第五部「望郷の鏡の中へ」第3話(第五部最終話) (修正版)

 咲恵さきえが店をオープンしたのは、その年の九月だった。

 夏場の忙しい時期を過ぎ、敢えてこの時期にオープンして体制が落ち着いた頃に年末の繁忙期を迎える。

 働いていたスナックのママからの応援もあり、理想的なスタートを切っていた。

 ちょくちょくと満田みつたからの依頼は続いていたが、従業員の立場のままでは立ち回りが難しいことも事実としてあった。もちろん裏の仕事は店のママにも内緒だったからだ。

 裏の仕事とはいえ、かなりの収入になっていたことは事実。バレたら脱税どころの話ではない。もっとも満田みつたからの依頼者は社会的な地位をそれなりに持った人物がほとんど。表立って頼めるところがないからこそ仕事が回ってくる。そういう人たちから情報がバレるとも思えなかった。

 もちろん店の開店資金にもある程度は役に立った。本当は一〇月のオープンが理想かと思われたが、裏の貯金を崩してまで咲恵さきえは開店を急いだ。

 一〇月は萌江もえの誕生日がある。落ち着いてその時を迎えたかった。

 行政手続き上は萌江もえは店のアルバイト。咲恵さきえの店がオープンする直前にショットバーを辞めたが、実際にアルバイトとして咲恵さきえの横で働いているわけではない。あくまでも手続き上。萌江もえは働きたがったが、事実として裏の仕事が忙しくなってきていたのは事実。萌江もえだけで仕事に向かう時もある。それによって萌江もえが神経をすり減らしているのを咲恵さきえも知っている。

 そして神経をすり減らしている理由はそれだけではない。

 萌江もえは絶対に口に出さなかったが、確実に咲恵さきえ自身にも問題はあった。

 萌江もえを持ってしても、完全に感情をシャットアウトすることが出来ないまま。咲恵さきえから体を求めることに躊躇ちゅうちょすることもあった。しかし萌江もえ咲恵さきえの体を求めた。その度に咲恵さきえ萌江もえに対して申し訳なさを感じずにはいられない。

 時に何度も萌江もえが体を求めてくる夜、それまで見たことのないイメージが咲恵さきえの中に飛び込んできた。


 ──……男の子と、女の子…………


 そういう夜に限って、萌江もえ咲恵さきえの体を離してはくれない。


 ──…………見てほしいの…………?


 そんな時の萌江もえを、時に怖く感じる時もあった。

 裏の仕事のせいかと思った時もある。仕事で色々な〝もの〟を見ているせいで、精神的な疲労を蓄積しているのだろうか。

 咲恵さきえから見て、どうしても萌江もえの能力は〝強力〟に見えてしまっていた。

 だからこそ頼ってしまっていた自分もいる。


 ──……萌江もえだって弱いところはある…………

 ──……………………はずなのに…………


 そして、咲恵さきえ萌江もえと体を重ね続けた。


 ──……この子たちは…………誰…………?


 働いていなくても、萌江もえは週に三日は咲恵さきえの店に足を運んでいた。

 萌江もえも出来るだけ咲恵さきえとの時間を作りたかったのだろう。

 咲恵さきえの店はLGBT専門のショットバー。しかも会員制。それでもオープン当初の会員からしだいに広がり始め、年を跨いでもそれなりに賑わっていた。

 本来明るく社交性の高い萌江もえは常連客の中でも受けはいい。

 唯一その中の〝闇〟を知っているのは咲恵さきえだけ。

 その〝闇〟を垣間見せる〝裏の仕事〟に明け暮れていく中で、いつしか萌江もえ咲恵さきえの店に顔を出す頻度が減っていた。仕事は月に二つもこなせば多いほうだ。特別忙しくなっているわけではない。

 それでも、夜にやけに疲れている時も多くなった。

 いつの間にか、体を重ねる頻度まで減っている。


 その夜、萌江もえが店に顔を出したのは一週間ぶりだった。

 しかも開店前。

「珍しいね、こんな時間に」

 出来るだけ冷静を装いながらもそう言う咲恵さきえにも、嫌な予感がしなかったわけではない。


 ──……大丈夫……大丈夫…………


 懸命に自分に言い聞かせていた。

「ごめん…………ちょっとだけ…………」

 その萌江もえの声に、咲恵さきえの鼓動が早くなる。


 ──……言わないで…………


「………………もう…………お別れしようかな…………って…………」


 ──…………そうだよね…………


 咲恵さきえは視線を落としたまま、萌江もえの顔を見ることが出来ずにいた。

 その咲恵さきえが絞り出した言葉は小さい。

「…………そう……」


 ──……私がこんな体質だから…………


「……うん」

 その萌江もえの小さな声に、急に声を張り上げた咲恵さきえが続けた。

「無理だよね…………普通じゃないもん…………ごめんね…………こんな私に付き合ってくれて…………」

 それでも顔は上げられないまま。

 萌江もえの声が返ってくる。

でしょ?」

「え?」

「子供二人…………ごめん、だめだ、もう行くね」

 萌江もえが背中を向ける。

「────待って萌江もえ

 反射的に顔を上げると、そこに見えるのは萌江もえの背中だけ。

 その咲恵さきえの声に、萌江もえが間を空けて応えた。

「……あの二人に…………関わっちゃダメ…………忘れて…………」

 萌江もえはドアノブを握り、続ける。

「…………元気でね……」

 ドアの鈴の音がこんなに虚しく聞こえたことはない。


 ──……どうしよっかな…………


 いつの間にか、咲恵さきえはカウンターに片手をつけたまま、立っていることすら出来なくなっていた。


 ──……休んじゃおっかな…………


 視界がにじむ。

 それは、床に落ちて広がった。


 ──…………普通の人間に…………産まれたかった…………


 帰宅後、すでに萌江もえの姿と荷物は無かった。


 ある日、突然何かが終わる。

 思えば、いつもそうだった。


 まともな人間ではない。

 まともに生きられるはずがない。


 萌江もえが山の中の古い一軒家に引っ越したと聞いたのは二週間後。満田みつたからだった。購入の手続きなどで満田みつたが関わっていたと言う。

 店では顔パスの満田みつたが久しぶりの仕事を開店前に持ち込んだ時だった。

「てっきり知っていると思っていたが……それじゃあ仕事も断られるわけだ…………」

「ごめんなさい…………私だけじゃさすがに…………」

 カウンター越しに軽く頭を下げる咲恵さきえに、満田みつたは慌てて返した。

「やめてくれよ。こっちは感謝してるんだから…………それより、住所を知りたくはないのかい?」

「……あ…………ええ……やめておきます…………あの子なりの考えがあるでしょうから…………私たちって普通じゃないですからね…………」

「確かに普通じゃないな。あの世界の感覚は私には理解出来ないが…………ま、これ以上口を出すのは野暮だと思うが…………普通じゃないから出会えたとも言えるんじゃないかな…………余計なことだな…………」


 ──……いつか…………また会えるのかな…………





 そして、その時は、思ったより早かった。

 およそ三ヶ月後。

 夏。

 咲恵さきえはあれから毎日、開店前、ドアの鈴が鳴る度に萌江もえの顔を思い浮かべていた。

 そしてあれから、一人で、一人の家にまっすぐ帰るのが嫌いになった。

 仕事帰りに飲み歩くのが日課となっていた。

 それでもその夜は仕事中に飲み過ぎたのか、自然とまっすぐマンションに足が向いた。


 ──……たまには早く寝よっかな…………


 玄関前に人影があった。

 元々エントランスやオートロックのあるようなマンションではない。名ばかりの古いマンションだった。誰でも玄関前まで入ることは出来た。

 そして、遠くからでも分かった。

 早くなり始めた歩幅を意識的に抑える。


 ──……だめだ…………冷静になれない………………


 間違いない。

 萌江もえの姿がそこにある。

 目の前に、会いたかった萌江もえがいる。

 まるで初めて会った時のような萌江もえの瞳がそこにあった。

 咲恵さきえは顔を伏せ、震える手でノブに鍵を挿す。

 大きくドアを開けた。


 ──……お願い…………入って…………


 下を向いた咲恵さきえの視界を、萌江もえの足が通っていく。

 玄関に入ると、素早く鍵をかけてチェーンを差し込む。

 背後に萌江もえがいるのが分かった。

 ゆっくりとその気配が近付く。

 咲恵さきえが振り返ると、もう、言葉はいらなかった。

 初めての夜も、この玄関から始まった。

 そして今夜は、寒くはなかった。





「いやね……歳を重ねると思い出話が多くなって」

 咲恵さきえがカウンターの中でそう呟いた。

 開店前から萌江もえが飲んでいるのはいつものこと。今夜も萌江もえはバスを乗り継いで店まで来ていた。

 その萌江もえが返す。

「そう? 思い出せるのは〝思い出〟だからだよ…………あの夜の咲恵さきえは激しかったからなあ」

 そう言ってニヤニヤとする萌江もえが、なぜか今夜はいとおしい。

「仕方ないでしょ…………久しぶりだったんだから…………っていうより、あそこまで萌江もえがシャットアウトしてくれるようになって最初だったから…………素直に…………良かった…………」

「あら。恥ずかしがってるお顔が可愛いわ」

「やめてよ…………バカ」

「でもさ…………あれからもう一年以上になるのかあ…………店もオープンしてからもうすぐ二年…………やっぱり私たちは離れられない運命だねえ」

 そう言った萌江もえが窓の外に顔を向ける。

 夏が終わり、秋の街灯り。少しずつ夜の空気が冬の足音を伝えていた。

 ロックグラスに氷を追加しながら萌江もえが続ける。

「まさかと思うけど、あれから……杏奈あんなちゃん来てないよね…………」

「ああ……あの子…………大丈夫…………来てないよ。西沙せいさちゃんは?」

「ちょっと距離置かれたね…………結果が結果だったからねえ。あれ以来電話もない」

「それで寂しくなったの?」

「そんなわけないでしょ。咲恵さきえに会いに来ただけ」

「ふーん」

「分かってるくせに強がらないでよ」

「まあね」

 そんな会話をしている内に開店時間を迎え、咲恵さきえが外の看板に繋がる壁のスイッチを押した。

 同時に聞こえる萌江もえのグラスと氷の音が心地良く響く。

 そして咲恵さきえ萌江もえに声をかける。

「でも…………萌江もえが自分の能力を高めてまで私を受け入れてくれたから、私も自分を認められるようになったんだよ…………感謝してる」

「最初はやっぱり、自分のこと嫌いだったでしょ」

「うん…………目を背けていたって言うのかな…………現実を受け入れようとしなかった」

「無理もないよ…………私だって最初はさ…………普通の人間だったらって何度も思った…………でもそうじゃなかったから、ここにいるんだよ」

 その萌江もえの言葉に咲恵さきえが顔を向けると、やけに今夜の萌江もえの瞳が懐かしく感じた。


 ──……やっぱり……私はこの瞳が好き…………


 咲恵さきえが笑顔で返す。

萌江もえが普通じゃなくて良かった…………」

「今夜は燃えそうだね」

「そっちか」

 そして、珍しく早い時間にドアの鈴が鳴った。

 小柄な若い女性だった。

「いらっしゃい。どうぞ」

 咲恵さきえがカウンターに促すと、女性は慌てたように財布から一枚のカードを出した。

 店の会員カードだった。

「うん。大丈夫よ。今日はお一人?」

 咲恵さきえも記憶が曖昧だった。カードの裏の名前を見ながら続ける。

安斎あんざい……沙耶香さやかさん? もしかして久しぶりかな?」

 すると、沙耶香さやかは、辿々しく口を開く。

「…………あの…………私って…………

 萌江もえが目を向ける。

 咲恵さきえは懸命に返すだけ。

「えっと、ごめんなさいね。だいぶ前だと思う……私も曖昧だけど…………確か二人で…………開店した直後…………もう一人はもっと身長の高い人だったと思う……覚えてない?」

 こういう時には便利な能力だった。

 相手の持ち物からも、おぼろげではあったが記憶を読み取れる。

「そのもう一人って…………それからここに来ましたか?」

 沙耶香さやかの真剣なその表情に咲恵さきえも真剣に応えていた。

「ごめん…………多分来てないと思う……」

「失礼しました」

 それだけ言って沙耶香さやかが背中を向けたとき、萌江もえが声を張り上げていた。

「待って」

 その声に、一瞬時が止まる。

 そして萌江もえが続けた。

「何かを探してここに来たんじゃないの? もう一人の子? それとも〝思い出〟? 話してみて…………

 沙耶香さやかは一度躊躇ちゅうちょした。

 そしてしばらく考えた後、ゆっくりとカウンターの椅子に座った。

 萌江もえ咲恵さきえの目を見て小さくうなずく。

 咲恵さきえうなずいた。

 そして声を掛ける。

「とりあえずお茶でも飲む? 今夜は無理やり引き止めたお姉さんがご馳走してくれるから心配しないで…………少し話を聞かせて」


 ──……この子…………助けなきゃいけない気がする…………


「えっと……沙耶香さやかちゃんだよね」

 その咲恵さきえの言葉に反応するように、沙耶香さやかが口を開く。

「……沙耶香さやか、じゃないんです…………ホントは……元蔵麻美もとくらまみと言います。半年くらい前に、突然……目を覚ましたら知らない場所で…………顔も体も私じゃないし…………家族も知らない人たちだし…………ホントの家に行ったら家族はいたんだけど…………こんな姿じゃ…………分かってもらえるわけないし…………帰れなくて…………家族に会いたいのに…………」

 沙耶香さやかはいつの間にか大粒の涙をこぼしていた。

 張り詰めていたものが弾けていた。

 すると、そこに萌江もえの声。

咲恵さきえ…………今夜は私からの依頼…………この子を助けてあげて。あなたにしか出来ない」

 萌江もえは水晶のネックレスを外すと、左手に巻きつけた。

 咲恵さきえは黙ってカウンターから出る。

 泣き続ける沙耶香さやかの後ろに立つと、両腕で大きく包み込んだ。

 沙耶香さやかの記憶はすぐには流れてこなかった。


 ──……大丈夫…………


 すると、それはまるで弾けるかのように、一気に咲恵さきえの中に流れ込む。

 そして咲恵さきえは、その記憶を沙耶香さやかと共有した。

 咲恵さきえは左手を萌江もえに伸ばして声を上げる。

萌江もえもいる! 来て!」

 萌江もえは右手で咲恵さきえの左手を掴んだ。





 春。

 同じ大学の同じ学部で、二人は出会った。

 お互い大学に入ったばかり。もうすぐ一九才になる。

 安斎沙耶香あんざいさやか

 元蔵麻美もとくらまみ

 初めて会った時から息があった。お互いすぐに惹かれあったが、二人で同性愛者だということをカミングアウトしたのは半年近くが経ってから。そしてそれからはお互いのことしか見えなかった。

 どこにでも可能な限り一緒に出かけた。

 お互いアパート暮らしだったが、気が付くと麻美まみの部屋で二人で暮らすことのほうが多くなっていた。

 麻美まみの実家は同じ県内。それに対して沙耶香さやかは二つ隣の県。

 何度か電車で麻美まみの実家にも行った。理解のある家族だった。麻美まみが同性愛者だということも理解していた。その上で沙耶香さやかを受け入れてくれていた。

 二人は幸せだった。

 沙耶香さやかは同性愛者であると自覚してから、それを誰にも言えないまま隠して生きてきた。

 しかし、そんな自分を受け入れてくれる世界が広がった。

 最初にLGBT限定のショットバーを見付けたのは麻美まみだった。

 何度か大学の友達と居酒屋に行ったことはあったが、ショットバーとなると途端に大人の世界に感じる。聞かれたら年齢を偽ろうと口裏を合わせつつ、緊張しながらも店のドアの前。

 まだオープンして間もない店。会員制と書いてあるが、どうすればいいのかも分からない。

 店のドアの前で二人で営業時間を確認する。

「よし。もう開店時間は過ぎてる。会員じゃなきゃダメって言われたら諦める」

 麻美まみがそう言ってドアを開けようとすると、後ろからの声。

「あら、どうぞ」

 二人が振り返った先にいたのは咲恵さきえだった。

 重そうなレジ袋を両手でぶら下げている。

「もしかして、興味があって来てくれたの?」

 麻美まみが応える。

「あの…………会員制って……」

「ああ、気にしないで。本来はそうなんだけどオープンしたばっかりだし。そう書いておけば冷やかしも入りにくいしね。興味があって勇気を振り絞って来てくれたってことは…………二人もそういうことで、いいの?」

「…………はい……まあ…………」

 麻美まみは恥ずかしそうに視線を落とすと、隣の沙耶香さやかの手を握る。

「素敵。入って。会員証あげるから」

 咲恵さきえがそう言ってドアを開けると、そこにかかるのは萌江もえの声。

「おかえりー」

 店内には他に誰もいない。

「もう、どうして私が客のあなたを留守番にして氷を買いに行かなきゃいけないのよ」

 そう言いながら咲恵さきえはカウンターの中へ。

「まだオープンしたてなんだから、酒屋さんに顔知ってもらわなきゃならないでしょ。製氷機なんてまたいつ壊れるか分からないんだからさ」

 萌江もえがそう言いながらドアに気付く。

 そして、ドアから顔を出して中を伺う二人を見付けた。

「凄い。お客さんだ。入って。いらっしゃい」

 その萌江もえの声に、咲恵さきえが繋げる。

「カウンターにどうぞ。まだオープンしたばっかりだし、静かな店だからゆっくりして。これも何かの縁だしね。いつかこの店が〝いい思い出〟になってくれたら嬉しいかな」

 二人にとっては初めて大人の世界に足を踏み入れた日。

 そして世界は自分たちに決して冷たくはないということを教わった日。

 自分たちの気持ちは間違ったものじゃないと教えてもらった日。

 また来ることを約束して、その三日後。

 二人は土日を利用して初めての一泊旅行に向かっていた。

 二人で初めて温泉宿に予約した。総てが初めての連続。

 二人の乗ったバスが山道を進んでいく。

 細い道だった。

 突然の落ちる感覚。

 視界が斜めに動いた。

 気が付いた時には、二人の体はバスの中で浮いていた。

 同時に、身長の高い麻美まみが、沙耶香さやかの体を包み込む。

 何度もバスは回転を繰り返し、それからは記憶がない。


 そして沙耶香さやかは、病院で一年程眠り続ける。

 やっと目が覚めた時、説明を理解するのには時間が必要だった。

 ベッドの横で、母親が泣きながら説明を繰り返していた。

「事故の日の夜に、麻美まみちゃんは亡くなったの…………あなたはそれから目が覚めなくて…………ずっと…………」


 ──…………どうして…………?

 ──……麻美まみは…………?


「……麻美まみは…………?」

 その呟くようなか細い沙耶香さやかの声に、母親は戸惑いながらも声を絞り出す。

「…………麻美まみちゃんは…………事故の後すぐに…………」

麻美まみに会わせて! 麻美まみ! まみ!」

 止めどなく涙が溢れ、声が溢れていた。


 ──どうして⁉︎

 ──どうして⁉︎

 ──麻美まみに会いたい…………


 精神的な部分を考慮して入院は少し延長された。

 しかし退院した次の日の朝、沙耶香さやかの中にいたのは、麻美まみだった。





 咲恵さきえ萌江もえの手を離し、ゆっくりと沙耶香さやかの体から自分の体を離す。

 両手を沙耶香さやかの肩に置き、口を開いた。

「……おかえり…………沙耶香さやかちゃん…………」

 沙耶香さやか項垂うなだれたまま、大きく見開いた目で自分の膝を見つめるだけ。

 咲恵さきえの言葉が続いた。

「忘れないであげて……絶対に…………あなたは沙耶香さやか…………そして、あなたの中には麻美まみちゃんがいるの…………」

 沙耶香さやかが肩を震わせ、両手で顔を覆った。

「これも忘れないで…………麻美まみちゃんの中にいる〝あなた〟も、忘れちゃだめ…………麻美まみちゃんが悲しむよ。無理に頑張らなくていい…………その内、絶対に…………麻美まみちゃんと笑顔で一緒にいられるようになるから」

 やがて、出勤してきた由紀ゆきと入れ替わりで、咲恵さきえ沙耶香さやかを駅まで送るために外に出た。

 不思議そうに由紀ゆき萌江もえに話しかける。

「あの子どうしたんですか?」

「うーん……ちょっと訳あり」

 そう応えた萌江もえも気が付いていた。


 ──……私も無意識の内に引き止めてたな…………


「大変な経験した子なんだ…………もしまた来たら、優しくしてあげてよ」

「珍しー」

 そう言って目を見開いた由紀ゆきが続ける。

「あのセクハラ魔人と呼ばれた萌江もえさんがそんな優しいことを言うなんて」

「私はセクハラ魔人だったのか」

「ママがそう呼んでましたよ」

「今夜は体に説教だな」

「出たセクハラ魔人」

「しまった。今夜は私が払わなきゃいけなかった…………」

 そして萌江もえはネックレスを首に戻して思った。


 ──……今日は出番が無かったね…………





「今日は体で払ってもらっちゃった」

 二人でシーツに包まりながら、咲恵さきえが呟く。

 萌江もえがベッド脇のロックグラスを二つ取り、一つを咲恵さきえに渡す。

 そしてふざけて見せる。

「えーっと、さっきのでお代は足りますでしょうか…………」

「うーん…………ちょっと足りないかな」

「お姉さんのところはお高いですな」

「まけといてあげる。今日はお陰様だったから」

「ん? 何が?」

 萌江もえはそう聞き返しながら、だいぶ氷で薄まったウィスキーを喉に流し込んだ。こういう時の薄まったウィスキーは嫌いではない。

「今夜は……自分の力を、少しだけ好きになれたから…………」

 そう応える咲恵さきえは、ウィスキーを一気に飲み干して続ける。

萌江もえがあの子を引き止めてくれたからだよ…………やっぱり、何か感じた?」

「多分……そうなのかな…………」

「お陰で、あの子も現実に引き戻してあげられたね…………萌江もえは凄いよ…………私と違って自分に向き合ってる」

咲恵さきえもそうでしょ。だから私は咲恵さきえのことが好き」

 そう言って萌江もえ咲恵さきえの手に指を絡めた。

 その指の暖かさを感じながら、咲恵さきえが優しく返していた。

「また来てくれたらいいな…………あの子…………少し遠いけどね」

「そうなんだ…………でも大丈夫…………絶対にまた来てくれるよ」

 不思議な程に、優しくなれた夜だった。





         「かなざくらの古屋敷」

      〜 第五部「望郷の鏡の中へ」終 〜

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