*3-1-2*
核融合エンジンが灯すスラスターの火。
無限にも近い膨大なエネルギーの供給を受け、稼働を続ける機関部から伝わる微弱な振動は非常に心地良い。
航行軌道補正の為にバーニアが噴射される度に発せられる重低音が子守歌のように響く。
義憤の女神ネメシス。
女神の名を冠し、人の罪を天上より裁くために生み出された空中戦艦。ネメシス・アドラスティア。
その戦艦のブリッジで、アンジェリカはふわふわに仕立てられた艦長席に座したまま静かな眠りの時を過ごす。
絶対の法や付随する異能により、存在としてはもはや人間とは言うにふさわしくない化物へと成り果てているとはいえ、幼い体そのものについてだけは人間のままに違いはない。
ほんの僅かな時間であっても“睡眠をとる必要がある”ことが、彼女を未だに“人間足らしめている”側面のひとつである。
浅い眠りの中、彼女は夢を見ていた。
それは遠い遠い昔の記憶。しかして、彼女にとっては非常に近くて遠い記憶だ。
景色は赤黒く染まり、視界はやがて黒煙で満たされる。
あの“美しい景色”の中で感じていた絶望が今さらに蘇る。
アンジェリカは微睡の中で自己意識を巡らせて思った。
遠き過去、私は何を思っていたわけでもなかったはずなのに。
どうして、今頃になってこんな昔の記憶が頭に浮かんでくるのだろうか。
どうして、私は……“あの人”のことを思い出すのだろうか。
*
西暦1747年の暮れ イングランド南部 ロンドンにて。
夢の中で、当時自らが過ごしていた建造物は激しく燃え上がっていた。
十三世紀に建設された世界最古の精神病棟。ベドラムという名で広く知られる建物は、私の目の前で一時代の終わりを告げるかのように赤黒い炎を纏い黒煙を噴き上げる。
王立ベツレヘム病院。悪名高きこの病院が精神病棟としての側面を持ち始めたのは十四世紀に入ってからのことであった。
小さな修道院であったはずの建物は、いつしか病院という立ち位置に姿を変え、数名の精神病患者を収容することで“世界最古の精神病棟”という性質を持つことになったのである。
ベドラムが悪名であった理由は単純だ。
貴族たちが1人1ペニーを支払う。そうすることで収容された精神患者たち、当時の言葉を借りれば“狂人たち”の奇妙な行動を観察できるという仕組みが存在したのである。
精神疾患を持つ患者を見世物にする。
十八世紀に至るまで、連綿と続くこととなる悪辣な風習を持ったこの病院に収容された患者リストの中に自分の名もあった。
解離性同一性障害による多重人格の形成。当時は誰一人としてそのような障害が存在するなど考えてもいなかったのかもしれない。
多重形成された人格を高度に分体化し、共有された意思を持ちながら生きる。見た目麗しい女の存在は、当時の貴族たちの興味を惹く格好の的であり、果ては慰みの見世物としてはこれ以上ないほどに最適な出し物であったのだろう。
狂気に憑りつかれたかのように暴れる患者たちに暴行を加える、或いは杖で殴ってそのような興奮状態を意図的に引き起こさせる。
その為の杖の持ち込みが当時、院内では許可されていた。
そんな仕組みの中に置かれた自分も、他の患者たちと同様に暴行を受ける日々を送ったのである。
『あぁ、懐かしい景色。数か月前、イングランドに訪れた時に久しぶりに空気を感じたからかな?全てを失くして、全てを亡くして、全てに意味を見出せなかった。私達が迷いの末に辿り着いた場所』
救世主の生まれたと言われる街の名を冠した建物。久々に王立ベツレヘム病院の姿を夢に見たアンジェリカはそのように思った。
なぜ今さらこのような夢を見るのか。まったくもって理解に苦しむが、目の前に広がる景色は間違いなくあの日あの時、自らが目にしたもので間違いは無かった。
夢ではなく過去に起きた現実の追想。正確に言えばそうだ。
いや……自らが目にしたものというよりは――
自らの手で“そのようにした”のである。
生きる意味。罪と罰から成る存在意義を奪われて幾星霜。
誰も彼もが自分達の価値を認めず、自分達の在り方を認めず、恐れおののき、化物だといって蔑んだ。
終わりのない命。永劫に続く人生の中で生きる目的を失っていた当時の自分達は、当時を生きた人間達からどのように扱われようと、もはやどうでも良いと思っていた。
狂人見物に精を出す貴族たち――私達から見れば、彼らの方が自分達よりよほど狂人に映ったものだが――の容赦ない罵声と嘲笑、暴行に晒されることが“当たり前の日常”と化していた時代のことだ。
どうやっても死ぬことの出来ない体というのは人の精神をどこまでも蝕んでいく。
アンジェリカたる自分にとって、あの頃の生きる目的とは即ち、さらに遠い昔に自らに光を見せてくれたアンジェリーナの優しさに報いたいというただそれだけであった。
アンジェリーナたる自分にとって、あの頃の生きる目的とは即ち、アンジェリカを守りたいという意思によるものだけであった。
存在を保ち、肉体を保ち、内在する互いと共に日々を生きることが出来ればそれだけで満足であった。
他には何もいらない。他に必要なものなどなにもない。
両親も友人も、故郷もみんなみんな。
愛などというものは特に。
自らにとって〈愛〉とは得るものではなく、犯した罪の対価として与える罰を示す言葉である。
罪による報酬は死である。絶対の法だ。
だが、そのような概念もこの時は既にどうでも良いと思っていた。
Two as One.〈2人で1つ〉
アンジェリカとアンジェリーナという自分達の存在が有り続ければ良かったのだ。
時には興奮を求める英国紳士の要望に応えて、他の精神患者を相手に暴れてみせるなどという凶行を演じてみせたこともある。
自らが望んで凶行を働いたこともあったが、行為の中にはもちろん、自分に襲い掛かろうとした他の患者を“落ち着かせる為”の時もあった。
とは言いつつ、これらの行為は純粋に自衛や貴族の要望に応えるというよりは、時折無性に耐えがたくなる“罰を与えたい”という自らの強迫衝動を抑える為の行動でもあったのだが。
罪には罰を。愛を与えなければならない。
罪による報酬は死である。絶対の法だ。
自分の中で本能のように湧き上がる激情を抑える為に必要な行為。無性に誰かを傷付け、嬲りたくなる衝動。
悲鳴が、絶叫が、嗚咽が私の心を満たしていく。翻って、それを聞かなければどうにも満たされない時があった。
小さく華奢な体の少女がまるで獣のように、自身の倍以上の大きさはある人間を力だけでねじ伏せる様は“あの貴族たち”にとっては非常に愉快なものに映ったことだろう。
見学に訪れる貴族の数は月日を追うごとに多くなっていき、特に施設が無料開放される第一火曜日には貴族たちはこぞって自分を見学しに来ていたように思う。
耐えがたい衝動を他の患者を傷付けることで何とか抑え込んでいたものの、それでも満足できない時は矛先を貴族たちに向けようとしたこともあった。
痛みとは、人に生の実感を与えるものである。故に、彼らが享楽の為、生きる為の快楽を得たいと望むのであれば、それを与えてあげるのもまた道理だと考えた。
だが、彼らは狂気の視線を向けるだけで一様に後ずさりし、自分の元から散るように逃げ出していった。
記憶の中に鮮明に残っている。臆病者め。他者を傷付ける癖に、自らが傷付くことを恐れるとはとんだ愚者の集まりだ。
私は耐えがたい殺戮衝動を抑えつつ、そして息を切らせながら立ち上がり、何とか彼らに近付いてはみるものの結局は冷たい鉄格子に阻まれ、追うことは許されない。
衝動に襲われた後、満足することなく火照った精神と身体を鎮める為には、近くにいる患者を死なない程度に痛めつけるという蛮行に及ぶしか無かった。
その時だけが唯一、〈生きている〉という実感を得られたものだ。
悲鳴、絶叫、嗚咽。絶え間なく響く地獄の賛歌。
私の心を躍らせる、唯一の音。
しかしある日、そうした蛮行の繰り返しが重く見られたのか、自分だけに個室――という名の独房――が与えられることになった。
冷え込みの強い深夜、頭に麻袋を被せられた私は、体に鎖を巻かれた上で鋼鉄の錠を両手に繋がれ“新居”へ移動した。
足の裏から伝わる猛烈な冷気。感覚の全てを足裏から吸われていくような錯覚を覚える。常人では耐えがたいと足を止め、その場で立ち尽くしてしまうに違いない。
そうして辿り着いた先に待ち受けていたのは石造りの薄暗い部屋。以前よりも物々しい鉄格子に阻まれた檻が私の新居であった。
当然、〈常人であれば〉脱出など到底出来ないだろう。常人であれば。
常人ではない私にとって、そこで塵旋風のひとつでも起こすか、または転移でもしてしまえば脱出など容易いことではあったのだが。
しかし、ここを逃げ出したところで行く宛てもない。何より色々な場所を渡り歩くことに疲れていた。
繰り返すが、何もかもが“どうでも良かった”のだ。
どこへ行っても人々は争いの中に身を投じることしかせず、争いによってだけ人の歴史は紡がれていく。
にも関わらず私が嬉々としてこの身を投じ、争いの中で人々に本当の絶望というものを贈ると誰も彼もが逃げていく。
何処へ行ってもすぐに居場所を失い、また何処へ行っても同じ繰り返し。
世界という庭は広い。されど、自分の足で巡ることが出来る場所というものもいよいよ尽き果て、辿り着いた場所がここなのだからそれで良いではないか。
そう思っていたのだ。
ただ、諦観によってのみ辿り着いたこの病院生活の中で1つだけ、これまでの人生には無い経験があった。
病院に勤めていた看護師の中でただ1人だけ、自分に対して過剰とも言うほどに世話を焼く人物が存在したのである。
名を何と言ったかはもはや覚えていない。覚える気も無かった。
彼女は深夜、時折私の独房を訪ねては1人で好き勝手に話をした。
季節が巡ったから、今外ではこのような花が咲いているだとか、今日はどんな出来事があったかだとか。
彼女は実にくだらない、どうでもいい話を延々としていたと思う。私は彼女の話を右から左へと受け流し、たまに返事とは言い難い程度の頷きを見せるだけであった。
会話とは言えない一方通行の話の中でしかし、自分の頭の中に妙に残ったものがある。
あの歌だ。
彼女は、あの歌を〈愛の歌〉だと言って自分に聞かせた。
イングランドに古くから伝わる歌だという。
物悲しい旋律に“よく分からない意味の言葉”が羅列された歌。
そもそも、彼女の言う愛とは何だろうか?私には理解できない。
私の言う愛と、彼ら彼女らの言う愛はどうにも違うらしい。
私にはそれが理解出来なかった。
それでも彼女は、あの歌を〈愛の歌〉だと言って私の前で歌い続けたのだ。
夢の終わりに、彼女の声が聞こえる。
遠い日に私に歌い聞かせた、彼女の歌が。
Alas, my love, you do me wrong,〈愛する人よ。貴女は残酷な人だ〉
To cast me off discourteously.〈無情にも私を捨てるだなんて〉
For I have loved you well and long,〈私は心の底から貴女を想い〉
Delighting in your company.〈傍にいるだけで幸せだったというのに〉
Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉
Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉
Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉
And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉
*
「アンジェリカ様。アンジェリカ様?」
微睡から醒めると、すぐ傍で聞き慣れた親しみある声が聞こえた。
「アンジェリカ様、どうなさいましたか?」
ゆっくりと瞳を開け、声の方へ目を向ける。
「リカルドぉ~おはよう~☆朝ー、朝だねー?」未だに頭の中に彼女の歌声が残り、夢と現実の狭間を彷徨うような気分ではあるが、努めて日常的な振る舞いで朝の挨拶をした。
「おはようございます。勝利の美酒を味わうべき、栄光の朝にございます」
アンジェリカはしっかりと目を開け、律儀に首を垂れて挨拶をするリカルドのつややかな頭を撫でながら言う。
「今日もつるつるぅ~☆私の太陽、磨いてるぅ?」
「機構と国連軍との一件の後、艦内のシャワーを頂きました。実運用は初ですが、良いものですな。兵達からの評価も上々です」
「良き良き☆みんなの為に奮発したんだから。しっかり使ってもらわないとー、めっ!なんだよ?」
「はっ、有り難きお心遣い」
「それと、ちゃんと寝てる~?寝る子は育つ。寝ないとー、いい仕事は出来ないからね?☆」
「肝に銘じておきましょう。しかしてアンジェリカ様、恐れながらお尋ねいたします。眠りといいますと、先ほどは随分とうなされていた様に見受けられましたが、悪い夢でもご覧になりましたか?」
リカルドの言葉にはっとしたアンジェリカは彼から目を逸らす。
先に見た病棟が燃え上がる景色が頭に一瞬浮かんできたが、脳内でこだまする歌声と共にすぐに片隅へと追いやって言った。
「いえ、何でもないわ。ありがとう、心配してくれているのね」
何か深く感じ入ることがあったのか、アンジェリカが自らの意思で潜在意識へと引いた為、彼女の代わりにアンジェリーナが意識を表出した。
「であれば良いのですが。必要なものがあれば何なりとお申し付けください」
「こんな時にまで気遣いの達人なのね、貴方。でも必要無いわ。気持ちだけ受け取っておきましょう」
そう言ってアンジェリカは息を吐いて視線を上げ、ブリッジの先に見える水平線の彼方を見つめた。
黄金色の朝日が海洋を照らし、きらきらと反射した水面は神々しさすら感じさせる。
ひと時、物思いに耽ろうとするがすぐに気持ちを切り替えてアンジェリカは言う。
「状況の報告を」
「はっ。この数時間のうちに特に変わったことはありません。以後は予定通り、午前9時半頃に共和国本土へ到達予定です」
「彼らの連れている艦船。確かラファエル級フリゲートと言ったかしら。領海手前、接続水域内でそれら2隻は留まらせなさい。共和国へ招くのはサンダルフォンだけで十分よ」
「承知いたしました。あと、彼女から定期通信を受信しております。ヘルメス経由のものです」
「内容は?」
「クリスティー局長が今朝、マークתの面々にこれまでの経緯や状況の報告を行ったとだけ」
「あの子も律儀なものね」
「貴女様に対する忠誠の証ではないでしょうか」
「だと良いのだけれど?」
アンジェリカは手元の時計に目を落とし、時刻を確認する。
丁度午前8時を回ろうというところだ。ひとつの目的を達した今となっては、特に彼ら機構へ話しかける内容も無し、呼び掛けをするにしても1時間後で良いだろう。
そう思い至り、ふわふわの艦長席から立ち上がり、羽織ったマントを翻しつつ踵を返してリカルドへ言う。
「少し席を外すわ。朝食をとりたいの。9時には戻るから、それまで貴方に指揮を預ける。あと、シルフィーに彼らの“出迎えの用意”をするよう伝えておいて頂戴」
「はっ、仰せのままに」
再度深々と頭を下げるリカルドを背に、アンジェリカはネメシス・アドラスティアのブリッジを出る。
朝食をとりつつ自分達の考えをまとめる為、艦内に設けた自室へと歩みを進めるのであった。
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