その声に、咲恵さきえは少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。

 そして萌江もえが奥に進むと、そのすぐ斜め後ろに咲恵さきえが付く。

 その後ろで、杏奈あんなは入り口に立ったまま中を伺っていた。

 やがて奥に見えるのは松明たいまつ用の大きな燭台しょくだい

 萌江もえ咲恵さきえが近付いていくが高さはそれほどない。二人がそこを覗き込むと、そこにあるのは炭になった松明たいまつの残骸のような物が僅かに残されているだけ。

「どのくらいかな」

 萌江もえが小さく口を開くと、すぐに咲恵さきえが返す。

「一週間とか……そのくらいじゃないかな…………」

 咲恵さきえはすでに燭台しょくだいに水晶の左手を添えていた。

 その咲恵さきえが続ける。

「かなりの量を燃やしたね…………ここは清国会しんこくかいの倉庫みたいな場所…………」

「見た目だけ神社にして隠してたか…………やったのは、誰か分かる?」

「〝あの時〟…………雄滝おだき神社にいた人だと思う…………顔は見えない…………」

 すると、その咲恵さきえの言葉を聞きながら萌江もえは高い天井を見上げた。

「天井まで焦げ臭いすすで真っ黒だ…………しかもまだ新しい」

 萌江もえはそう呟くと、振り返って杏奈あんなに声をかける。

「大丈夫だよ。ここにはもう誰もいない。私たちに見られてマズい物は全部燃やされちゃった」

 杏奈あんなは二人の小さいながらも強い緊張感に気を張ったままだったが、萌江もえの声にやっと息を吐いて中に足を進めた。奥に進むほどに焦げ臭さが鼻をつく。想像以上に強いその匂いに、無意識に杏奈あんな眉間みけんしわを寄せながら二人に近付いていた。

 燭台しょくだいの周囲にはいくつもの蓋を外された大きな木箱が雑然と転がっている。それを見ながら萌江もえが再び口を開いた。

「よほど慌てたんだろうね…………結構古い箱も多いよ…………ここにはかなり古くて大事な物があったはず…………」

「やられましたね…………」

 呟くように小さく返した杏奈あんなは、悔しさからか、いつの間にか両手を強く握りしめる。

 しかし、不意に萌江もえが明るい声を上げたので驚いた。

「ま、やられちゃったけど、なるようにしかならないよ」

 杏奈あんなの丸くなった目を見ながら萌江もえが続ける。

「必ず辿り着くよ…………焦ったら相手の思う壺…………でしょ? 咲恵さきえ

 そう言って今度は咲恵さきえに顔を向けると、咲恵さきえ燭台しょくだいから左手を離し、背を向けたまま応えた。

「…………〝私たち〟は、負けることなんか考えていない…………だから、ここにいるの」

 そして振り返った咲恵さきえの強い目に、杏奈あんなは心を震わせた。





          「かなざくらの古屋敷」

      〜 第十四部「憎悪の饗宴」第2話へつづく 〜

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る