第2節 -凱旋-

*3-2-1*

 艦首が波を切り裂き、これより冥界を訪ねるかの如く暗雲を背負い〈預言の大天使〉は航行していく。

 どれほど明るい太陽が海上を照らそうと、その光は奈落の底から見える遠き果てに浮かぶ“届かぬもの”に見えてしまう。

 誰に目にも気力が見て取れず、進む先に待ち受ける言い知れぬ恐怖の予感にただ怯える。

 光を失いつつある全員の視線の先、空の彼方に映るのは奇怪な力で浮く巨大な戦艦群。圧倒的な力と威容を持つネメシス・アドラスティアとアンティゴネの姿。

 その周囲を飛行する戦闘機カローン。冥界の河、憎悪と悲嘆の渡し守の名を持つ飛翔体に導かれて進むのだから、訪ねる先が“冥府”のように感じられるのも道理というものだ。


 思い思いの朝を過ごした各々の揺れる思いと共鳴するように船体は揺れる。

 多数の機構の隊員、国際連盟の3人、ヴァチカン教皇庁の2人が集うサンダルフォンのブリッジはこれまでと同じか、或いはそれ以上の静寂と緊張感に満ち溢れていた。


「そろそろ、か」


 誰も彼もが重たい口を開こうとしない、緊張の張り詰めたブリッジでマリアが言う。

 時計の針は午前9時を回り、もう間もなくグラン・エトルアリアス共和国の接続水域から領海内へ到着する頃合いだ。

 マリアの一言を皮切りにフランクリンが言う。

「距離にしておよそ10キロ。間もなく共和国領海ですが、相手は何か言ってくるでしょうか?ただ付いて来いと言ったきり通信もありませんが」

「無論。いくら付いて来いと言われているとはいえ、私達が無言のまま彼らの領海に踏み込むのは正規の手順に則ったものではない。形式的なやり取りの代わりにでも、何かしらの行動は起こしてくるだろう」彼の素朴な疑問にマリアは答えた。

「普通に話が出来ると良いのでしょうが、望めない相手だからこそ尚更に不安です」

 マークתを代表してジョシュアが言う。

「皆の不安な気持ちは重々理解しているつもりだ。だが、彼女がこれから何をどうするのか、どうしたいのかという真意は測りかねている。ただ単に私達が邪魔であるというだけなら昨夜の内にこの艦を沈めていただろうし、そうではなかったからといって本当に話し合いをするつもりがあるのかも未知数。出方が分からない以上は黙ったまま静観するしかない」

「詰まるところ“ただひたすらに待つのみ”ですな」

「あぁ。この状況、隣の彼女の言葉を借りて言えば、まさに“神のみぞ知る”といったところだね」

 マリアはフランクへ返事をしながら、横目でロザリアを見やった。

 彼女の物言いを耳にしたロザリアは窘めるように言う。

「不敬ですよ、マリー。それではまるで、あの子が尊ぶべき神と同義であるかのよう。断じて違います」

「とはいえ、アンジェリカは自らの定義をそれに近いものであるとしている節がある。彼女に付き従う共和国の人間も然り。それは彼の国の大統領の演説でも言及されていたことだ。“我々の神とは違う”とね」

 話を聞いていた玲那斗が言う。「君は彼女がそうであると認めているわけでもないんだろう?」

「当然。私も彼女がそのような存在であると認めているわけでは決してない。“アレ”が神であったなら、既にこの世界は〈終わっている〉さ」

 大きな溜息に交えながらマリアは言った。


 しばしの沈黙が流れる。

 この状況で冗談の言い合いを継続できるほどの心の余裕は誰にもなかった。

 ブリッジの後方で、皆が思っていることを代弁するかのようにルーカスが呟く。

「もうすぐだな。領海を越えた瞬間、狙い撃ちされなきゃ良いが……」

「ルーカス、言霊」

 心情を刺激する悪い言葉は慎むべきだといった様子でイベリスが言った。

「いずれにせよ、あと数十秒で答えが分かる」

 いつになく真剣な面持ちでルーカスは言った。


 聞いていたイベリスは、彼がいつものような冗談で先の言葉を放ったのではなく、心の底から湧き上がる不安を思って言ったのだと確信した。

 誰もが口にしたくても出来ない言葉。言ってしまえば幾分か気持ちは楽になるのかもしれないと思いながらも、誰も口に出来なかった言葉だ。


 分かっている。けれども……


 イベリスは彼の言葉を遮った自分の物言いが正しかったのかどうか一瞬迷ったが、そう言わなければ全員の心の内で不安の連鎖が始まる可能性だってあったのである。

 現状、皆の心境がどうであるかや、先の物言いが正しいか正しくないかなどさておき、これ以上考えないように努めることにした。



 サンダルフォンが共和国領海に突入するまで残り20秒を切っていた。

 体感上、果てしなく長い時間が過ぎ去っていく。その時、遥か前方の空を航行するネメシス・アドラスティアが変わった動きを見せる。

 観測を担う隊員が言う。

「ネメシス・アドラスティア、ホログラフィックビーコンを展開。どうやら周囲を飛行するカローンを収容するようです。敵艦より火器管制レーダーの反応無し。本艦に対する攻撃の意思は見受けられません」

「カローン収容と同時にネメシス・アドラスティアより光信号による通信を確認。“貴艦隊に通達。ラファエル級フリゲートは座標軸チャーリーにて停船せよ。サンダルフォンはこのまま我に続け”。指定座標にて入港を許可する。以上です」

 艦隊の動きと光信号を素直に受け取るのであれば、どうやら領海内に侵入することについては何も問題なさそうだ。

 当然ではあるが、アンジェリカの意思が正規の手順を踏むことなどより上位であるということだろう。

 機構艦隊はネメシス・アドラスティアの通信を受けたと同時に、この時点で既に全艦が共和国領海内に侵入していた。

 示された座標軸チャーリーとは領海と接続水域を仕切る線から3キロメートルほど進んだ地点にある。

 フランクリンは停船指示を受けたラファエル級フリゲートに対して指示を順守するよう伝えるため、通信担当の隊員へ言う。

「ラファエル級フリゲート1、2番艦へ通達。座標軸チャーリーにて停船し、以後は新たな指示があるまで状況を継続せよ」

「指示通達。ラファエル級フリゲート1、2番艦、指示通り減速を確認。座標軸チャーリーにて停船します。返信受領。新たな指示があるまで状況を継続。我、貴艦の無事を願う、と」

 声なき祈りに感謝を抱きつつ、状況の推移を確認し終わったフランクリンはふとした考えを巡らせる。


 ここまでは想定通り。何事も起きなかったことは良い。だが、あまりにもやり口が簡素ではないだろうか?


 マリアやジョシュアが言及した通り、一言で語ることの出来る相手ではないし、何かするにしても一筋縄でいく相手でもない。あらゆる意味で思案しても、このようなやり取りだけで全てが終わるとは考えにくい。

 良く言っても悪く言っても拍子抜けといったところである。

「やはり本艦のみを誘導する為の罠、という線は?」

 思わず口に出して言う。誰にというわけでもなく放ってしまった言葉だが、都合よく隣に立ってくれているマリアが言葉を汲んでくれた。

「考え過ぎだね。アンジェリカはあぁ見えて根は真面目だ。自身が“こうする”と決めて命令したことは絶対順守なのさ。もし仮に、罠であるなら彼女は“罠だ”と先に言う。

 悪い趣味だが、そのように相手の心理を不安に陥れた上で反応を楽しむのが常だからね。言い換えれば、そういう律儀さが彼女の数少ない取柄といったところだと思うよ」

 意外にも、フランクリンの抱いた不安をマリアは一蹴した。アンジェリカについて、信用に足る部分と信用できない部分が明確に区別できるという判断基準が彼女には分かるらしい。


 だが、ほっとしたのも束の間。次の瞬間にはブリッジの緊張を一気に高める声がスピーカーから響き渡った。

『それって、私のこと褒めてるぅ?それともけなしてるのかなぁ?うぅん。絶対後者だよね~?´・・`だって、趣味悪いって言ってたし?』

「なんだ、聞いていたのか。いずれにせよ私の君に対する率直な評価だ。あとは君の受け取りたいように受け取りたまえよ」不敵な笑みを浮かべてマリアは言った。

 直後、雑音とノイズがブリッジの全モニターに走った後、敵艦の艦長席に足組して座るアンジェリカの姿が映し出された。

 彼女も彼女で満面の笑みを浮かべて楽し気に言う。

『君達ぃ、私の機嫌ひとつで海の藻屑ぅってことが頭から飛んでるとみた☆だがしかし!佳い、赦す☆なぜなら君達相手に初めて勝利の栄光を手にし、凱旋する私の機嫌はすこぶる良いのだから!にゃははは☆ほらほら頭が高い!かしずきたまえよ諸君♪特に赤い目の君ぃ☆』

 マリアの口調を少し真似しつつ、機嫌良く言うアンジェリカの言葉をほとんど無視してマリアは返事をする。

「おはよう、アンジェリカ。随分ともったいぶった登場だったね?存外に遅かったじゃないか。遅すぎてかえって不安になった」

『スルー?相も変わらず辛辣ぅ~´・・`。どうする?ミサイル1本撃ち込んどく?』

「やめたまえ、朝からうるさいのは勘弁だ。それより、いつまでも姿を見せないからてっきり、らしくもない光信号だけの簡素なやり取りで終わらせるつもりかと思っていたよ。

 目立ちたがり屋の君のことだ。もっと早く騒々しい挨拶をしてくるものとばかり考えていたからね?」


 マリアが言い終えた瞬間、モニター越しに映るアンジェリカの雰囲気が明らかに変化したのを誰もが感じ取った。

 無邪気で愛らしい様子から一変し、禍々しい殺気を放つアンジェリカは大きな溜息を漏らしつつ蔑みを湛えた表情で言う。

『少し考え事をする時間が必要だっただけのことよ。肉体を維持したまま長い時を過ごした貴女なら分かるでしょう?もとい。考え事とはそう、貴女達の処遇について、ね?今、貴女達の命運は全て私達が決定権を有している。実に楽しい悩み事だわ。高鳴ってしまいそうほどに』

「恐ろしいねぇ。実に恐ろしいことだ。それで?私達をどうしたいのかな」

『言ったでしょう?少しお話がしたいだけよ。直接顔を突き合わせてね』

「それは私達全員とかい?それとも、特定個人に対してかな?」

『深く話をしたい個人もいるけれど、それはまた“別の機会”があるだろうから今は求めていないわ』

 そういってアンジェリカは蔑みの表情の中に笑みを浮かべた。


 アンジェリカが言葉を言い終えた後、フロリアンは彼女の視線が一瞬自身に向けられたのを見逃さなかった。

 今話をしているのはアンジェリーナの人格に違いない。そう、ミュンスターで直接自分と言葉を交わした方のアンジェリカだ。

 あの一件によって、どういうわけかアンジェリーナからはかなり警戒を強められたように感じている。

 数か月前の彼女は自らの危険を顧みず、突発的な思い立ちと見られる策を練って殺そうとするほどには自分に執着していた。

 しかし、実際のところは自分をロザリアとアシスタシアから引き離すことに成功し、いつでも殺せたはずであるのに、どういうわけか殺す瞬間になると躊躇しているという不思議な具合であったこともよく覚えている。


 思い返すだけで背筋が寒くなる。

 彼女が躊躇を示したからこそ助かったとも言えるのだが、それ以上に“明確な殺意を抱いて殺しにかかってきた”という事実は消えることが無い。


 彼女の言う通り、そう遠くない先に“別の機会”というものが訪れるのかもしれない。直感がそう告げているだけだが、なぜか確信めいたものも感じている。

 かもしれないとは自分が思うだけで、アンジェリカの中では“確定した未来”となっている可能性すらあるのだ。

 あとひとつ。彼女が自身から目を逸らした後に、公国の王と王妃の2人へ視線を向けていたことも印象的であった。

 マリアの言う特定個人とは公国絡みの2人を指すのだろうが、アンジェリカの言う“深く話をしたい個人”とは自分を指すのかもしれない。

 機会がすぐに訪れるのか、まだ先であるかは不明だが、ある種の覚悟はしておくべきなのだろう。

 予感めいたものを感じたフロリアンは静かに息を整え、自身の中で彼女と再び相まみえるときが来ることを想像した。


 言葉の間に少しの沈黙があり、再び小さな溜め息を漏らしてつまらなさそうにアンジェリカが言う。

『ところで、腹の探り合いみたいな話も些か退屈ね。せっかく私達が栄光を掴む手前だというのに、これではその機運も削がれて酔いも冷めてしまうというもの。話を変えましょう。マリー、貴女何か私に聞きたいことがあるのではなくて?』

 相も変わらず蔑む視線を送りつつ言うアンジェリカを、マリアは意に介することなく言った。

「よく分かったね?君の持つ力では私の心情を探るなど出来ないはずだし、であれば私の顔にでもそう書いてあったのかな」

『ある意味ではそうね。マリア、貴女自身がどう捉えているかはさておき、“分からないことがあるという状況が許せない”という、そんな貴女らしい分かりやすさがあるのよ。

 貴女が聞きたいこととはそう。差し詰め、この船が一体どこから出てきたのかということが知りたいのではなくて?

 国連軍艦隊を沈め、貴方達の前に姿を現すまで、共和国からこのような巨大な艦船が3隻も発進する様子は衛星に捉えられていないでしょうから』

「ご明察。実に話の早いことだ。私の興味を的確に汲んでくれて感謝しよう。それともあれかい?私が知りたいはずだと察したから話すというよりは、実はその種明かしを語りたくて仕方がないのかい?」

『安い挑発ね。けれどその意見、あながち的外れでも無いのよ?何せ、それを実現させる為に私達は過去数十年にも渡って多大な力のリソースをあるものに割いていたのだから。そろそろ全てを白日の下に晒して元に戻りたいと思っているの』

「故に話す、か。良いだろう。では改めて問おう。その3隻の巨大な艦船は一体いつ、どこから出てきたのか。それを教えて欲しい」

 マリアが問うと、モニターの向こう側で満足したとでも言いたげな表情を見せてアンジェリカは言う。

『私の口から言葉で種明かしをするのも良いのだけれど、その前にせっかくここまで来たのだから“現実”を見てもらった方が早いわね』

 そうしてゆっくりと左手を持ち上げると中指と親指を合わせ、勢いよくぱちんっと弾いた。


 その瞬間、アンジェリカのアスターヒュー色の瞳が怪しげな光を放つ。さらにモニター越しでからでもわかる、先程までとはまるで異なる気配を纏ったかのような印象を全員に抱かせた。

 端的に言葉にすればそう。圧倒的なまでの重圧感と威圧感。

 1人の幼い姿をした少女から放たれる類のものでは決して有り得ない、“この世全ての憎悪と怨嗟”をその身に宿しているかのような狂気を今のアンジェリカは纏っている。

 ただでさえ重苦しかった空気が、さらに重力を増したかのようにのしかかる。胸を潰されるように圧迫され、呼吸も苦しい。

 彼女が指を弾いたと同時に、通信を担当する隊員達が皆一様に震える声で言う。

「前方、グラン・エトルアリアス共和国中央にこれまで確認されていなかった巨大建造物の出現を確認。プロヴィデンスによるデータベース照合、一致する該当データが存在します。データ参照。グラン・エトルアリアス要塞-アンヘリック・イーリオン-と確認」

「監視衛星よりデータ受信。共和国の中央に直径10キロメートルの範囲。これまで存在が確認できなかった建造物の出現を明確に捉えています。拡大映像により、前方に視認しているアンヘリック・イーリオンそのものであると断定」


 サンダルフォンのブリッジより見える水平線の彼方。

 今は既に共和国の国土が明確に視認できるその先に、高さ500メートルはあるだろう巨大な建造物と、周囲を取り囲む城壁らしきものがある。

 遠い彼方からでもはっきりと視認できる。摩天楼と呼ぶにふさわしい威容。

 城壁の向こう側に見える尖塔群やアーチ天井は西洋の城塞や大聖堂、そこに軍事基地を組み合わせたような見た目を有しており、要塞を見ただけでグラン・エトルアリアス共和国がどれほど優れた先進技術を保持しているのかが誰の目からみても理解できる佇まいだ。

 或いは、この国が世界においてどれほどの異端であるかを示すかの如くである。

 城塞外周に聳え立つ堅牢そうな城壁のさらに周辺には僅かに赤く霞がかった靄が漂う。

 既にミュンスターでの知見を得ている一同には、それが例の“赤い霧”が人の目で視認できるようになったものであると理解出来た。

 データ解析班がモニターに表示するデータには、要塞外周を囲う壁を指して“ラオメドン城壁”との登録があり、そのデータ中では〈核ミサイルによる直接攻撃にも耐える堅牢性を保持〉との記載が垣間見える。

 また試験データとして、深夜に太平洋上で炸裂した核ミサイル、ヘリオス・ランプスィの前身となる小型爆弾での耐久テストが行われたという結果も添えられていた。


 隊員達が口々に言う言葉を一通り聞き終え、表示されたデータと現実に目の前に現れたものに対し、理解を拒むといった様子を見せる一同を見てアンジェリカは嘲笑を湛えて言う。

『詳細な解説ご苦労様。説明の手間が省けたわ。補足するならまず第一の回答として、私達が乗る艦船が“どこから出てきたのか”の答えは今貴方達の目の前にある。

 ラオメドン城壁の内にある我らの愛すべき居城、要塞アンヘリック・イーリオン。これから貴方達をあそこに招待してあげるわ。光栄に思いなさい?』

 クスクスと笑いながら言うアンジェリカを見てマリアが言う。

「なるほど。共和国中央にあった不自然な円形の空き地。以前から何かあるのではないかと思っていたが、よもやこのようなものが隠されていようとはね」

『遠い遠い昔に建設を開始し、その直後から今に至るまで隠し通すのに苦労したんだから。私の持つ力のリソースの60パーセントを割き、絶対の法による隠匿を使って守り続けたものこそがこの城塞。ようやくお披露目することが出来てすっきりしたわ。どう?驚いてくれた?』

「城塞に関して言えば、“それなりには”」

『貴女の悪い癖よ、マリア。素直に驚いたと言いなさい?』

 楽し気な笑みを浮かべてアンジェリカは嗤った。


 この会話をマリアの傍で聞いていたアザミは考える。

 マリアは何も彼女が見せた光景に驚いていないわけではない。本当の意味で驚いたのは別の言葉についてだ。

 驚いたというのは城塞に関してではなく、むしろ彼女が言った〈力の60パーセントを割いて隠匿してきた〉という言葉の方だろう。


 思い起こしてミュンスターの地で、ヴィルヘルム大学構内の一室において彼女と対峙し刃を交えたわけであるが、その時に抱いた感想とは〈それなりの脅威である〉という認識であった。だが、今となってはその認識を改めなければならない。

 あの時の彼女はアンジェリカとアンジェリーナという2つの人格がそれぞれに身体をもって分かれて行動していたはずだ。

 だとすれば、単純に考えるなら残り4割の力をさらに等分にした、おそらく2割程度の力でしか自分達と対峙していなかったことになる。

 そうした趣旨の内容が今明かされたのだから驚愕以外の何物でもない。


 彼女が言う通り、アンジェリカとアンジェリーナが一体となり、さらに城塞隠匿の為のリソースを全て回収した現況は文字通り〈元の状態に戻った〉のだろう。

 今この場を支配している重厚な殺気、怨嗟の声が聞こえてきそうな程の重圧からも間違いない。

 思うに、リナリア公国を出自とする者達を全員集めたところで、彼女1人に太刀打ちできるのかすら怪しいといったところ。

 この状況下では目の前に現れた要塞に対する懸念より、アンジェリカ1人が誰の手に負えない化物であったことが明かされてしまったことの方がよほど深刻である。――源流が元々神威の一柱である自分を除いては、という注釈付きとなるが。



 黙々と状況の深刻さと対処法について思案するアザミの隣で、ふいにマリアは言う。

「では言おう。驚いたよ。まさか君がこれまでただの1度も本気で私達と相対していなかったとはね。城塞そのものより、君がここに至るまでずっと遊び感覚程度の力でしか働いていなかったということの方が私達にとっては重大だ」

 マリアの言葉は、つい先程アザミが考えを巡らせたものと同義であった。

 アンジェリカは表情を変えることなく言う。

『あの時、殺しておけば良かった……なんて今さら言っても遅いわよ?ただ、その言葉を手向けるなら貴女の近くにいる司教様とその連れに対して言うべきなのでしょうけれど。ミュンスターでは私を葬ることは不可能だったわけだけれど、南の島ではそうではなかった。

 残念ね?ミクロネシアでのあの瞬間が、世界の命運を覆す唯一にして最後の機会だったというのに』

 鋭い視線を向けられたロザリアは落ち着いた様子で言う。

「あの瞬間が唯一?いいえ、わたくしは特にそのようには考えていませんわ。それに、あの時の判断の正誤がどちらであったのかが分かるのは、今よりまだ先になるのでしょうから。選択に対する審判を受けるのであれば、その際にでも」

 このロザリアの言葉を聞いてすぐに反応を示したのは意外にもマリアであった。

「誤りであったと断じたいところだね。君が素直に止めを刺しておけば、そもそも第三次世界大戦など始まらなかったのだから」

 それを予期していたかのようにロザリアはマリアへ視線だけを向けて返す。

「どうでしょうね。目に見えるものが全てではないとおっしゃっているのは、いつも貴女が連れているあの子の言葉ですわよ。頭がいなくなったからといって、共和国そのものが消えるわけではありませんもの」

 2人のやり取りをモニター越しに眺めながらアンジェリカは言う。

『あら?早くも仲間割れかしら?それはそれで愉快なことだから止めたりはしないけれど、この状況をどう見るか。せっかくだから王妃様と第二王妃様の意見も聞きたいところね』

 指名を受けてイベリスが言った。

「積もる話は後でしましょう。アンジェリカ。今この場において言うべきことは無いわ」

 アンジェリカが視線をアルビジアへと向けるが、アルビジアは右に同じくといった様子で無言を貫いた。

『そう。2人がそう言うのなら国王様に意見を問うても同じ結論でしょうね。状況を乱さぬ為に、余計なことは言わないといったところかしら。美しき組織の鏡。やっぱり退屈だわ』

 ふわふわの椅子の背もたれに身を沈め、無造作に足を投げ出してアンジェリカは続ける。

『良いわ。質問に対する種明かしも終えたことだし、これからのことについて話しましょう。サンダルフォンは指定された港へ接舷、到着次第、こちらから指定する人員だけを今から送る座標へ寄こしなさい。これ以上の話の続き、お楽しみはその後ということで』

 変わらずの見下すような視線をモニター越しに送り、舌なめずりをしながらアンジェリカはそう言い残すと、特に何か言うこともなく一方的に通信を遮断した。

 直後、ネメシス・アドラスティアから指定された座標のデータが送られてきた。


 示された座標を確認してジョシュアが言う。

「共和国の中央付近。この距離の移動となるとFFの用意が必要だ」

「はい。しかし隊長。くどいようですが、罠という線はないでしょうか」

 不安を隠し切れない様子でルーカスが言う。だが、その言葉を引き取って諭すようにマリアが言った。

「准尉、案ずることはない。彼女は律儀だと言っただろう?浮かれている彼女は自慢ついでに、今は要塞の中身を私達に見せたくてたまらないはずだ。故に、指定された座標に出向いた直後に殺されるなどという心配をする必要はないよ」

 彼女が予言の力を持つということはイベリスから聞かされている。そんな彼女の言葉を聞けば、それ以上に内心で不安を掻き立てる必要もない。

 それにマリアという人物は、自身の仲間であるフロリアンが大切に想い信じている人物でもあるのだ。

 ルーカスは後に続く言葉を呑み込み、マリアの言葉を信じて受け入れることにした。


 敵艦より示された座標と同時に、付随して送られてきた情報を見てフランクリンはジョシュアへ言う。

「あちらの要求は貴官らマークת。そして国際連盟、及びヴァチカン教皇庁の者を寄越すことだ。名前こそ示されていないが、誰が向かうべきかを論じる必要もあるまい。後の指揮は貴官に任せるぞ。ブライアン大尉」

「は、承知しています」

 フランクリンの指示にジョシュアは敬礼をしながら答える。

 だが、それを横目にマリアは言う。

「その人員についてだが、ひとつ良いかい?」

「何なりと」フランクリンはマリアへ顔を向けて言った。

「要求には国際連盟の3名とあるが、内1人はこの艦にて待機してもらおうと思う。もちろん、今この場にいない彼女についてだ」

「マリー、貴女に聞こうと思っていたのだけれど、アイリスはやはりまだ……」

 心配そうな面持ちでイベリスが言う。深夜に垣間見た景色、流れ込んできた怨嗟と絶望の声を自身の中で消化しきれていないのではないかという不安だ。

 だが、マリアはきっぱりと否定して言う。

「そういうわけではない。あの子は強い。既に心の問題は解消しているはずだよ。問題は、私達全員があの要塞に向かうことで、いざというときに“この艦と乗組員を守ることの出来る人員が誰もいなくなる”ということだ。懸念を示すべきはその1点に尽きる。

 それに、あの子は国連の純粋たる一員というわけでもない。現状はただ学問を修めるためにスイスへ留学してきているだけの学生なのだからね。明確に名が示されていない以上、数から外してしまったとしてアンジェリカは何も言わないだろう。

 繰り返すが彼女はあぁ見えて根は真面目で律儀な娘だ。どうしても呼び付けたいのであれば明確に名を記すはずだよ」

 彼女の言葉を受けてアルビジアが言う。

「それなら、私もここに残ります。政治的な話で、皆の力になれるとは思えないから」

 アルビジアはさりげなくジョシュアに目配せをして、許可をしてほしいという暗黙のメッセージを送った。

 しかし、ジョシュアが判断を下すよりも前にマリアが独断にてアルビジアの意見を受け入れて言う。

「マークתについても名が記されているわけではないし、好きにすると良い。構わないね?ブライアン大尉」

「理に適った判断でしょう」

 ブライアンは賛同の意を示した。マリアはアルビジアへ顔を向けて言う。

「決まりだ。それとアイリスのこと、頼んだよ」

「もちろん」

 マリアとアルビジアが言葉を交わし終えた直後、これまで沈黙を貫いてきたアンディーンが言う。

「あの、私も指定座標へ同行させてください」

 全員の注目がアンディーンに集まる。

「共和国の起こした事件。祖国の道を行くのであれば、皆さんのお力になれます。指定された場所までの順路は承知していますし、道中は私が案内しますので」

 並々ならぬ決意に満ちた目で訴えかける彼女を見やり、しかし冷ややかな視線を浴びせながらマリアが言う。

「指定された場所までの順路ね。ということは、城塞があそこに存在するということも知っていたのかい?」

 この言葉にアンディーンは声を詰まらせた。

 しかし、気にする風でも無くマリアは言う。

「結構だ。では協力を頼もう。“マックバロン”准尉殿?」

 マリアの厳しい物言いにルーカスが一言物申したげな素振りを見せたが、すぐに玲那斗が制止する。

 マリアもそのことに気付いたようだったが、玲那斗の制止を受け渋々といった様子で引き下がるルーカスを見て何かを言うことはなかった。

 反対側ではロザリアが沈黙を貫き、深夜にアンディーンを問い詰めたはずのアシスタシアも主と同じく無言のまま佇む。

 明らかに自身に疑心が向けられていることを感じつつ、アンディーンは今出来る精一杯の返事をした。

「ありがとうございます」


 話の内容が煮詰まったところでフランクリンが言う。

「間もなくグラン・エトルアリアス共和国側が指定した湾港へ接舷する。マークתはすぐに指定座標へ向かう準備を。それ以外の隊員は本艦にて待機。常に動けるよう準備を怠らないように。ヴァルヴェルデ特務准尉は彼女と共にこの艦の守りを頼む」

 フランクリンの指示を受け、全員が起立して彼へ向き直り、無言のまま敬礼をした。


 ブリッジの有効視界の先では、ネメシス・アドラスティアとアンティゴネがそれぞれアンヘリック・イーリオンへの着陸の為、内部へと降下していく様子が見て取れる。


 国連軍 第8空母打撃群という多大な犠牲を払ってここまで来た。

 共和国、ひいてはアンジェリカとの直接対話。交渉。

 セントラル1のシークレットルームで行った協議の核心となる状況がいよいよ訪れようとしている。


 マークתの一同は不安を拭えないという表情ではあるが、覚悟を決めた面持ちで、ホログラフィックビーコンを辿り城塞に降下していくネメシス・アドラスティアの姿を見つめた。

 先に待ち受けるものが何であったとしても、怯まず進み、良い結果を掴み取らなければならない。


 世界数十億人の人命を左右する交渉へと向かう道筋が、ここに示された。



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