*3-2-5*

 一歩、二歩、お散歩。

 これは勝利の道筋を辿る内の一節のお話に過ぎない。

 足取り軽く、城塞へ続く道を越え、ラオメドン城壁の向こう側へ。

 アンジェリカは満面の笑みを湛え、鼻唄を歌いながらスキップで城壁の門を越えた。


 なんという余韻。

 勝利という栄光をほぼ手中に収めた上で、“あの子達”と相まみえる。

 突きつけるのは現実。机上へ乗せるのは交渉ではなく要求。選択権など存在しない。

 相手はただ〈はい〉か〈YES〉と言えば良い。


 焦がれた。この瞬間を焦がれていた。

 長い長い歴史の中で、自ら多大な労力を割いて手にした勝利。

 ようやく私の、私達の祈りが届き、“願いが叶う”。


 機構を懐柔し、“アレ”を始末すれば何もかもがハッピーエンド。

 望む景色をこの目にするのも時間の問題。


 そのような考えを抱きつつ、るんるんとした足取りで自らが指定した座標へと1人赴いたアンジェリカは、マークתとその“付属のお供”の到着を待ち侘びた。

 今から用があるのはあくまでマークת、そして機構という組織だ。彼ら彼女らに話をすることだけが目的。

 そう、〈世界の破壊、破滅を共に見届けろ〉と。

 この世界の仕組みというものは須らく、一度リセットされるべきなのだ。


 理由?そんなものは決まっている。

 今ここで、この場で自分が勝利という栄光を手にしなければ、この先世界はもっと酷く惨めな道筋を辿った後に静かな終焉を迎えるからだ。

 今後に控える災厄が〈地球が辿った道筋〉などと歴史の教科書に掲載されるなら、戦争で世界国家の全てが滅びたと表記される方がよほどしっくりくるだろう。

 そう言い切って過言ではないほどの“災害”に世界が巻き込まれることは確定しているのだ。しかも、奇しくも聖母の名を持つ1人の少女の手によって。

 万が一、自分達が仕掛けた第三次世界大戦を彼らが乗り越えたとして、この地球に生きる人々に待ち受ける未来とは【機械による世界統治】というディストピアである。

 機構が仲間だと信じて連れ添う〈予言の花〉と、彼女に付き従う神としもべ達の手によってもたらされるのはそういう世界だ。


 私は否定する。

 そのような未来に巻き込まれるくらいなら、あっさり自身の手で世界を終わりまで導いて差し上げた方が良いに決まっている。

 或いは、そのような未来を体験するくらいなら殺されてしまった方がましだ。


 自らの理想を実現し、世界を破壊し破滅に追い込み、人の作った歴史と仕組みを無かったものとするには、この勝負に勝たなくてはならない。

 勝つことで、彼女は自身の抱く理想を諦めざるを得なくなる。


 存在しない世界に咲く予言の花。 

 彼女が予知する未来とは、美しく静かで、美しく穏やかで、“美しく残酷”な世界。

 人の意思による決定が排斥され、ひたすらに“人ならざる神”へ赦しを乞いながら、ただそこに生きるだけの屍となる権利を分け与えて頂くために日常を送るという未来。



 刻印を持つ者には安寧を。

 刻印を持たざる者には混沌を。

“七人の御使い”が世界を滅亡へと導く神の怒りの七つの鉢を傾ける日が訪れる。

 子羊の妻なる花嫁。メギドの丘。

 終わらない連鎖の断絶と事象の再構築。

 変わらない世界の再定義。



 そんな地獄を回避する為に、優しい私達は彼らに選択肢を提供するのだ。

 このまま共に“今の”世界の在り方を終わらせるか、それともこの先で静かに終焉を迎えさせるか。

 何も地球を丸ごと破壊しようという話ではないのだから首を縦に振りさえすれば良い。というよりは、それ以外に道など無い。

 これこそ〈愛〉の成せる御業。

 罪を犯した世界が辿る末路として、罰を受けて人類繁栄の絶頂のまま滅びを迎えるというハッピーエンドの全てだ。


 人類は、これ以上ないほどの栄華を極めたからこそ歴史に終止符を打つに至った、と。


 昨日、シルフィーが言っていた言葉の意味は未だに呑み込めずにいるが、彼女の言う〈本能に従わず、理性に囚われ、欲を見せない人間など人ではない〉というのは真理ではないかと思い始めている。

 

「ふむふむ。シルフィーの言っていたこと、今さら分かった気がするかもー☆……なぁんてね♪」

『それはそうと、脇役のご登場みたいよ』

「おぉー、この時を待った!待ち侘びたぞ、諸君☆」


 とりとめのない思考の果てに、アンジェリカとアンジェリーナは互いに言葉を交わしながらこの場で待つべき人々の到着を見た。

 小さいバスを思わせるような人員輸送車。見るからに、という風貌の車が少し先で停車したのである。


 アンジェリカは城壁の正門前に立ち、周囲を覆う赤い霧を背後に堂々と立って見せて彼らを待ち受ける。

 運転席に座る大柄の男性と視線が合う。確かジョシュア・ブライアン大尉と言っただろうか。マークתを統括する隊長。まだ言葉を交わしたことは無いが、悪い印象は持っていない。

 イングランドの地で、いち早く財団の管理区域の異変と異常に気付いた彼の観察眼はさすがといったところであった。

 任務に忠実、状況判断も的確。そういった情報からどことなくリカルドをイメージさせるからだろうか。

 彼の隣にはよく見知った女性の姿も映る。シルフィーだけは喜ばないだろうが、彼女にも久しぶりの帰還ということで労いの言葉を1つか2つはかけてあげた方が良いだろう。


 そわそわしながら待っていると、後部座席からまず金色赤目のゴシックドレスの少女が降りてきた。

『まぁ、そうなるわよね。降りた瞬間に串刺しにされるとか深読みしちゃってそうだし?』

 不満をはらんだ声色でアンジェリーナがぼやく。


 アンジェリカはただにこにことした笑みを浮かべて彼ら全員が輸送車から降りるのを待った。

 逸る気持ちを抑えて、ただひたすらにずっと。

 マリアが降り立ち、安全を確認した上で全員が地上へと降り立つと、彼らは足並みを揃えてまっすぐにこちらへと歩み寄ってきた。


 さぁ来い。来るがいい。挨拶の準備はばっちりだ。

 しかし、言葉を並べる前に威厳を以て名乗りをあげるべきだろうか。

 長い人生の中で一番格好よく城壁の前に立っているのだから、ここはやはり格好よく……


 などとアンジェリカが考えていると、急に意識が内に引き込まれる感覚が得られた。

『あぁ!あんじぇりーなあんじぇりーな!私が挨拶しようと思ったのにぃ´・・`』

「ごめんなさい、アンジェリカ。でも、油断ならないのが1人いるものだから、ね?我慢して頂戴」

『うぅん……わかった合点だー´・・`でもー、今の私達なら……(以下略』

 渋々と言い、長く不満を述べるアンジェリカに代わって意識を表出させたアンジェリーナは視線をアザミへと定める。喪服のような黒いゴシックロングドレスに身を包み、相も変わらず顔を覆うベール付きのキャペリンハットを被った長身の女。

 人ではない超常の存在。この中で特に注意を向けるとすれば彼女1人に対象を絞るべきだ。

 懸念すべき玲那斗についてはかつての王の力を取り戻す以前に、力の存在そのものを認識していないのだろうから論外として、力を十全に取り戻した今となってはロザリアやアシスタシアの存在なども取るに足らないし、それはイベリスに関しても同じである。

 アルビジアとアイリスの姿が見えないことについては予想通りといったところだろう。


「長い道のりご苦労様。無事辿り着いてくれて嬉しく思うわ。街の様子は見てもらえたかしら?」


 軍服の上に纏うヒュギエイアの紋章が描かれたマントを翻しながら、一行が近付いてきたところでアンジェリカは言った。

 意図的にだろうが、誰もが口を開こうとしない中で真っ先に言葉を返したのはやはりマリアである。

「わざわざ陸路から遠回りさせたのは、やはりそういう目的があったからかい?」

「印象を尋ねたのであって、目的を話す為の問いではなかったのだけれど。まぁ良いわ。言葉を交わすのが初めての輩もいるから改めて言わせてもらうわ。

 私は貴方たち機構が対象Aと呼ぶ者。アンジェリカ・インファンタ・カリステファス。共和国の総統として、国民を代表し歓迎の意を示してあげましょう」

 アンジェリカはジョシュアやルーカスに視線を送り名乗りを上げた。固い決意を抱いた風な視線を向けてくる2人を好ましく思いつつ、ふっと視線をマリアへと向けて続ける。

「この先から要塞正門までは私が案内して差し上げましょう」

「これはこれは、ご丁寧にどうも。総統の地位を頂く者自らご足労とは痛み入る。それとも、共和国は極度の人材不足で他に人手がないのかい?」

「あら?人手なら十分過ぎる程いるのだけれど、もしかして貴方達は気付いていないのかしら?今、自分達の周囲に“何がいるのか”」


 不敵な笑みを浮かべるアンジェリカの言葉を聞き、マークתの一行は一斉に周囲を警戒して視線を配る。

 すると、物陰から黒い霧のような煙を上げつつ唸りを上げる例の兵士の姿が見えた。

「既に知っていると思うけれど、あれの名前は〈アムブロシアー〉と言うの。映像で見たかしら?合衆国最強と名高い特殊部隊を返り討ちにしたあれと同じものよ」

「ギリシャ神話に語られる神々の食べ物。不死を意味する名か。ということは言わずもがな、あれらは君らと同じ性質を持つものということかな」

「確かめてみたら良いんじゃない?その為に犬猿の仲の不死殺しを2人も囲っているのでしょうから」

 アンジェリカが言うと、マリアの後ろからロザリアが言う。

「いいえ、遠慮しておきましょう。無駄な労力をこの場で割くのは避けたいところですもの。それに、長旅で少々疲れておりますの。早く協議の場へ参りましょう」

「協議、協議、ねぇ?私は貴方達と“お話がしたい”とは言ったけれど“協議がしたい”などとは言っていないわよ?交渉なんてもってのほか。あくまでこちらの要求を呑むか呑まないかの話をしたいだけ。以外に目的なんて有りはしないわ」

「では、貴女の居城へ参るまでもありませんわね。今この場で用件をおっしゃったらいかがですの?」

「聞けない相談ね。貴方達には嫌でも要塞まで来てもらうわ。聞けないというなら私がこの場から立ち去るだけのこと」

 すると嫌な気配を悟ったようにマリアが右手を上げ、ロザリアの物言いを制止して言う。

「君が立ち去るとどうなる?」

「知るわけないか。その理由こそ、わざわざ私がこの場まで足を運んだ理由なのだけれど」

「なるほど、つまり“アレ”だ」

 マリアは周囲で地獄の悲鳴のような唸り声を上げるアムブロシアーを指差して言う。

「さすが、とだけ褒めてあげましょう。今、貴方たちからも目視できるこの赤い霧はミュンスターの時とは違う性質を持っているの。この霧は近付いた対象が“最も嫌がるもの”を具現化させて表出する性質を宿しているわ。

 つまり、貴方達の周囲にアムブロシアーがいるということは、貴方達が今この場で“最も遭遇したくないもの”として全員が心象に抱いたものが彼らということになる。

 もし、精神に闇を抱えているような人が近付けば、この霧は貴方達もよく知るウェストファリアの亡霊を顕現させるでしょうね。或いは、ヨタヨタ歩きの怪物とか?

 いずれにせよ、そうして具現化したものは近付いた対象が文字通りに消えてなくなるまであらゆる行動を開始する」

「あらゆる行動とは?」

「敢えて聞くの?要するに殺すっていうことよ。千年を生きる人外は生き残ることが出来るでしょうけれど、マークתの方々におかれましては残念ながらそこで命運が尽きることになるわ。

 でも安心して頂戴。私がこの場にいる限りは彼らが貴方たちに手を出すことは無い。“彼らに対する絶対の命令権”は私と私の腹心であるテミスの構成員のみが有している。

 故に私がこの場にいる限りは安全が保障されているというわけ。繰り返すけれど、〈私がこの場にいる限りは〉ね」


 アンジェリカは言い終えるとくすくすと笑いだした。

 拒否権など存在しない。彼女に従わない限りこの場から進むことも逃げることも叶わない。そういうことだ。

「長旅ついでだ。君が自慢したくてたまらない要塞の中身でも見学させてもらうとしよう。では、案内してくれたまえよ。アンジェリカ」

「なんだか鼻につく物言いだけれど、気分が良いから見逃してあげるわ」

 そう言ってアンジェリカは指を一度弾いた。すると周囲にいたアムブロシアーは霧が晴れるように霧散していき、城壁に設けられた正門を包んでいた赤い霧が晴れ渡った。


「では、改めまして。ようこそ、グラン・エトルアリアス共和国城塞 アンヘリック・イーリオンへ」

 そう言って踵を返したアンジェリカは後ろ手を組みながら悠々とした足取りで巨大な門へと向けて歩き出した。

 マークתや国際連盟の一同も互いの顔を見合わせた後、無言で彼女の後に続く。



 見上げても先が知れないほど高い城壁。

 核の直撃を受けても平然とその場に佇むというデータがプロヴィデンスには示されていたが、真偽のほどは定かではない。

 ただ、それが嘘か真かはさておき、普通の兵器や人間の手で突破できるような代物ではないということだけは間違いない。

 見るものを圧倒し、“これより先に近付くな”という威圧を感じさせる外観。1人で近付いたならば誰もがこの門の前で足が竦んでしまうだろう。

 鋼鉄のような素材ではあるが、何で出来ているのか不明瞭な光を反射する巨大な門には例によってヒュギエイアの杯とネメシスの彫刻が施されている。

 あまり周囲を見ていると気力が削がれそうになる為、陰鬱な空気が支配する重厚な造りの門に脇目を振ることなく一同はそれを潜り抜けた。


 だが、そこで全員が強力な光に視界を奪われるような錯覚を感じすぐに足を止めることとなる。

 光に呑み込まれるかのような眩しさ。一同は思わず目を背けるが、やがて光が終息した後で目の前に広がる光景を見て全員が唖然とした。

 澄み渡る青空と差し込む柔らかな太陽の光の元に聳え立つのは巨大なアンヘリック・イーリオンと呼ばれる城塞。

 西洋の有名な城や大聖堂を模したと思われる複合建築のようでもある。

 高さ数百メートルという圧倒的なスケールを目の前にしたことも驚愕の一因となりえるが、しかし、ここに足を踏み込んだ全員の心を揺さぶったのはまったく別の要因によるものであった。

 玲那斗が思わず言う。

「同じだ。リナリア島で見た、あの景色と同じだ」

 ジョシュアとルーカス、フロリアンが玲那斗へ顔を向ける。

 玲那斗の横に佇むイベリスが目の前に広がる光景を指して言った。

「星の城。リナリア公国の王城。彼の城と雰囲気がとても良く似ている」

 要塞の敷地はとても広大で、敷地直径は確認出来ているだけでおよそ10キロメートルはある。

 巨大さ故に近くに見えるが、遠方に聳え立つ建造物の尖塔には天使の輪が2輪輝き回転し、そのたもととなる敷地庭園には見事な噴水や花壇が美しく据えられている。

 外から見た印象とはまるで異なる風景。軍事拠点であるはずの要塞は、例えるならば“この世の楽園”を映し出したかのような優美さを醸し出していた。

 きちんと手入れの行き届いた庭園の花々は美しく咲き誇る。数か月前に初めて目にしたセルフェイス財団の支部庭園もそれは美しいものであったが、財団の庭園と比較しても圧倒するほどの荘厳さと美麗を兼ね備えているように見える。

 城壁に囲まれているが故に島特有の強風は遮られ、時折上空から吹く優しいそよ風が頬を心地よく撫でては過ぎ去っていく。

 玲那斗やイベリスが目の前の景色に過去の記憶を重ね合わせるように、マリアとロザリアもそれぞれが思うところがあったというような表情を浮かべていた。

 足を止めた一同へと振り返りアンジェリカは言う。

「どう?気に入ってもらえたかしら?貴方達が焦がれた“理想の楽園”の姿はこのようなものではないかと思うのだけれど」


 彼女の力で見せる幻想、幻覚の類か。

 それとも現実の景色なのか。


 一行は目の前に見せられたものと、彼女に対して抱く感情のあまりの乖離から目にしたものを信じられないという気持ちを巡らせていた。

「あら、そんなに厳しい顔をされるのは心外ね。もっと素直に美しい景色を楽しみなさい。貴方達の目の前にあるこれは私の力を使って見せる幻想の類や、CGP637-GGが作り出したような偽りのものではなく、ただ厳然とある“自然の姿”なのよ?」

 ジョシュアが思わず首を横に振った。

 なんてことだと言わんばかりの表情でルーカスも同じ仕草をしている。

「失礼しちゃうわね。数少ないもてなしの代わりにと思って、わざわざこの庭園が楽しめるような道筋で案内しているというのに」

 アンジェリカは楽し気ではあるものの、やや不満そうな表情を見せて言うとくるりと振り返って再び城塞へと歩みを進める。

 後ろをついて歩く一行も信じられないという思いを何とか呑み込んで彼女へ続いた。


 距離にして2キロメートル弱といったところだろうか。

 玲那斗は手元のヘルメスで現在位置を確認しながら、要塞までの道筋を記録していく。


 全員が抱く緊張感や重圧とは異なり、周辺には豊かな自然が栄える中でしか聞くことの出来ない小鳥たちの綺麗なさえずりが響き渡る。

 樹々や草花のさざめきに混ざり耳に届く音は心を落ち着かせる。時折香る自然の香りが非常に心に癒しと安心をもたらしてくれるかのようであった。


 それから少し歩みを進めたところでアンジェリカはふいに足を止めた。

 後ろに続く一行も彼女に合わせて足を止める。

 するとどこからともなく愛らしい表情をした金毛の大型犬が彼女に向って走り寄って来た。

 犬はアンジェリカの手前まで来ると、周囲を一周ぐるりと回ってすぐ目の前で座る。

 間もなく、先から1人の少女がやや息を切らせ気味にアンジェリカに向かって小走りで近寄って来た。

「こーら、バニラ!」

 アンジェリカの傍で嬉しそうに尻尾を振り座り込むゴールデンレトリバーを見やって少女はそう言った。



『こんな場所に女の子?』


 一行の誰もがそう思ったことだろう。同時に、このような考えを巡らせていたに違いない。


『ダメだ!君達は彼女に近付いては!』


 いくらアンヘリック・イーリオンの景色が美しいものであろうと、自分達の目の前を歩く小さな少女は真正の悪魔と言うべき存在だ。

 無邪気で愛らしい見た目とは裏腹に、今でも明らかに異様な気配と異常ともいえる恩讐の念を身に纏ったかのような重圧を放ち続けている。

 それも、ただの人間でも知覚できるほどに、これまでとは比べ物にならないほど強力な気配を。


 必要無く近付く者は例外なく殺される。


 ミクロネシア、イングランド、ドイツの地でそうであったように、おそらくはこの場でも。

 無防備なまま今のアンジェリカに近付くなど自殺行為だ。いてもたってもいられなくなり、ルーカスが走り寄ってきた女の子に向かって手を伸ばし声を出そうとしたその時であった。

 ルーカスは次の瞬間に自身が目にした光景を見てさらに“信じられない”という心象を抱くこととなる。

 アンジェリカに近付いてきた少女は嬉しそうな笑みを湛えて言ったのだ。


「アンジェリカ様、アンジェリカ様、お帰りなさい!」

 満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた少女にアンジェリカは言う。

「あら、イザベルじゃない。貴女もバニラも元気そうね。それで、何か私に用事かしら?」

「はい、庭園のお手入れをしていたのですが、春に種まきしたアスターの花がとても美しく咲いていて。アンジェリカ様にお見せしたくて、そしてぜひお渡ししたくて一輪摘んだのです。後で花瓶に挿しお渡ししようと思っていたのですが、バニラがアンジェリカ様の姿を見つけて走り出してしまって」


 後ろに控える一同は思う。

 アンジェリカという少女はこのようなことに心を動かされるタイプでは決してない。

 必要のないこと、興味のないことには冷酷かつ冷淡であるのが常だ。彼女の興味というのは常に人が人生から転落する瞬間や、死する瞬間といったものに注がれているのだから。

 きっとこの場においても、ふいに現れて目的の邪魔になる彼女と犬を乱雑にあしらうに決まっている。


 だが、そのような一同の思いとは別に、アンジェリカはこれまで誰もが見たことのないような穏やかな笑みを湛えて一輪の花を受け取ると、こう言ったのだ。

「貴女が育てた花、私達にくれるの?ありがとう。凄く綺麗な花ね」

「はい。アンジェリカ様のお名前〈カリステファス〉はアスターを、〈美しき王冠〉を示すと聞き及びました。きっと、アンジェリカ様と同じように美しく可憐な花を咲かせると思い春から育てていたのです。直接お渡しできてよかった!この日を待ちわびておりましたので」

 彼女が言い終えると、アンジェリカは自分の背丈よりも少し身長の高い彼女に手を伸ばして優しく頭を撫でながら言う。

「この花の花言葉は“追憶”だったわね。貴女からもらったこと、忘れないわ。大切に飾りましょう。バニラもきっと貴女の想いを分かった上で私に走り寄ってくれたのでしょうから、後でしっかり褒めてあげなさい」

 そう言って、アンジェリカはバニラと呼ばれる犬の顎下をわさわさと手慣れた様子で撫で上げる。すると犬は目を閉じてとても気持ちよさそうに尾を振った。

 その後に手渡されたアスターの花を自身の服に挿し飾って微笑みながら少女へ言う。

「どう?似合うかしら?」

 アンジェリカが言うと、少女はとても感動したような面持ちで、声を震わせながら言った。

「はい、とても良くお似合いです。アンジェリカ様に喜んで頂けて嬉しいです」

 少女は言った後、マークת一行の方を見やってから言う。

「今は公務の最中だったのでしょうか。大変な失礼をして申し訳ございません」

「いいえ、構わないわよ。また近くに通りがかったら声を掛けてちょうだい」

「もったいなきお言葉。それでは失礼いたします。ほら、バニラ。行くよ」

 深々と頭を下げ、少女は犬と共に元居た庭園の花壇へと走り去ってしまった。


 一体どういうことだ。これは何かの間違いではないか?

 後ろを歩く一行はそのような思いに駆られていた。

 偽りの仮面。本心とはまったく違う言葉を紡いだだけ?

 アンジェリカが1人の人間に対してあのような振る舞いをするなどと。


 唖然とする一行へ振り返り、アンジェリカは言う。

「貴方達、信じられないものを見たという顔をしているわね。今すごく失礼なことを考えているでしょう?そうでなかったとしても、そこにいるヴァチカンの女や、ここにはいない電気娘の中にいるあの子と同じような力を私が持っていること、ゆめ忘れないことね。考えていることが気に障ったら、話をする前にその首飛ばすわよ」

 そう言うとアンジェリカは踵を返して要塞へと向けて再び歩き始めた。


 彼女の言葉を聞き、一同は妙な安心感に包まれた気がした。

 それでこそいつもの彼女の姿である。

 けれど、それでも……

 一同の中でもイベリスは特に複雑な感情を抱いていた。


『アンジェリカ。貴女が求めていたもの、貴女が理想としていたもの、貴女が遠い過去に見たかった景色。これはまるで……』


 イベリスが想いを巡らせ顔を俯けていると、顔のすぐ横に空気の刃が駆け抜けるような風圧を感じた。

 風圧で押しのけられ、思わずよろめく。風が吹いた方へ視線を向けるとかまいたちに裂かれた長い髪が数本、風に舞って散る。

 直後に少し先を歩くアンジェリカが振り返ることなく言った。

「言ったはずよ、イベリス。気に障ったら首を飛ばすと。他人の記憶に首を突っ込んで感傷に浸るよりも先に自分達のこれからでも思案することね」

 アンジェリカはイベリスの返事を聞くこと無く歩き続けた。


 玲那斗がアンジェリカへ何か言うとするが、イベリスが静止して幾度か首を静かに横へ振る。

 こうして一行は巨大な城塞の正門までの道のりを寡黙に歩き続けるのであった。



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