第一部「妖艶の宴」第2話 (修正版)

 高田健二たかだけんじが浮気相手の子供────萌江もえを引き取ってからもうすぐ一年が経とうとしていた。

 皮肉なのか、引き取った日は萌江もえの一才の誕生日。それを知ったのは引き取った数日後だったが、どうしてなのか、娘の誕生日に母親は事故で亡くなったことになる。

 少なくとも健二けんじは事故と聞いていた。

 

 そしてもうすぐ、萌江もえの誕生日がやってくる。

 健二けんじは会社ではそれなりの立場だった。大手でもある会社内で、エリート組の健二けんじの立場は堅牢けんろうだ。元々親の名前で入社したようなものだった。大きな財閥の次男であるために実家を直接継ぐ必要はなかったが、就職したのは財閥のグループ会社。将来も安泰の立場だ。

 妻の紗英さえは当然のように専業主婦だった。紗英さえ自身、その立場を欲しくて結婚したのだろうと健二けんじは考えている。

 浮気と隠し子が発覚し、その子供を紗英さえに押し付けてから、自然と健二けんじの毎日の帰宅時間は遅くなっていった。休みの日にも意味もなく一人で出かけることが多い。適当に時間を潰して夜に家に帰る。

 しばらく紗英さえと食卓を囲んだ記憶がない。会話は事務的なものだけ。健二けんじが寝るのもこの一年はリビングのソファーだ。

 紗英さえ萌江もえをちゃんと育てているかも分からない。休日の朝ぐらいしか萌江もえの顔を見ることもなくなっていた。

 それでも、まさか紗英さえがあんな結果を求めるとは考えもしていない。

 それは長い夜になった。

 日曜日、適当に外をブラつき、車で家に帰った時は夜の七時を回っていた。いつもはもう少し遅く帰るのだが、なぜかその日は早目に帰宅することを選んだ。

 久しぶりに紗英さえと話をしようと考えていた。

 離婚をするとしても、しっかりと話そうと思った。

 家に入ると、玄関からリビングまで電気が点いたまま。

 そして静かだった。

 こんな時間に買い物にでも出ているのだろうか。健二けんじ紗英さえの最近の生活スタイルを知らない。

 

 ──……こんな夜に、幼い子供を連れて…………


 そう思いながら、健二けんじは台所に向かう。シンクの中に汚れたままの皿が何枚も重ねられている光景を見ると、健二けんじ紗英さえに擦り寄ろうとしていた自分の中にフツフツと怒りのようなものが湧き上がるのを感じた。


 ──……専業主婦だったらこのくらいのこと…………


 そんなイライラを募らせながら、僅かに残っていたグラスに水を注ぐと、一気に飲み干した。そのグラスを乱暴にシンクの中に置くと、シャワーでも浴びようと風呂場へ足を向ける。

 廊下からの扉を開け、脱衣所へ。

 閉じられた浴槽への曇りガラス。

 そこが真っ赤に染まっていた。

 健二けんじが慌ててその扉を開けると、そこには首に包丁を突き立てたまま座り込む紗英さえ

 その全身と周囲は、至る所が真っ赤に濡れ、紗英さえの見開かれた目が浴槽の中の真っ赤な血溜まりに注がれている。

 そこに仰向けに浮かぶのは、萌江もえの姿だった。

 健二けんじは慌てて萌江もえを抱き上げる。

 足が滑った。

 転んで頭を打ち、顔を上げると、見開かれた紗英さえの目が健二けんじを見つめる。

 生きているのか死んでいるのかも分からないようなその目に、健二けんじは初めて恐怖を感じた。

 直後、腕の中の萌江もえが咳き込む。

 足を滑らせながら、萌江もえを抱きながらリビングまで走る。電話の受話器を取ると、震える手で一一九番へ。健二けんじ紗英さえが自殺したとは伝えなかった。冷静ではなかったのだろう。何を話したのかも覚えていない。

 到着した救急隊員の通報で警察もやってくる。

 萌江もえはだいぶ浴槽の水を飲み、同時に首を閉められていたが一命は取り留めた。

 事件の可能性があるために警察の捜査は入ったが、紗英さえの検死解剖の結果は自殺。

 一応警察からも事情を聞かれた。

「検死解剖の結果は自殺しか考えられないとの結果でした。つまり、包丁の刺し傷の角度とかから明らかに自分で刺したものであると…………しかし医者は言ってましたよ高田たかださん。あんなに何度も自分の胸に、しかもあんなに深く刺せるというのは、まともな精神状態ではないだろうとね。しかもトドメに首まで刺してる…………」

 警察が自分を疑っているのは口調から感じられた。

 そしてその言葉に、健二けんじは顔を上げられない。

「最近奥様と喧嘩でも? 何かおかしな言動とかありませんでしたか?」

 目の前の机の表面を眺めながら、いつの間にか健二けんじの口元に笑みが浮かぶ。


 ──……自分から、いなくなってくれた…………


「検死解剖の結果が結果ですから、警察としては奥様が娘さんと心中を図った、という形に納めるしかありませんが…………」


 ──……あいつのために…………俺がどれだけ苦労をしたのか…………


 警察署から病院に戻った時にはすでに朝。

 萌江もえはその日には退院することが出来た。

 その日の内に健二けんじは内見もせずにマンションを借りた。あの家に戻るのは嫌だった。

 問題は警察の捜査が入ってしまったことで実家に事の顛末が知られた事だ。健二けんじはこれまでの総てを話すしかなかった。

 愛人のこと。

 萌江もえのこと。

 愛人の死。

 養子が愛人の子供だったこと。

 そして紗英さえの自殺。

 家にも立場というものがある。

 父親は現職の地方議員。

 スキャンダルは避けたい。

 そして、健二けんじえんを切られた。

 権力を使ってスキャンダルも揉み消される。

 それと同時に仕事を失う。それも解雇という形だった。退職金は出ない。

 それでもまだ貯蓄はあった。

 しかし健二けんじは子育てなどしたことがない。適当に育児の本を買い、適当な子育てを繰り返す。しかし思うようになどいくはずもない。毎日、萌江もえの泣き声に神経をすり減らしていった。


 ──……こいつも…………一緒に死んでくれたら楽だったのに…………


 いつしか、子供をマンションに置き去りにして職業安定所に通う日々が続く。

 仕事はなかなか見付からなかった。

 しだいに貯蓄もすり減っていく。

 前向きな思考など、すでに忘れていた。

 自発的な思考が何かも思い出せない。

 少しずつ衰弱していく萌江もえを抱え、夜、健二けんじはマンションを出た。

 何時なのかも分からない。

 萌江もえを抱える健二けんじも、衰弱していた。

 いつの間にか、前の会社の時によく使っていた駅に着いていた。

 理由は分からない。

 どこまでの切符を買ったのかも自覚がないまま、夜の閑散としたホームの椅子に腰を降ろしていた。明らかに様子がおかしいと思われたのだろう。周囲の人たちがチラチラと見る中、駅員も近くで様子を伺っていた。

 アナウンスと共に、列車がホームに近づく。

 健二けんじは抱いていた萌江もえを隣の椅子に置くと、小さく呟いた。

「……お前の…………お母さんのところに行ってくるよ…………ごめんな…………」

 そして、駅員の動きは間に合わなかった。





「……ごめん…………」

 ベッドで裸の萌江もえを後ろから抱きしめながら、咲恵さきえささやく。

「そんな幼い頃の記憶まで…………」

 本来なら物心がつく前の記憶。

 しかしなぜか、萌江もえの中にはその歴史があった。そんなものまで容赦なく咲恵さきえの中に入り込む。そしてなぜか、今夜の萌江もえはそれを止められなかった。

 何かが萌江もえの気持ちを揺らしている。

 その〝何か〟が咲恵さきえには分からないまま。

 しかしそんな咲恵さきえに返す萌江もえの声は優しいものだった。

「大丈夫だよ咲恵さきえ…………咲恵さきえになら何を見られても平気…………でも咲恵さきえが嫌かと思ってシャットアウトしてた…………けど今夜は無理だった…………私こそごめん」

 萌江もえは自分が冷静ではないことを自覚しながら、懸命に込み上げてくるものを押さえていた。

 それを察したのか、咲恵さきえが口を開いた。

「今日の仕事…………断ろうか?」

「ダメ」

 すぐに、はっきりと応えた萌江もえが続ける。

「……苦しんでる人がいる…………生きてる人と…………もう生きていない人たち…………」





 大正五年。

 田上重蔵たうえじゅうぞうと妻キエの間に娘が産まれる。

 その二年後。

 大正七年。

 長男である多一郎たいちろうが産まれる。

 重蔵じゅうぞうの父、華平太かへいたは長女を溺愛できあいしていたが、それでもやはり跡取りとしての長男が産まれたことを大いに喜んだ。

 しかしその幸せも束の間、二才の長女が謎の奇病で死亡する。それはあまりにも突然だった。泣き叫ぶのではなく、まるで大人のように叫んでいた。病院でも原因は分からないまま突然死として扱われる。

 重蔵じゅうぞうとキエの落胆ももちろんだが、華平太かへいたの落ち込み方は尋常ではなかった。初めての孫ということもあったのかもしれないが、長男の多一郎たいちろうに対しての愛情を示せないほどに、その死は精神的に影響を及ぼしていた。

 そのまま数年が経ち、大正一〇年。

 華平太かへいたの元に、出入りの骨董屋こっとうやが訪れた。

 田上たうえ家とは付き合いの長い店だったが、少し前に先代が亡くなり、新しい当主が挨拶がてら訪れていた。

 まだ三十代の若いその当主、と言うよりも、華平太かへいたはその横の大きな箱のほうが気になる。未だ孫の死から立ち直れないままの華平太かへいたは、何か心の拠り所を求めていたのかもしれない。

此度こたびは、御挨拶がてらに珍しい逸品をお持ちいたしました」

 目の鋭い男であることは華平太かへいたにも分かった。

「ほう……これはこれは…………早速見せて頂きたい…………」

 なぜか異常な程に、華平太かへいたはその箱の中身を見たくて仕方がない。

 いつの間にかざわつき、落ち着かない。

 しかし、自分ではそれに気が付けなかった。

 目の前に箱が差し出され、華平太かへいたは箱を包む組紐くみひもを解く。その手が震えていることにも気が付かない。

 ふたを外すと、そこには一体の日本人形。

 大き目な物だ。

 かなり古い物であることはすぐに分かった。

 そして、骨董屋こっとうやの当主がゆっくりと口を開く。

「……歴史のある逸品にございます」

 華平太かへいたの体が小刻みに震えていた。

 なぜかは分からない。

 しかし惹かれた。

 その日本人形に、間違いなく華平太かへいたは二才で亡くなった孫娘を重ねた。

 そして、毎日その人形をで始める。


 その翌年、重蔵じゅうぞうとキエの間に次女が産まれた。

 しかし、なぜか華平太かへいたは次女には全く興味は示さず、まるで人間のように人形に接する日々。

 そしてなぜか、華平太かへいたは裏山の別邸にこもるようになる。しかも裏の蔵の中で、気が触れたように人形を愛し続けた。

 それは二年後に次女が二才で亡くなっても続いていた。そして次女の症状は長女の時と全く同じだった。

 重蔵じゅうぞうは父が精神を病んでしまったとして、そのまま蔵に幽閉する。次女までも二才で亡くなってしまったことで、重蔵じゅうぞうも精神的に疲れていたのかもしれない。多くのものを蔵に仕舞い込んでしまいたかった。

 翌年、昭和元年。

 華平太かへいたが蔵の中で死亡しているのが見つかる。

 そのまま、重蔵じゅうぞうが六代目当主となる。四三才だった。

 長男の多一郎たいちろうはいるが、他に後継候補を作るべきだと母のヨシに進められる。

「もし多一郎たいちろうが亡くなれば…………田上たうえ家は血筋を失います」

 呼び出された暗い部屋の中で、ヨシが重蔵じゅうぞうに詰め寄る。

 しかし重蔵じゅうぞうは顔を曇らせるだけ。

「しかし母上……すでにキヨも若くはありません…………もう四〇近くては…………」

 すると、ヨシは口元に笑みを浮かべた。

 そして返す。

「……なに……重蔵じゅうぞうさんはお得意ではありませんか」

 重蔵じゅうぞうは母であるヨシのその言葉に鳥肌が立った。

 なおもヨシが続ける。

「若い女子おなごがお嫌いでもないでしょうに…………」

 嫌な過去が頭をぎる。

「…………母上────」

めかけを入れれば良い。若く美しい女子おなごを…………好きなだけ跡継ぎを作りなさい…………元々裏山の別邸はめかけ用に昔作られた物…………キエさんを気にする必要はありませんよ」

 そう言ったヨシは、しわだらけの手で、突然重蔵じゅうぞうの胸ぐらを掴む。

 怯える重蔵じゅうぞうに向けて続けた。

「すでに三人の内、二人がやまいで命を落としました……これはもはや呪いでしょう……か……………………」

 妻のキエはすでに三九才。体は求めても、もう子供を産める年齢ではないと、キエには妊娠は断られていた。

 すぐにヨシの見付けてきた若いめかけを召し抱えた。キエも渋々承諾する。というより、義理の母でもあるヨシに承諾させられた。

 最初の夜。

 裏山の別邸。

 しかしそのすぐ側には、嫌な思い出しかないあの蔵。

 複雑な感情はもちろんあった。

 そして重蔵じゅうぞうは驚いた。

 そのめかけの姿はあの遊女ゆうじょとそっくりだったからだ。昼間に会った時には感じなかったのに、何故か今はそう感じる。いや、それどころかあの遊女ゆうじょそのものだった。

 それから毎日のように、重蔵じゅうぞうめかけの体を激しく求めるようになる。

 キエも面白くはなかったのだろう。その夜も重蔵じゅうぞうめかけを求めて裏山の別邸に足を運んでいた。

 そしていつの間にか、キエもそこに向かっていた。

 そこで何が行われているのかは分かっているのに、何故かキエは足を向ける。

 ただの嫉妬心だけだったのか。

 ちょうど事を終えた重蔵じゅうぞうが、裸のまま台所で水を飲んでいた時だった。

 突然の女の悲鳴に、柄杓ひしゃくを土間に投げ捨てた重蔵じゅうぞうが駆けつけると、そこにはめかけに馬乗りになって包丁を振り下ろすキエの鬼のような形相があった。包丁の刺さる音と吹き出す血を前に、止めることも出来ずに重蔵じゅうぞうは座り込む。

 すると、突然手を止めたキエが顔を上げた。すると、みるみるとその顔は、あの遊女ゆうじょの顔に変わっていく。

 しかも鬼のような形相のまま。


 ──…………呪い…………


 そのまま、キエは自分の腹に包丁を突き立てた。

 大口を開けて笑い声を発しながら、何度も、何度も自分の腹に包丁を刺しては抜き、刺しては抜き、やがて、後ろに倒れるようにして息絶えた。

 翌日二人の葬儀を早々に終わらせたキヨは、生気せいきのない重蔵じゅうぞうの耳元でささやく。

「……お前は何も悪くない」

 まるで洗脳するかのように言い続けていた。気が触れてしまうかもしれないと考えたからだった。

 なんとか正気を取り戻した重蔵じゅうぞうに、母は女手が必要だからと三人のめかけを充てがった。別邸に行くのを嫌がった重蔵じゅうぞうのために、新しいめかけは本邸で暮らすことを許された。幸いにも重蔵じゅうぞうの妻のキエはもういない。

 しかし最初の夜から、重蔵じゅうぞうには三人のめかけ全員が、あの遊女ゆうじょの顔に見えていた。

 そして、張り詰めていた重蔵じゅうぞうの精神が崩壊する。

 そのまま重蔵じゅうぞうは、裏山の蔵に幽閉されることとなった。

 そこは、重蔵じゅうぞう自身があの遊女ゆうじょを閉じ込めた蔵。

 重蔵じゅうぞう自身が、あの遊女ゆうじょを殺した蔵。





 水曜日は朝早くに屋敷に行くため、火曜日の日中に咲恵さきえに迎えに来てもらった萌江もえは、そのまま咲恵さきえの部屋に一泊し、というスケジュールだった。しかし萌江もえが大人しく咲恵さきえの部屋で帰りを待っているはずもなく、当然のように咲恵さきえのバーのカウンターに陣取ることを決める。

 開店時間は一九時。とは言ってもバーというジャンル上、客が入り始めるのはいつも二一時くらいからだった。

 そして開店の一九時ちょうどに萌江もえは店のドアを開ける。

「来てやったぜ」

「出禁ですよお客さん」

 咲恵さきえのその返しに笑い声を上げたのは由紀ゆきだった。

 あの一件以来元気になったとは聞いていたが、その笑顔は萌江もえの想像以上だった。

「元気そうだねえ」

 そう言って萌江もえはカウンターに座る。

 最初から閉店までのコースが確定していた萌江もえは、出来るだけ店に迷惑にならないようにいつも一番奥に座る。萌江もえなりの配慮だった。言葉にしたことはないが咲恵さきえも気が付いてはいた。しかし店が混んできてもスタッフルームに入り込むようなことはしない。従業員のことは全員を知っている。従業員も萌江もえ咲恵さきえのパートナーであることは知っている。それでもスタッフルームに入り込む一線だけは超えなかった。バーで働いていた経験のある萌江もえだったが、馴れ合いだけは嫌だった。例え従業員にどんなに近くても、客としての立場を崩すのは失礼なことだと考えている。

 そんな萌江もえに、由紀ゆきは笑顔で返した。

萌江もえさんのおかげですよ」

「私はアドバイスをしただけ。由紀ゆきちゃんも一週間彼女とイチャイチャしただけでしょ?」

「なんだか色々話せてスッキリしたのかもしれませんね…………もう咲恵さきえさんにも隠し事はないし」

「あれからは? トラブルはない?」

「はい、もうスッキリです。それでこれからは事前に対策をしようと思いまして、とりあえず玄関に盛り塩はしてみました」

 すると、カウンターの端から咲恵さきえの含み笑いが聞こえる。

 不思議そうな顔をする由紀ゆきに、苦笑いを浮かべた萌江もえが応えた。

「みんなやっちゃうんだよねえ」

「え? 何かやり方とかあるんですか?」

「違う…………意味が無いの」

「え?」

「お葬式に行くとさ、お清めの塩ってもらえるでしょ。あれはいいの。一つの作法みたいなものだから…………でもなんでお葬式から帰ったら家に入る前に体に塩を振りかけるか分かる?」

「? ……お寺に行ったから?」

「虫を落とすため」

「は⁉︎ 虫⁉︎」

「うん。今は棺に保冷剤入れるからいいけど…………遥か昔にそんな物がない時代って、出来るだけ早く葬儀を終わらせようとしてたみたいだよ。遺体って、思ったより早く腐敗するみたいでさ…………虫がワクわけよ。ウジ虫が。それが服についたまま帰ってしまうことがあるから、家に入る前に塩で落とすわけだ。幽霊なんか関係ないよ。盛り塩なんて話が広がった歴史も割と新しいしね。そもそも塩って昔は高価な物だったんだよ。盛り塩とか塩撒くとか、そんなもったいないこと一般庶民が出来るわけないよ。多分だけど、何かを勘違いしたどっかの飲食店が広げたんじゃないかなあ…………勘違いっていうより別の意味かな。結構店の入り口に盛り塩してる所ってあるでしょ。飲食店だと塩はあるだろうしさ」

「ああ……ありますね」

「あれにしたって、そもそもは幽霊を入れないためにやってるんじゃなくて、悪い物……つまり悪い客が入ってこないようにって意味合いなんだよ。だからさ、霊感ありますって言って塩巻いてる奴は…………私に言わせればただの嘘つき霊能者にしか見えない」

 少し声のトーンが落ちた萌江もえに気が付き、咲恵さきえが繋げる。

「心霊スポットの帰りに背中に塩振りかけたりね」

 それを由紀ゆきが拾う。

「ああ、ネットの動画とか」

 そして萌江もえに帰る。

美味おいしくなるならいいけど…………そういう奴らって不味まずそうだよねえ」

「確かに」

 そう言って由紀ゆきは笑った。

 そして咲恵さきえ萌江もえに声をかける。

「もう呑む? まだ早い?」

「呑む。呑まないと頭が回らない。今日はコニャックをロックで」

「相変わらず好きねえ。今日は酔い潰れないでね」

「多分大丈夫! 任せてくれ!」

 すると咲恵さきえは、大きな氷にコニャックを注いだグラスを出しながら大きく溜息をいた。

「そんなに大変なんですか? 今回の話って」

 そう言ってきたのは由紀ゆきだった。

 由紀ゆきは前回の一件で二人に関わってしまった一人だ。咲恵さきえ由紀ゆきには新しい仕事が入ったから萌江もえが来ると伝えていた。しかし相談内容までは伝えていない。

 咲恵さきえからグラスを受け取った萌江もえが、中の氷を指で転がしながら応えた。

「そうだね。我が家のリフォームが出来るかどうか…………そのくらい難しい仕事だね」

「よく分かりませんが…………」

「つまり…………分からないくらい難しい」

「さらによく分かりません」

「私も、分からない…………困ったねえ」

 そこに呆れたような咲恵さきえの声。

由紀ゆきちゃん。コニャックの瓶一本……萌江もえの前に置いといて」





 水曜日。

 午後。

 一四時。

 田上たうえ家。

 前回と同じ和室で萌江もえ咲恵さきえの前に座るのはイトだけ。それでもイトの背後のふすまの向こうに裕子ゆうこがいるのは二人も気付いていた。畳はフローロングとは違う振動の伝わり方をする。例え静かに歩いても、畳は足音を消しにくい。

 重蔵じゅうぞうが結婚してからの長女と長男の話から始まった。

 重蔵じゅうぞうが精神を病んで蔵に幽閉されるまでの話を、イトは淡々と話し続ける。

 その語り口に、残酷な話であるにもかかわらず二人は引き込まれた。

 イトは取り立てて感情を表には出さない。もちろんここまでの話でイトが実際に出会ったことがあるのは、重蔵じゅうぞうの長男の多一郎たいちろうだけ。それでも決して他人事ではないはず。それなのに、不思議なほどにイトの表情は、冷たかった。

「それから一〇年以上ですが、多一郎たいちろうは祖母に育てられたそうでございます。重蔵じゅうぞうの父の華平太かへいたの奥方様ですな…………奥方様は早目に家徳かとく多一郎たいちろうに引き継がせようとしたようでして、そのことを親戚一同に承諾を得た昭和一六年…………年の瀬に大東亜だいとうあ戦争が始まりました」

 咲恵さきえが隣の萌江もえに顔を寄せて小声で質問した。

「──なに? 戦争?」

 歴史に興味のない咲恵さきえに対して、歴史に詳しい萌江もえが即答する。

「太平洋戦争のこと」

 それが聞こえたのか聞こえなかったのか、口元に軽く笑みを浮かべたイトが続ける。

「もし…………唯一の世継ぎである多一郎たいちろうが戦争に行って、よもや帰ってこないとなれば…………田上たうえ家の血筋は気の狂った重蔵じゅうぞうだけ…………例え嘘でも後継を見つけなくてはなりません。戸籍を書き換えても養子を取ることまで考えたそうだと、多一郎たいちろうから聞きました…………翌年には多一郎たいちろうは戦場へ…………それでも終戦の昭和二〇年には無事に戻られましたが、その直前に父である重蔵じゅうぞうが亡くなったと聞かされることになります。おかしなものですな…………後を追いように…………多一郎たいちろうの育ての親だった奥方も、自ら命を絶たれたそうでございますよ」

 咲恵さきえは、そう話すイトの姿に、凄みを感じていた。

 萌江もえも、まともではない〝何か〟を感じるが、それが何か見極められないまま。

「無事に血を繋いだ田上たうえ家に私が嫁いだのは……一七の時でした…………二年後に長女が産まれまして、更にその二年後に次女の出産をした直後、長女がなくなりました。病院にいた私は死に目には会えませんで…………詳しくは聞かせてもらえなんだ…………そして二年後に、次女が死にます」

「────もうやめよう、イトさん」

 声を上げたのは萌江もえだった。


 ──…………この子は、誰?


 しかしイトは話を止める気はない。

「いえいえ、面白いのはここからですよ…………」

「────何も面白くないよイトさん」

「その後に子供は出来ませんで────もう時代的に見つけるのは難しくはありましたが、めかけを召し抱えた頃には私もそれなりの年齢でした。すでに昭和も五〇年代だったかと記憶してございますが…………毎度のことで…………めかけの産んだ女の子も二才で亡くなりました。やがて、多一郎たいちろうもやはり気が触れてしまいました。そのまま幽閉です。お察しの通り、あの〝蔵〟でございますよ」


 ──…………誰かが、呼んでる…………


 萌江もえの頭にそんな言葉が浮かんだ直後、咲恵さきえが口を開いた。

「まって……じゃあ浩一こういちさんって…………?」

 すぐにイトが返す。

です…………私が引き取りました。しかし今は……先日見てもらった通りでございますよ…………娘も二才で死にました…………やっと田上たうえ家の〝血〟を浩一こういちさんと娘まで…………まだ呪いは終わってなどおりません…………どうか…………お願いしたく…………」

 イトはそう言うと、二人の前で深々と頭を下げていた。

 直後、咲恵さきえが立ち上がる。


 ──……これは、だめだ…………


 ──…………おかしい……0.1%だ…………


 そう思うのと同時に口を開いていた。

萌江もえ…………今日は帰ったほうがいいよ。一度帰ろう」

 もしかしたら、咲恵さきえの声は僅かに震えていたのかもしれない。

 しかし萌江もえから返ってくる声はあくまで冷静だった。

「そろそろ帰らないと、お店に間に合わないよ咲恵さきえ

「だから────」

「私は残る。まだ帰れない」

萌江もえ!」

 そこにイトの声。

「お帰りの時には…………運転手がお送り致しますよ」

「じゃ、お願いするよイトさん…………もう少し調べたいことがあるからさ」

 萌江もえのその言葉に、イトが不敵な笑みを浮かべた。





 萌江もえは裏山の別邸への小道を歩いていた。

 門の両脇にはまだ盛り塩が残っていたが、そんなものだろうと萌江も思っていた。ある意味、予想通りだった。

 すでにだいぶ陽は傾き、この時期になると空気も冷たい。

 騒々そうぞうしい風が吹いていた。

 そして、左手に握った水晶────〝火の玉〟が熱い。

 萌江もえの頭上を埋める無数の枝が大きくうねる。そのうねりを生む強い風が葉を舞わせる。

 それでも萌江もえは歩く速さを緩めなかった。

 まるで水晶に導かれるように、別邸を目指す。

 この時期の陽の落ち方は早い。歩いている間にも周囲にはしだいに闇が広がっていく。

 やがて目の前に現れた別邸は、異様な空気を纏っていた。それは言葉で表現出来るものではない。


 ──……あの子は…………誰?

 ──……ここにいるの…………?


 萌江もえは玄関の引き戸に手をかけた。

 当然のように鍵がかかったままだ。日頃使用されてはいない建物だ。

 萌江もえは裏口に回った。日曜日に裏の蔵を見た時に、裏口と、そこに鍵が無いことは確認していた。扉には指をかける凹みがあるだけ。不用心というより、古くは珍しくないことだったのだろう。ましてめかけ用に作られた屋敷。めかけというある意味そんな文化が認知されていたにも関わらず、なぜか昔からそれは秘事ひめごとのように隅に置かれていた。

 どうしても、人々は〝隠し事〟を作りたがる。秘密はなぜか気持ちを高揚させる。

 それでも、めかけ秘事ひめごとであると同時に、

 時代だから、ではなく、現在も形を変えて生き残っている〝影〟の世界。


 ──私が何をしても、何も変わらない…………


 いつも萌江もえは、何をするにもそんな考えが消えない。


 ──……でも、が、どこかで私を呼んでる…………


 裏口に手をかけると、背中にはあの蔵を感じた。

 中に浩一こういちがいることも分かっている。

 異常なまでの威圧感。


 ──……知らなければ、ただの蔵…………


 途端に背中が軽くなる。

 萌江もえは恐怖感が作り出す幻影の怖さを知っていた。そしてそれを作り出すのが、自分の想像であることも知っている。

 裏口を開いた。途端に外にあふれるほこり。いかにも息苦しそうな空間がそこにはあった。

 しかし、相変わらず水晶は熱い。

 古い感情が波のように渦巻いて見えた。

 息苦しさの根源がほこりだけとは思えない。


 ──……どこ?


 萌江もえは中に入ると、真っ直ぐ中を進んでいく。

 薄暗かったが、進む方向に迷いはない。

 やがて辿り着いたのは、かなり奥の和室────仏間だった。

 小さな仏壇。

 しかしその仏壇の扉は閉じられたまま。一見すると使われていないから閉じられているようにも見えたが、扉の取手周りだけがほこりが取れているところを見ると、誰かが定期的に訪れていることは想像出来た。

 萌江もえがここに呼ばれたことは疑いようがない。

 手の中の水晶がそれを告げていた。

 萌江もえは仏壇の扉を開ける。

 しかし、そこには位牌も線香立ても無い。

 一体の日本人形があるだけ。

 綺麗な柄の真っ赤な着物はだいぶくすんだ印象にはなっていたが、その華やかさだけは分かった。

 おかっぱの髪の毛はそれほど傷んではいない。

 顔も綺麗なまま。


 ──……生きてる…………


 萌江もえは手を伸ばしていた。

「────やめてっ‼︎ 触ってはダメ‼︎」

 背後からのその大きな声に、萌江もえは伸ばしかけた手を止めた。

 振り返ると、そこにいたのは裕子ゆうこだった。裕子ゆうこふすまに体を預けるように膝をつくと、消え入るようなか細い声で続ける。

「…………その人形には…………絶対に触ってはなりません…………」

 萌江もえは人形に顔を戻すと、口を開いた。

「聞かせてくれる? …………〝あの子〟が私を待ってるの」





           「かなざくらの古屋敷」

    〜 第一部「妖艶の宴」第3話(第一部最終話へつづく) 〜

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