第八部「記憶の虚構」第1話 (修正版)
平成二年。
一〇月二三日。
そこは大きなビルの前。
人通りもある。
──……ここから飛び降りたら…………
進みかけた足を、
──……嫌だ…………
〝 その
──…………イヤだ…………!
〝 お前と共に……その子を殺せ………… 〟
──……死なせない…………!
財布の入ったハンドバッグを
「……
──……絶対に…………!
薄いコートのポケットから、
それは、祖母のタミから預かっていた短刀。
素早く
コンクリートの歩道に落ちた木製の
短刀を両手で逆手に掴んだ
──……私が……断ち切る…………!
胸に突きつけた。
何度も、何度も。
周囲からは悲鳴が聞こえ、駆け寄ろうとする誰かの足音が聞こえた時、
「────近寄るな‼︎」
次の瞬間、胸から抜いた刃を首筋へ。
──……あとは…………頼むよ…………
そのまま首を掻き切った時、
地面に倒れた
そのすぐ
──……これは…………なに…………?
目の前で自ら命を絶った若い女性と対峙する〝黒い煙のようなもの〟。
しかもそれは大きい。
──……この世のものじゃない…………
直後、突然、
「自殺だ!」
「救急車!」
その何人もの声に混ざる未だに上がる悲鳴。
やっと
倒れた
足が震えたまま
目の前の赤ん坊はタオルのような物に包まれたまま手足を動かしている。
──……助けなきゃ…………
ゆっくりと近付く。
そして、赤ん坊をタオルごと抱き抱えた。
その赤ん坊の顔は、まるで何も無かったかのように穏やか。
訳も分からないまま、なぜか
☆
記憶の在り所を知りたかった
どんなに忘れようとしても
それは掴めないまま
決して捨てることの出来ない記憶
☆
日々の寒さにも感覚的には慣れてきた。
冬も本格的になり、雪が降ることも当たり前の日々。
とは言っても、決して豪雪地帯のように雪深い山というわけではない。
周りからは対人関係に長けて見られることも多かったが、表面上だけの人付き合いというものが実は嫌いだった。接客という世界で長く働いてきたためか、周囲の人間に形だけ合わせることにだけ長けたと
そして今は、その世界にまた戻りたいとは思っていない。
自分の店を持っている
それが
──……
その日も朝から雪が降り続いていた。
気温が低いせいか、雪の粒は小さい。
窓から見える縁側越しの庭には、薄らと雪が積もる。積もり始めるとそれからは早い。あっという間に周囲は真っ白になるだろう。
そんな積もり始め。すでにだいぶ寒いにもかかわらず、三匹の黒猫は元気だった。白くなり始めた庭ではしゃぐ二匹の子猫とそれを見守る母猫。正式に住み着くようになってから名前もつけていた。
母猫は綺麗な黒猫だから〝クロ〟。キリッとした大きな目でありながら、それでいて優しい。
子猫の一匹は胸元に前掛けのような白い模様があるので〝マエカケ〟。
もう一匹は四本の足先だけが靴下のように白いので〝クツシタ〟。
当然のように
猫が自由に出入り出来るように、玄関に猫用のドアもつけた。リフォームの時に出た大きな板が余っていたので、古い玄関の引き戸の片側を外して板を強引に埋め込んだ。下の方を小さく四角に切り取ると、両開き用の蝶番を使ってドアを付け、それによって出る時も入る時も押すだけで開く。怪我防止のためのヤスリがけも忘れてはいない。
当然玄関は寒くなる。
当面の問題はリビングから玄関へ続くドアだけは
何日か家を開ける可能性があるのでリビングにエアコンも設置した。同時にタイマーセット出来る
しかし、そこでやはり問題を解決しなければならない現実にぶち当たる。
〝家を空ける時にリビングドアの出入りをどうするか〟が問題だった。
「ここにも猫用のドアをつけるか…………しかも空気の漏れが無いようにするには…………」
「驚いちゃったんだねえ。大丈夫だよ」
「
「開いてるよー、入ってー」
「どうしたんですか⁉︎ ついに玄関壊れました⁉︎」
「違うよ。この子たちの玄関作りたかったから…………」
その
「はあ…………猫飼っちゃいましたか……」
「飼ったっていうより、住み着いちゃってね。あ、コーヒー出来てるから入れて」
「ああ……はいはい」
コーヒーを一口飲んで口を開く。
「親子ですか?」
「うん。横の真っ黒いのがお母さん。住み着いたとは言っても出入りは自由にしてあげたくてさ」
「まあ分かりますけど…………遠出出来なくなりますねえ」
「エアコンも
「へえ…………」
「で? いつもながら遊びに来たわけじゃないでしょ? ここまで分かってるだけでも教えてよ」
昨日
「あ……はい」
「まず水晶なんですけど、正直言うとネットで集められる情報以外にはありませんでした。そもそもよほど水晶に詳しい人じゃないと知りませんし、山梨県甲府市の
「ま、やっぱりそうだよね」
──……
元々水晶の調査に関しては
しかし
「仕方ないよね…………私の持ってる火の玉が何か特殊な物であることは間違いないと思うんだけど、一般的に得られる情報じゃそこまでだよ」
「水晶よりも…………もう一つの依頼のほうが……私は驚きました」
「ああ…………だいぶ古い事件だけど…………何か分かった?」
それは
「あくまで自殺という形に収まったので、警察の情報も大きな事件のようにファイルの上に並ぶようなものではありません。しかも三〇年以上昔ですからね…………それでも辿り着いた警察資料と当時の新聞の情報から、当時警察から話を聞かれていた目撃者の中に意外な人物を見付けました」
「目撃者?」
「はい。誰に話を聞いても自殺以外に考えられなかったので目撃者の聴取は簡単なもので終わったようですが、その場にいた
「…………
そう呟きながら眉間にシワを寄せた
「……
「まさか…………」
「私もすぐには信じられなかったんですが……
ゆっくりと冷めかけたコーヒーを飲みながら、視線を宙に浮かべたまま膝の上の子猫のお腹を触っている。マグカップをテーブルに置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……そんなことって…………あるんだね…………」
そう呟くように言う
「あるんですね…………正直、分かった時には体が震えましたよ…………」
ただの偶然というにはあまりにも出来過ぎている。
誰もがそう思うだろう。
そのまま、言葉が口から漏れる。
「……そっか…………」
「会って……みますか?」
「今は……何をしてるの…………?」
聞き返しながら、
──……会って……何を聞く…………?
「神社を継いで、巫女をしているそうです。
「今日は…………水曜日?」
「はい」
「……次の日曜日にアポが取れるか確認お願い…………
「分かりました」
☆
まだアメリカの占領政策が目に見えて日常の一部となっていた頃。
日に日に欧米の文化が日本に溶け込んでいた頃。
多くの価値観が変化せざるを得なかった頃。
多くの日本人が多くのプライドを捨てながら生きることに必死だった頃。
サトが嫁いだばかりの
その日訪れた古美術商〝
「お久しぶりにございます……
「いやいや
三代目とはいえ戦中戦後の苦労がそうさせるのか、
一通り懐かしい話に話を咲かせつつも、
長さは一メートルは無いように見える。幅は30センチ程度。高さも同じく30センチくらいだろうか。
「……その箱は……また何か面白い物を持ってきてくれたのか?」
我慢出来ずに
「……はい…………少し前に
「そうなのだ……まだあちこち焼け野原の頃だったから質素な祝言しか挙げられなんだが…………あれから一年近くになるのか…………」
「……遅ればせながら、そのお祝いになればと…………」
元々は第一次世界大戦中にオランダで作られた物だったが、最近になってGHQ経由で日本に持ち込まれていた。
「今はもうこのタイプはほとんど作られておりません。正確にはビスクドールなどと呼ばれる物ですが、古くに日本に入ってきている物もそう多くはないでしょう。しかもこの状態の良さは私も見たことがございません。劣化を防ぐために
「……妻に見てもらってもいいだろうか…………実は妻には贈り物の一つも出来ないままでな…………」
「それはようございますな。ぜひ…………」
戦前と戦中の動乱の中で婚期を逃していた
嫁となったサトはまだ一八才。二〇以上も歳が離れていたせいか、決して娘のようとは言わなくても、やはり
サトは座敷に呼ばれてその人形を見た途端、すぐに魅入られた。
アンティーク人形やフランス人形と呼ばれる物の存在はもちろん知っていた。しかし実際に目にするのは初めてだった。
古さを感じさせるのは色褪せたドレスだけ。綺麗な顔にまっすぐな長い金色の髪。何より、サトはその〝目〟に惹きつけられた。とても人形の目とは思えないような透明感と深み。
それからサトは人形を集めるようになっていく。それでサトが喜ぶならと、
そこは〝人形屋敷〟と呼ばれるようになる。
そして時が流れ、サトは八五才でこの世を去るまで人形を集め続けた。
数十年前にすでに亡くなっていた三代目の
サトの葬儀が終わると、二人は人形を処分するかどうかに頭を悩ませる。
すでに数えきれない量が屋敷を占拠している状態で、さすがに粗末には扱えないだろうと、二人は博物館等に引き取りをお願いする。しかし歴史的価値のある物は引き取ってもらうことが出来たが、状態の悪い物も含め、半分は残った。
次いで二人が頼ったのはお寺や神社だった。
いわゆるお
しかし、それでも総てを終わらせることは出来なかった。
どこのお寺と神社でも断られた人形が一体だけ残った。
それは、サトが最初に魅入られた、あのビスクドール。
「この人形だけは手に負えない」
どこでもそう言われ続け、人形屋敷に一体のビスクドールが残る。
〝手に負えない〟という言葉の意味が分からないままに、その内に、という程度で二人は人形屋敷にそのビスクドールを保管し続けた。
不思議な現象が起こり始めたのは、それからしばらく経った頃だった。最初に異変を訴え始めたのは
次におかしなことを言い始めたのは屋敷の使用人たちだった。人形屋敷の清掃をしていると、人形が保管されてある部屋から物音が聞こえるという者がいるかと思うと、別の者は声が聞こえたという。数人の話し声を聞いたという者まで現れ、決まって中を覗いても誰もいないとのことだった。
使用人たちは一様に怯え、屋敷全体がちょっとしたパニックに陥っていた。そんな状態が二ヶ月も続いた頃には、さすがに
元々
いつもの何気ない会話の中で、珍しく溜息を
「珍しいですね。大きなプロジェクトが終わったばかりでさすがにお疲れですか?」
そういう
「もうこの歳ですから…………六〇を過ぎたらそろそろ引退してもいい頃かしらね」
「ご冗談を…………同年代の私から言わせて頂ければ、私よりは間違いなくお若く見えますよ」
それを軽く鼻で笑った
「
その声のトーンは、明らかにさっきまでとは違った。
「そうですね…………色々なお客様から様々な相談をされますが…………何か、経理以外でお困りのことでも?」
☆
「なるほどね。確かに一筋縄じゃ行かなさそう…………」
珍しく開店前からロックグラスでウィスキーを喉に流し込んでいた
カウンターにはまだ
久しぶりの大きな仕事の依頼だった。その
「さすがに財閥の四代目がノイローゼというくらいだから、よほど深刻なんだろう…………病院も何ヵ所か回ったようだが、効かない精神安定剤が増えるだけらしくてね」
「つまり…………その人形がトラブルの元凶に違いないから何とかしてほしいと?」
「そういうことだな」
その顔を見た
「珍しいな
「人形ってあまり好きじゃなくて……」
そう返答を濁した
「
「……そうねえ」
〝物には念が宿ることがある〟とお互いに理解していた。特に人の形をした物はタチが悪い。それが幽霊のようなものとは違うことは
つい数週間前にも嫌な経験をしたばかり。
それは
いつも通り日曜日に
その日、
そのリサイクルショップは決して大きな店ではなかった。取り立てて何かを探していたわけではない。ただ、何となく、ただそれだけだった。
そして
「……右腕が痛い…………」
決して我慢の出来ないような激痛ではない。少しチクッとした程度。いちいち口に出す必要があるとも思えなかったが、なぜか
すると、何かを感じた
細長い箱があった。厚紙で作られたような物で、色
中には八頭身ほどの細長い日本人形。
着物から出た右手が取れていた。というよりも壊れていた。
「…………呼ばれたね……」
「この人形は悪くない……でもどうしてあげることも出来ないから…………せめて痛みだけでも消してあげる…………」
やがてネックレスを首に戻すと、
「さ、ご飯食べにいこ」
偶然にも二人は、少し前にそんな経験をしていた。改めて人の形をした物の念を意識した経験だった。
もちろんそれは今回の
「ちょっとだけ…………保留させてもらっても、いい?」
何か、嫌な予感のようなものもあった。
「もちろんだ。
「……うん…………分かった……」
直後、
画面には
「さすがにいいタイミングね」
「はいはい、ちょうど連絡しようかと思ってたとこ」
『ねえ、今度の日曜日さあ、新婚旅行に行こうよ』
「何回目よ」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第八部「記憶の虚構」第2話へつづく 〜
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