*2-5-2*

 同時刻。サンダルフォンの甲板上にイベリスの姿があった。

 満月に照らされた穏やかな海。降り注ぐ光が海面に煌めき、夜闇に白い波間を映し出す。

 吹き付ける潮風に長く美しい髪をなびかせ、彼女はただひたすらに物思いに耽っていた。


 夕食を終えた後、各部隊に割り当てられた部屋に戻ってマークתの皆と団らんの時を楽しんでいたが、今回の争いについてどうにも晴れない心の内にある考えを紛らせる為に1人抜け出してきていたのだ。

 もちろん、この場には玲那斗もいない。ただ、何となく1人きりで考えを巡らせたいという気持ちがあった。

 彼が傍にいれば、優しい言葉をかけてくれるだろうし、その言葉に包まれる安心感を得ることも出来ただろう。

 だが、誰かに頼った思考をしていては心に立ち込める霧を晴らすことは出来ない。敢えて彼を連れずにここまで来たのは、そのように考えてのことである。


 体を吹き付ける風に意識を向けることも無く、眩い星空に目を向けることも無く、イベリスは彼方の水平線をじっと見据え思考の渦に思いを寄せる。



 戦争

 リナリア公国の滅び

 生き延びた者、蘇った忘れ形見達

 繰り返す歴史

 変わらない人の思想


『綺麗ごとが大好きな貴女らしい答えね?』


 幾度となく繰り返されるアンジェリカの言葉。

 変わらない世界に人の可能性を求めることはやはり愚かなことなのだろうか。


『千年経っても人の本質まで変わったわけではないと思う。アンジェリカがそう言ったのなら、それはきっと正しい』


 イングランドに滞在した時、アルビジアと2人きりで過ごした夜に彼女から言われた言葉を思い出す。


 アンジェリカは世界が積み重ねてきた悪徳を、人が積み重ねた業を、過ちをその目に焼き付けて生きてきた。

 それらを全て見た上で彼女がそう言うのだから、自分は彼女の言葉を否定することは出来ない。

 アルビジアはそのように言っていた。



「でも、それは悲しいことよ。人の罪だけを見定めて、人が育む喜びに目を向けようとしていない」



 イベリスの言葉は強く吹き抜ける風に簡単に掻き消された。

 それでも、口にせずにはいられなかった。

 ふと考えることを止め、目を空へと向ける。天上に広がる星々の輝き。千年も昔から変わることなく、ただそこにあって人々に安らぎを与える光。



「私は……私があの子に手を差し伸べなかったから」



『ただこの世界に生きる人間達の本性が知りたいと思った。どうしようもなく混乱する世界が見たいと思った。隠された人の本性を想像して暴き立てることほど楽しいことはないもの。例えそれが人であれ、国であれ、ね』



 再びアンジェリカの言葉が脳裏を掠める。

 何が正しくて何が間違っているのか。そんなことを考え続けることに意味などおそらくは無い。

 しかし、思わずにはいられない。

 もし……もし仮に、あの時の自分が行動を起こせていたのなら、と。



『貴女は幸せ者ね、イベリス。きっとリナリア七貴族の子供の中で一番』



 アルビジアが自身にかけてくれた優しい言葉を思い出す。しかし、彼女の言葉は今の傷心に思わぬ形で響くことになった。


 幸せだったから。恵まれていたから見えていなかった。

 違う。見て見ぬ振りをしていた。自身には関係のないことだと割り切っていた。

 それが世界の仕組みなのだと。


「私が、間違えたから。あの時、私が……」



 遠い星空に語り掛ける様に言葉を漏らし、イベリスは儚げな瞳を空に向け続ける。

 人生にやり直しが出来たなら、ロザリアやマリア、アルビジアやアイリス、そしてアンジェリカとも違った関わり方が出来たのではないか。

 後悔が生み出すものなど何もない。

 けれど、それでも……


 思考の迷路に迷い込んだイベリスが、答えのない問いに呑まれそうになったその時。

 唐突にすぐ後ろから1人の少女の声が自身にぶつけられた。


「まったくもって、君は何一つとして変わらないんだな。イベリス」


 空を見上げていた顔をとっさに後ろへと向ける。

 そこには、真っ黒なゴシックドレスに身を包み、宝石のような赤い瞳を輝かせるかつての親友の姿があった。

「愚かだ、とだけ言っておこう。傲慢だというべきかな。君が何を考えて、何に迷い、何を憂いていたのかなど想像に難くもないからね?」

「マリー」

「そうだ。私は君を良く知る、マリア・オルティス・クリスティーだ。千年前、君と彼の幸福の為に潔さを示して祝福を贈ったはずであるのに、自身の心の内では気持ちを消化しきれなかった憐れで愚かな女だ」


 マリアは憮然とした表情のままイベリスのすぐ隣に歩み寄り、同じように水平線の彼方へ視線を向けて続ける。

「じっくり話をする機会も早々に訪れる。言った通りだろう?」

 表情は厳しいものだが言葉はどこか穏やかで、それでいて彼女らしくないぎこちなさもあった。

 イベリスも視線を水平線の彼方へと向けて言う。

「まるで私がここに来ることを最初から知っていたみたい。いえ、きっと本当に知っていたのね」

 そこまで言うと、マリアの方を向いて言った。

「貴女にもあるのでしょう?私達と同じような力が。会合の時に隊長が口走った“予言の花”という言葉の真意。他に何を言わなくても分かるわ。マリー、貴女は遠い未来を視通すことの出来る“目”を持っている。それは偏に、人々が“予言”と呼ぶ力。他者の過去を視通すロザリーとは真逆の力」

「ははは、賭け事や宝くじを買うのに都合の良さそうな力だ。それと、天気予報」

 真面目に語るイベリスに対し、とぼけるように笑いながらマリアは言う。

「それなら、私の心が雨模様だということも分かるわね?」

 ふいを突かれたというような表情をイベリスへと向けたマリアは、軽く息を吐いて言った。

「やっぱり変わらないな、君という人は」

「貴女は凄く変わったわね。えぇ、とても良い意味で」

「誉め言葉として受け取っておこう」

「長い歴史がそうさせたのかしら。それとも、彼の影響かしら?」

「どちらとも」


 互いの言葉が途切れ、静かなる間が訪れる。

 夜闇を進む船体は高速で進んでいくというのに、視界に映る景色はなにひとつ変わらない。

 同じように、長い長い時間は早々に過ぎ去っていったというのに、今この場に佇む2人の間にあるものはなにひとつ変わってなどいなかった。

 まだ、お互いの間にある絆を確かに感じ取ったイベリスは、彼女に向けて次の言葉を紡ぐ。


「フロリアンから色々と話は聞いたわ。ハンガリーでのことも、ドイツでのことも」

「フロリアンめ、意外とお喋りだな」

「いいえ、私にしか話していないと思う。玲那斗たちはもちろん、同じ故郷であるアルビジアにだって話してはいない。彼からは、貴女のことが本当に大切だという想いはよく伝わって来たわ」

 イベリスの言葉を聞いたマリアは、少し目を逸らして俯きながら言った。

「ドイツで、私とアンジェリカに繋がりがあると彼に思わせた時点で明らかになる話だった。彼が相談相手に君を選んだのは必然だという気持ちもあるが、いやはや。君に相談するべきだと思った彼の勘の良さは素晴らしいものだと思う。私と君の関係を、彼は知らないのだからね?」

「それよ。ねぇ、マリー?私と貴女は、これからも親友でいられるのかしら?」

 イベリスは真剣な眼差しをマリアへ向けて言う。対するマリアは敢えて視線を交わそうとはせず、遠くを見つめたまま言った。

「君はどう思う?イベリス」

「私は今でも貴女のことを大切な親友だと思っている。いいえ。千年の間、そう思わなかったことなんて一度もないのよ。でも、私は貴女のことを裏切っていた。貴女の想いに気付かない振りをして」

「そうか。そう思っていたのであれば早い話だ。私は次に君と出会う機会があれば、正直一度殴ってやろろうかと思っていた」

「え?」

 マリアの口からそのような言葉が飛び出て来るとは思いもしなかったイベリスは驚いた。

「この2年間、君に会った時にどういう言葉を交わそうかずっと考えていた。その中で幾度となく思ったものさ。文句の1つや2つでは足りないし、一度は殴らないと気が済まないと。周囲の言葉を無視して彼1人を残して勝手に死んだ挙句、やっぱり彼に会いたいと駄々をこねている君を見てね」

 非常に物騒な物言いだが、しかしマリアの言葉は先程までとは違い、どこか楽しげに過去を振り返っているかのようであった。

「私に対する裏切りなど重要な話ではない。私は君の本心を承知した上で身を引いていたのだから。友の幸福を祝福することだけが私に許された行いでもあった。時代がもたらした必然であり、そういう風にしかならなかった想いの結末を嘆いたって仕方ないだろう?

 だが、故にこそ彼のことを想うなら、あの時君は両親や周囲の臣下たちの言葉を受け入れるべきだったと私は今でも思う。

 けれど実際にセントラルへ行き、君の姿を見た途端にその考えは頭から消えた。君のわがままに腹を立てていた反面、私は安堵していたんだ。何も変わっていない君を見て、なぜだか嬉しく思ったのさ。そう思ってしまったのだから仕方ない」

「そういう、素直でないところは貴女も変わらないのね?マリー」

 茶目っ気を出して言うイベリスに、ようやく笑みを向けてマリアは言う。

「やはり前言は撤回した方が良いかい?」

「その気はない癖に」


 氷解。2人の間にあった冷たい壁が取り払われたようであった。

 千年に渡る時を経て、ようやく実現した再会。

 イベリスにとっては、最愛の彼と再び巡り会うよりも長く。

 マリアにとっては、ひとつ抱いた願いを叶えるよりも長く。

 それだけの時を経た末にかつての親友同士は再び同じ関係に戻ったのである。


 真剣な会話に交えた、多少の冗談の言い合いはさて置くといったようにイベリスが言う。

「けれど、私は貴女に聞いておきたいことがあるの。世界を統べる国際機関の頂点に立つという今の貴女。そんな貴女が裏から国連を動かし、機構を動かしてまで私の魂をあの島から解き放ったのはなぜ?純粋にただ私の願いを叶える為の行いでないことはよく理解しているつもりよ」

 マリアは笑みを潜め、星空を見上げながら答えた。

「私には私の夢がある。理想というべきかな。君が人の可能性を信じ続けていられるように、私の中にも信じ続けている信念がある。その実現の為に君の力が必要だった」

「今の状況。こうなることを予期して、アンジェリカに立ち向かうという目的の為に?」

「さぁて、どうだろうね」

 とぼけたようにマリアは言う。

「既にフロリアンには打ち明けた事実だが、君の言う通り私には未来視の力が備わっている。だが、制約として“同じ系統の力を持つ者に対して効力を十全に発揮できない”という弱点もある。

 要はロザリアに対してはもちろん、リナリアに所縁を持つ者全ての力を振るうというアンジェリカに対しても十分な予知をすることが出来ない。つまり、今から彼女が何をしようとしているのかも正直なところ曖昧にしか掴めていないんだ」

「では、他に理由があるということね」

「いくら相手が君であっても……いや、君だからこそ伝えるわけにはいかない。ただ、争いのない平和な世界を私は築きたいだけだ」

「それが気になるのよ。マリー……いえ、マリア。唯一無二の聖なる母と同じ名を持ち、完璧であると謳われた貴女の考えることだから。それはきっと、ただ言葉通りのものではない」

「答えならロザリーが知っているだろうさ。気になるのであれば彼女にでも聞いてみたら良い。ただ、答えてくれるかどうかは保証しないけれどね」


 マリアはそう言うと後ろを振り返り、艦内に繋がる扉へ向けて歩き出した。

「夏が終わり、秋が来る。ここは風も強いし、何より冷える。君も中に入った方が良い。そろそろ、彼らが君のことを心配し始める頃だろう?」

 彼女は扉へ向かいながら右手を軽く上げて別れの挨拶を告げる。

「君と千年ぶりに話が出来て良かったよ。実に、実に有意義な時間だった」

 マリアの後ろ姿を見送りながらイベリスも小声で言う。


「えぇ、私もよ。最愛の親友、マリー」



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