*4-4-2*

 月の無い夜は暗さが一層引き立てられ、より寂しさを感じさせる。

 見上げても暗いばかりで何もない闇。ずっと眺めていると、天地が逆さになったような感覚に囚われ、まるで吸い込まれそうな―― いや、落ちていきそうな錯覚すら抱く。


 イザベルは視線を落とし、自らが手入れを施した花壇に咲き誇る花々を見やった。

 アンヘリック・イーリオン中央庭園より少し外れた花壇。この場所には中央庭園には無い品種の花を植えている。

 理由は明確で、僅かな期間しか花を咲かせないが故に、通年美しい景観を保たせようとする中央庭園に置くには非常に扱いが難しいからだ。

 その代わり、目の前の花壇には自分の好きな花を好きなように植えることが出来る。


 例えば2週間前、大切なあの方に渡した――


 イザベルは花壇の花を見つめながら想いを巡らせていたが、考えることを一旦止めて後ろを振り返る。

 ふいに後ろから足音が近付いてくるような気がしたからだ。

 ライトアップされた花壇とは対照的に、暗闇しかない通路の奥から確かに小さな足音が聞こえる。


 こんな時間にこの場所に?

 一体誰が?


 不審者など存在するはずもないアンヘリック・イーリオンの中ではあるが、月の無い夜が醸し出す妖しい雰囲気にあてられたのか、内心に不安が渦巻いた。


 アムブロシアー? いえ、違う。

 彼らがこのような足音を立てるはずがない。

 では一体……


 足音は徐々に近づき、やがて地面を引きずる程に長い、研究者が羽織るような外衣の裾が視界に入る。

 影だけで見れば、非常に小柄な人物の姿。

 だが、イザベルはその姿が誰のものであるかを瞬時に察すると深々と頭を下げて礼をした。

 小柄な影の主は、彼女をしっかりと視界に捉えて言う。

「そんなに改まる必要はない。ボクは君が思うほどに大層な身分の持ち主でも無いからね。ほら、顔を上げなよ」

 気だるそうな少女の声。それでいてどことなく大人びた雰囲気も感じさせるという不思議な声だ。

 イザベルは緊張のあまり身を強張らせたまま返事をする。

「恐れ多いです、アビガイル様。総統であられるアンジェリカ様直属のテミスの一柱を前にそのようなことは」

「アンジェリカ? あぁ、そうだ。彼女の言葉を借りるとしよう。君も“律儀だね”」

 アビガイルはゆっくりとイザベルに近付きながら言った。

 

 イザベルは心臓が早鐘を打つのを感じずにはいられなかった。

『どうしてここに、テミスの一柱であるアビガイル様が?』

 彼女の言う言葉を聞き入れることが出来ず、緊張のまま顔を伏して礼を続けていると唐突に小さな手が自身の顔に添えられ、持ち上げられた。

 顔を上げられた先には眠たげな瞳でじっとこちらを見据えるアビガイルの姿がある。

 非常に気だるげでやる気の無さそうな視線ではあるのだが、それでも赤い瞳の美しさはこの暗がりでも十分にわかる程であり、間近で初めて見た彼女の容姿の美しさにイザベルは思わず息を呑んだ。

「気まぐれだよ」

 顔を持ち上げまま彼女は言った。

「えっと、あの…… はい?」

「世にも珍しいボクの気まぐれさ。君、今どうしてここにボクが来たのか不思議に思っただろう?」

「はい。貴女様は常に研究室におられる印象が強いものですから、このような場所にお越しになるとは夢にも思わず」

「外の風に当たろうと思ってね。でも中央庭園を一望できるバルコニーには、これまた世にも珍しい組み合わせの先客が2人いたし、邪魔したら申し訳ないと思ってここに来た。

 知っていたんだ。この場所にはアンヘリック・イーリオンの中央庭園にはない品種の花だけが植えられているってね。植物観察するには絶好の場所だろう?」

 アビガイルはそう言うとイザベルの頬に添えた手を下ろした。

「存じて頂いていたことを光栄に思います。ここには私が特に気に入っている花を集めているんです」

「とても綺麗な花じゃないか。特に君の後ろにあるその花、アスターだろ? 中央庭園に植えられた宿根アスターとは違う、純粋なアスターだ」

 イザベルは植えられた花の中でも特に大切に育てた花を名指しされたことに内心で喜び、照れ気味になった表情を隠しながら言う。

「アンジェリカ様にお見せしたくて、春から育てています。宿根アスターより大輪の花を咲かせますし、見た目の美しさと豪華さが目を惹く花です。中央庭園に植えれば鮮やかさが増すとは分かっているのですが、ただアスターは連作を非常に嫌いますから、どうしても中央庭園には植えられなくて」

 話を聞いたアビガイルは何かを考える素振りを見せながら、イザベルの後ろに咲くアスターを凝視して言った。

「同じ場所で咲くことを嫌う花か。宿根アスターはアスター属の花だが、純粋なアスターはカリステフス属の花だという。アンジェリカの姓、カリステファスはアスターの花を示すというが、本当に名は体を表すというか。考えてみればあの人の特徴そのままだな。

 あの人は同じ場所に留まらない。常にどこかをほっつき歩いては騒ぎを起こしている。この同一性は面白い発見だ」


 イザベルは無表情のまま花の観察を続けるアビガイルを見て微笑ましい気持ちになると同時に、目上の存在であるアンジェリカのことを呼び捨てで名指しし、微塵の躊躇もなく“あの人”呼ばわりする様を見て驚愕もした。

 彼女とは初めて言葉を交わすが、他のテミスの3人とは根本的に何かが異なっている。

「あの、アビガイル様……」

「アビーで良い。堅苦しいのは苦手だし、そういうのはアンディーンやシルフィー、それにリカルドだけがやっていればいいと思う」

 話しかけようとしたイザベルを制止しアビガイルは言った。視線はアスターの花をじっと見つめたまま、つぶさに花全体の観察を続けている。

 イザベルが何も言えずにいると、アビガイルが先に口を開いた。

「何か言おうとしていなかったかい? まぁ、良い。それより、いつも連れている犬はどうしたんだい?」

「え? あぁ、バニラのことですね。この時間ですから部屋で眠っています」

「君がいないことに気付いたら探しに出て来るのでは?」

「慣れていると思います。夜に1人でこの花壇に来ることは頻繁にありますから」

 するとアビガイルは花から目を逸らし、唐突に何かを思い出したように言った。

「そうか、今は夜なのか。道理で外が暗いはずだ。研究室に籠り切りだと時間の感覚が狂っていけない。というより、明るいのは苦手だしこれくらいの方が良い」

 イザベルは想像すらしていなかったことを言われ、ついに思わず笑ってしまった。

「あはは、可笑しな方。本当に、テミスの御三方とはまるで違っていらっしゃいます」

「あれと同じにしないでくれ。アンのような威厳は無いから彼女と違うというのは当然として、アンジェリカかぶれの他の2人とは特に同じにしてほしくはない。

 ボクは自分がテミスなどというものの一員である自覚も薄いし、アンジェリカを信仰する気もさらさらない。ただ、テミスに属してさえいれば研究を好きなようにやらせてくれるという、あの人の言葉に釣られてそうなってしまっているというだけのことなんだ」

「それに、思ったよりもよくお話なさいます。もっとこう、口数は少ないお方なのだとばかり」

「あぁ、それだ。どうしてかな? 確かにいつもより口数は多い。シルフィーと一緒にいる時くらいしか喋らないのだけど」

 自分でも理解できないという風に髪をかきあげながらアビガイルは言う。

 目の前で困惑する小さな身体の彼女を見ながら、イザベルは彼女が醸し出す妙な大人っぽい魅力に知らぬ間に惹きこまれていた。

 イザベルが彼女に見惚れていると、再び彼女が先に口を開いて言う。

「ところで、君はどうしてここにいる?」


 言われて初めて、イザベルははっとした。

 そういえば、先ほどアビガイルがここに来た理由を教えてもらいはしたが、自分がここにいる理由は話していなかったからだ。

 アビガイルは続ける。「別に花の手入れをする為だけというわけではないのだろう? かといって、ただ眺めに来たわけでもなさそうだ。今のボクの興味は君の行動がどういった心理状態から生まれたものなのかに向けられている」


 独特な言い回しで言う彼女の問いに何と答えようか迷いはしたものの、イザベルは胸中を隠すことなく話そうと決めた。 

「胸騒ぎがしたのです。いえ、昨夜からずっと思っていました。もうすぐ大きな戦いが始まる。それも共和国近海で。私の好きな方々がどこか遠くへ行ってしまわれるような気がして、じっとしているとそのことばかり考えてしまって……」

 アンディーンやシルフィー、リカルドが相手であったならこのようなことは言わなかっただろう。

 彼女が他のテミスとはまったく違うタイプの人物であるということを知ったからだろうか。それとも、彼女の見た目が自分と同じくらいの年齢に見えるからだろうか。

 いずれにせよこの場で話しておいた方が良いと思えたし、彼女には伝えておくべきだと思えた。

 とめどなく胸中に湧き上がる感情をそのままに口にして続ける。

「争いに関して、私に出来ることはありません。貴女様のような叡智も無ければ、他のテミスの方々のような力もない。出来るとすれば、ただ神様にお祈りをすることくらいのものです」

 短くはあるが、思いの丈を述べるとアビガイルは真っ向から先の言葉を全否定して言った。

「ふむ。実に非現実的、非科学的な行動だ。いや、形無きものにすがる信仰というものは心理状況的には理に適っているのか。しかし、非合理ではある」

 あっけらかんと言い放った彼女は、目の前で困惑する自分のことなどおかまいなしに続ける。

「それに、神への祈りはいただけない。なぜかってアンジェリカは神に嫌われている類の人間だろう? いや、問うまでもない。嫌われている。絶対に。あの人がそういったものに好かれる要素など微塵も無いからね。

 だから願ったところで突き返されるか、真逆の意思を返されるのがオチだろうさ。故に君の行動は根本からして間違っている。

 まぁ、それ以前にボクは神などという存在を根本から信じてはいないのだけれどね」

 その後もぶつぶつと独り言のように言葉を並べる彼女を見て、イザベルは今一度笑わずにはいられなくなった。

「本当に、本当に可笑しな方。でも“貴女と”お話していると不思議と心が軽くなっていくよう」

「良い。ようやく“様”付けが取れたか。そのまま続けてくれないか。堅苦しいのは良くない。心理的側面から来る影響が研究に無駄な影響を与えるのは良くない」

 イザベルの心変わりを見て取ったアビガイルは言うが、その表情には先程までは見られなかった笑みというものがしっかりと湛えられていた。


 このような表情も出来るのか。

 アビガイルの笑みを見たイザベルはやはり彼女に深く惹きこまれていくような、不思議な感覚に見舞われた。

 不意打ちのような笑顔を見せられて固まってしまったままのイザベルに、アビガイルは一呼吸ほど間を空けて言う。

「君、名前は?」

「は、はい。イザベルといいます」

「へぇ、君がそうだったのか。話はシルフィーから時折聞いている。アンジェリカが連れてきた子が非常に素敵だとね。それに良い名前だ。意味は確か、ヘブライ語で〈神を崇拝する〉といった類のものだったか」

「し、シルフィー様が? 私のことを?」

 シルフィーに褒められていたという後の言葉はイザベルの耳に入っていなかった。

「ん? あぁ、君が手入れをする花壇の美しさもさることながら、君という人物そのものが好ましいと言っていたよ。あの人はそういうことに関して嘘を言わない。良かったじゃないか」

 憧れの人から褒められていたという事実を知ったイザベルは、動揺のあまり硬直してしまっていた。

 だが、ここでも彼女の様子に構うことなくアビガイルは言う。

「けれどイザベル、君は根本からして間違っている」

 その言葉にイザベルは浮かれた胸中から我に返った。話をしてくれているアビガイルに申し訳なさを感じつつ、彼女の言葉にそっと耳を傾ける。

 アビガイルは続ける。

「君は先ほど“神に祈りを捧げる”と言ったが、捧げる相手を間違えている。神に君の祈りは必要無い。けれど、今のアンジェリカにとっては君の祈りが必要だろう」

「アンジェリカ様に、私の祈りが?」

「君は、あの人がなぜ君をこの場所へ連れてきたのか考えたことがあるかい?」

「それはもちろん。けれど、納得のいく答えは未だに見つかっていません。両親を失った私がただ可哀そうだったからなのか、それとも別に理由があるのか」

 イザベルが言うと、アビガイルは暗い空に視線を向けて言った。

「仮説だが、アンジェリカの辿って来た人生の一部は君と似たようなところがあるのではないかと思う。そう思うのは、ここに集められた者の境遇というのがそれぞれどこかしらにおいて近しいものばかりだからだ」

「境遇?」

「深入りはしない方が良いだろうね。けれど、これだけは覚えておいて損はない。アンジェリカには君の祈りが必要だ。

 〈神は私の誓い〉〈神を崇拝する〉という君の名が示す〈神〉とはきっと、世間一般的に言及されるそれではない。

 イザベル、君が祈りを手向けるべき相手は彼女自身だ。良いね?」

「私の神様が、あのお方?」

「逆もまた然り。ものの例えに過ぎないから、神というには言い過ぎかもしれない。ただ、ここに集められた者は皆一様にアンジェリカのことを崇め奉る。

 ボクは皆と毛色が違うからね。あの人に限ったことではないけれど、誰かに対して尊敬の念を抱いたことなど一度もない。

 だから、どうして皆がそこまでアンジェリカのことを神のように崇拝するのか気になっていた。これは人間の心理的探究の見地から良い研究になりそうだとね。

 そしてある時、色々な話を聞き、調べて辿り着いた結論が〈それぞれの境遇〉だ。聞いて回れば、どこにでもあるような話だった。

 自身との共通点を多く持つ者に親近感を覚える人間の心理的動作のことを〈類似性の法則〉というらしい。

 アンジェリカが君をここに連れてきたのは偶然ではなく必然だ。言い換えれば、あの人が君という存在を求めたからに他ならない。

 言えば殺されてしまいかねないから言わないが。あの人は無自覚にも、内心で“あるものを”常に欲し続けているのさ。だからこそ、あの人には確実に“君の祈りが必要”だ」


 愛を与えられなかった者

 愛を失った者

 愛を“知らない”者


 アンヘリック・イーリオンに集う者達の共通項を見出したアビガイルは確信をもって言った。

 祈りそのものが他者の役に立つなど非科学的なことを信じることはないが、祈りを捧げる当人や、捧げられた相手の精神状況に与える影響や、それに伴う行動の変化については例外だといえる。

 アビガイルは自分らしくない言葉を言ったと思ったが、彼女の前に立つとどうしてか言わずにはいられなかった。

 シルフィーが常々語り聞かせてくれた人物であるからということも手伝ったのだろうか。

 言い終えた後になって僅かに後悔の念が浮かんだが、そういった思いはイザベルの次の言葉が掻き消した。

「ありがとうございます。確かに、あのお方は消えかけた私の心の火を守ってくださったお方です。アンジェリカ様がいらっしゃらなければ、きっと私は既にこの世に居なかったと思いますから」

「君、死のうと思っていたのかい?」

「ただ漠然とそう思うだけです。事故に遭って、両親を2人とも一度に亡くした私に残されていたものは何もありませんでした。何もないと分かっている現実で生きていく実感も得られなかったというか…… 言葉にはし辛いのですが」

「そうか。ではせっかく続いている人生だ。後悔しないように過ごすと良い。例えば、明日に向けて、ね」

 アビガイルが言うと、イザベルは顔を俯かせて呟く。

「私、怖いんです。この胸にわき上がる恐怖心がただの勘違いであれば良いと思っています。何か起きても、きっとアンジェリカ様が共和国をお守りくださる。信じていますが、それでも――

 だから、ここに来てアスターの花を眺めながら物思いに耽っていました。でも、今の貴女の言葉を聞いて気持ちが楽になりました。

 この気持ちを忘れない為に、ここにあるお花をいくつか摘んで行こうと思います。そして明日は、部屋の中で祈ります。アンジェリカ様の為に」

「君の好きにすると良い。君の人生だ。悔いのない選択はいつだって大事だからね」


 アビガイルはそう言い残すと踵を返して、元来た通路へと引き上げる。

 赤い髪を風に揺らし、地面に外衣の裾を少しばかり引きずりながらゆっくりと。

 外衣の背中にはテミスの一員であることを示すヒュギエイアの杯の紋章が刺繍され、花壇に据えられた照明の黄金の光が、それを仄かに浮かび上がらせるように照らす。


 去り行く彼女の後ろ姿を眺めながらイザベルは深く一礼をして見送る。

 だが、アビガイルはふいに足を止めると振り返ることなく言った。

「そうそう、最初にボクがここを訪れたのは気まぐれであると言ったが、それは嘘だ。ボクも君と同じような胸騒ぎというものを感じている。

 大切な人が、手の届かない遠い場所に行ってしまうのではないかというね。

 第六感などというものが人間には備わっているというが、根拠のないただの迷信であるとボクは思う。けれど、なぜか無視できなかった。

 だからせいぜい祈ろうじゃないか、互いに。明日という日が終わりを告げた時、これまでと変わらぬ日常がここにありますように、と」


 そう告げるとアビガイルは暗い通路の奥へと姿を消した。



 その場に残ったイザベルは顔を再び花壇へと向け、大輪の花を咲かせるアスターを見つめた。

 花言葉は〈追憶〉〈思い出〉といったものがあるが、もうひとつアスター特有の花言葉がある。


〈私の愛は、貴方の愛よりも深い〉


「きっと、大丈夫だよね。悪いことなんて、何も起きたりしない」

 イザベルは呟いてからアスターの花を手に取り、一輪を丁寧に摘み取った。



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