第8話『税込みでいいですか?』(連続33話)
***
「無理」
何度目であろうか。
自分の机に突っ伏したままの勢花が万感の思いを込めて溶けていた。
「お疲れ様。今日はもう溶けていていいわよ。……で、問題用紙は?」
「これ」
溶けたまま試験最終日の問題用紙を渡し、勢花は任務完了とばかりにグッタリと目を閉じる。
問題用紙には答案用紙に書き込んだ答えが分かるように印や文言が書き加えられていて、後日返ってくる答案を待たずに答え合わせができるようになっている。答案を埋めたあとの余った時間があればそうするように言い聞かせられていた勢花であったが、今回はその余裕が充分にあった様子である。
「ふむふむ。……ん。……ん」
一問一問をじっくりと見ながら、月旦は勢花の回答を吟味していく。最終二教科の答案に書かれている答えの、実に過半数は正解であろうという判断をし、彼女は満足げに問題用紙を返す。
「わたしもカンペキじゃないから、後半の引っかけ問題は危ういところだけど。それでも言い回しなどに気を付けていれば、おそらく大丈夫なはず。……まずは一安心といったところね」
試験の全日程を終えた今、試験官の教師の軽いまとめでホームルームに代えられ、下校となる。試験の採点と成績の算出が終わるまでのあいだ、学校は休みとなり、部活動再開となる生徒を除き、学校へ来るものは少なくなる。
学年修了式を無事迎えられるまでは安心出来ないが、とりあえずテストの問題は乗り越えた手応えはある。
勢花の成績に責任を感じている月旦の肩の荷も、ようやく下りたと言える。
「おつかれさま、勢花さん。……もう帰る?」
「無理」
様々な重圧が、溶けた勢花の穴という穴から抜けていくのが見えるようだった。復活まで今しばらくかかるだろう。
とにもかくにも、彼女たちの担任である松下が勢花の成績に胸をなで下ろしたとき、剣術部の設立もほぼ安泰となる運びである。全てが上手く行く方向に動き始めていた。
一安心。まずは月旦も肩の力を抜くことにした。
「さて。自由の身になったところで、わたしから提案があるのだけれど。勢花さん、今日の予定は?」
「ていあん~?」
溶けた勢花が首をもたげる。
「今日は特に何も。今日をこなすことに全力だったから、なんにも考えてないわ」
「ですよね。……実は、このようなものを母から頂きまして」
「なにこれ、パンフレット? ……この店って」
「はい。学校の近くにある武具店のパンフレットです。時間があるようでしたら、勢花さんに合う木刀と、居合い練習刀を見ておきたいと思いまして」
「木刀と、い、居合い……練習刀?」
「竹刀は持っている様子ですが、しっかりとした木刀と、練習用の模造刀は必要かと。その場で買うわけではありませんが、身体に合ったものを誂えるため、下見をしておきたいと思います」
「あ、そうか。そう言うものも必要になってくるものね」
道具というものは何かと出費がかさむものだ。
「木剣木刀の類は道場にあるものを……とは思いますが、練習刀ばかりは予備がなくて」
「ん、大丈夫。胴着と袴は、今のでも良いのよね?」
「剣道用でも構わないかと。ただ、帯は別途、誂えた方が良いかもしれません。刀を佩くために」
「そっか、なら大丈夫かなあ。……本当だったら二年に上がる前に防具一式買いそろえようと思ってたし」
父や母の援助も含め、貯金はしていたそうだ。
防具一式に比べれば、遙かに安上がりと思えなくはない。
「そのお店はわたしも良く行ってた店だし、おばさんとも顔見知りだから」
「剣道部でしたものね」
月旦も頷いた。
「そう言えば奥の方にあったね、刀みたいなの」
「ええ。しっかりとした造りのものを誂えましょう。……その下見に行きませんか?」
「行くっ」
溶けていた体が形を取り戻す。
元気ね、と月旦は微笑むが、いまだぷりぷりに弾力を誇る彼女の胸を見、やや自分の胸を見下ろす。
「いいなあ」
「何が?」
「いや、何でも」
こほんと咳払いして、立ち上がる。既に荷物を詰め終えた鞄を手に、勢花を促す。
「では行きますか」
「うん」
向陽高校からすこし歩くと、地元の繁華街へと出られる。
下校時に通る生徒も多く、シャッター商店街が散見される都内としては別格の賑わいを見せている。南北半キロほどの長いアーケード商店街は、向陽高校含む地元学生の格好の遊び場でもあった。
肩を並べて月旦と勢花は、その店、『
店主は薙刀をやっていたという昭和の女傑で、早く亡くした夫に代わり店を切り盛りしていると聞いたことがある。
息子夫婦が武道具や胴着の通販サイトの手助けなどをして、なかなか盛況の様子であった。
ご多分に漏れず、向陽高校の部活動御用達のお店でもあり、向陽高校割引という特典目当てで通う生徒も少なくはなかった。
「あった、あそこよ月旦ちゃん」
「なかなか立派な店構えですね」
現代建築の小さめの商業ビルの、一階と二階が尚武堂の店舗であった。一階は柔道空手剣道合気道などのユニフォーム全般から、グローブなどの小道具。二階は竹刀や模造刀をはじめとした武具全般を取り扱っている。
さっそく外階段から二階へと上がったふたりは、キョロキョロと店内を興味深げに見回す。
「月旦ちゃんは初めて?」
「ええ。でも、すごい品揃えね」
「いつもどこで買ってたの? この辺りだとみんなここで買うんだけど」
「…………」
「ん?」
「通、販」
勢花は「あ~」と言ったきり追求はしなかった。
「いらっしゃい。おや、戸田さんじゃないの」
店主の女傑が整備所を兼ねた座敷から声を掛けてくる。
「こんにちは」
「そろそろ来る頃だと思ったよ。今日はサイズでも測りに来たのかい?」
ややふっくらとした顔つきの店主が目を細めて笑いかけるが、勢花の苦笑にそれ以上の踏み込みはなかった。
「そちらの子は? 向陽高校のお友達?」
「クラスメイトの辻さんです。えーと……」
「こんにちは、辻と申します。木刀と、模擬刀を見に来ました」
「……貴女が使うのかい?」
「いいえ」
「…………ふむ」
勢花と、月旦。ふたりを見ながら、奥へと首肯する。自由に見なさい、とのことだろう。
「刀の扱いは?」
「慣れています」
頷く月旦に店主は微笑む。模造刀とは言え、刀身の取り扱いは真剣のそれと同じである。慣れぬ者が扱えば、痛めかねないのだ。
「勢花さん」
「うん、もともとここで防具を買おうかな……って思ってて」
苦笑。
苦笑い。
それ以上でも、それ以下でもない。
「強くなるしか、吹っ切ることはできない……か」
「月旦ちゃん?」
「気にするなとは言いません。でも、これ以上はどうか気に病まないで」
優しく頬を撫でる月旦の手に、勢花はふと、気を緩める。
「ごめんなさい。本当は来たくなかったんじゃないかしら」
「そんなことないよ。そんなことはないの」
「……まずは、木刀を見ましょう」
「うん」
赤樫の安いものから、勢花も知らぬ高価なものまで、そこにはあった。
傘立てのようなところに立てられたものは、総じて安い。そのような土産物屋にもありそうなものではなく、丁寧に磨かれたものを手に取る。
「勢花さん、これは如何でしょう」
「これ?」
「1メートルほどの長さ。刃渡りは二尺三寸弱、かしら」
「に、にしゃくさんずん?」
「七十センチちょい、ね。このくらいがちょうど良いわ。木刀はそれほど差違はないし、消耗品だから、このくらいのもので良いと思うわ」
「消耗品なの?」
「安物だと一月もたないと思うわ」
「…………なんで!?」
「素振りだけで使うものじゃないから。……打ち下ろしの練習などで打ち合うことも少なくないから」
「そ、そうなのね」
一振り手に取り、勢花はビニールシュリンク越しに握り込む。
重さ、バランス、竹刀とは違う感触。
これが、木刀。木剣。
「意外と安いのね」
「消耗品だからね」
「じゃあ、これに決めた」
「今日は買わないわよ? 勢花さんも買うつもりで学校に来たわけじゃないでしょう。手持ちだって――」
「……そうでした」
目星だけ付け、棚に戻す。
「あとは、帯と――」
月旦が棚を見回し、次の物へと目を向けたときだった。
「失礼します」
店のドアが開かれた。
入ってきたその人影に、勢花は息を飲み、月旦は眉をひそめた。
「いらっしゃい、毬谷さん」
店主の挨拶に、毬谷円佳も会釈で返す。
そして店内を見回し、ふたりに目を留める。
「あら――」
正しくは、勢花に目を留めて、本気で分からないという様相で首を傾げる。
「戸田さんじゃないの」
一瞬、ドタ子と言いかけたのが伺える。
「剣道部を退いたあなたが、ここに何しにきたの? 防具のキャンセルでも?」
本気で驚いていたのか、嘲笑の類は色を薄めている。
「それは……」
言い淀む勢花。
円佳はさらに続ける。
「確かに、剣を振るうのは部じゃなくともできるとは言ったけど」
そこで、勢花と円佳の間に、そっと立ち入る者がいた。
月旦である。
「……あなたは」
円佳が彼女を職員室で見かけたと思い至るまで、やや時間があった。
「辻、月旦。あなたは
「よく、知っているわね」
円佳は身構える。
彼女からのやや冷えた殺気が肝に触れたからだ。
「このたび、新しく部活動を立ち上げる運びとなりまして」
「部……活動?」訝しげに、月旦の持つ木刀と、勢花を見遣る。「思うけど、第二剣道部なんて洒落にならないわよ」
「まさか」
と、月旦は言葉を切る。
「剣術部を」
「なんですって?」
冷えた殺気は双方から漏れ、お互いの間合いを一足一刀のものへと広げる。
「剣術? カビの生えた古くさい踊り? ……お似合いね。それくらいならドタ子にもできるでしょうよ」
「さすが跳んだり跳ねたりする点取りスポーツはいうことが違うわね」
言ったわね? と、言外に殺気を滲ませて円佳は立てかけられた木刀を手に取る。
「――証明してもらおうかしら」
円佳はそのまま、ゆっくりと正眼に構える。
月旦も、やや笑いながら下段に構える。
「ちょ、ちょっとふたりとも……」
震える声で制しようとする勢花だが、助けを求める目が店主に注がれたとき、その店主から静かに首を振られるに至り、口を閉ざして後じさる。
月旦と円佳の間合いは、一足一刀の間合い。一歩踏み込めば即、打てる間合いであった。通路と言うこともあり、彼女たちの左右はすぐに商品棚。横に
ともすれば、店内を荒らすこの戦いに、しかし店主は静かに見守るのみである。
「――
鋭く踏み込んだ円佳の真っ向唐竹割りの一撃が月旦の頭部を襲う。
「――!」
月旦は下段から刀身をことりと落とし、体側に沿って振り上げる。
――カンッ!
「うっ!」
勝負は一瞬だった。
月旦は木刀の鎬で面への一撃を受け流したその瞬間、ピタリと円佳の額に刀身を寸止めしていたのだ。
振り上げで受け流した動きをそのまま、振り下ろしに繋げた綺麗な動きであった。
「…………」
静かに引き、残心。木刀を脇に控える。
「お互い、寸止めの戯れ。しかし、古くさい踊りも捨てたものじゃないでしょう」
「………………くっ!」
月旦の正中線から外された切っ先を憎々しく睨みながら、円佳は引く。
寸止めではなかった。手加減こそしたが、月旦の額を強かに打ち据えてやろうとした一撃だった。
円佳は、月旦に面子を保たれた形になる。
「ふたりとも、お店で遊ばないでおくれよ」
そんな中に、絶妙なタイミングで店主の声が掛けられる。
毒気を抜かれたのか、円佳は木刀を戻す。
「そうね。遊びじゃなかったら……」
遊びじゃなかったら、額を割ってやっていたところよ。
円佳は言外にそう呟き、「また来ます」と店を後にする。
じっと残心していた月旦も、ひと息ついて構えを解く。
「受け流し」
そっと呟く。
勢花は、やっとひと息ついて、その言葉を聞く。
「教えた素振り。受け流して斬る、その動き。分かった?」
月旦の微笑みに、勢花はしばし考え、「あ、ああ~……」と頷く。
「お騒がせしました」
店主に頭を下げる月旦。
しかし店主は苦笑しながら手を振る。
「辻、か。思い出したよ。辻流剣術。もう看板は下ろしたって聞いたけどね」
「看板は上げていません。わたしは祖父の残した術を少しでも体現したく、修行をしているに過ぎません」
「なるほど。……戸田さん」
「は、はい」
「剣道はやめたのかい?」
店主の静かな問いに、勢花は月旦を一度だけ見、静かに首を振った。
「
苦笑する。
事情を察したのか、店主も静かに頷く。
部は、やめた。
しかし、剣は取る。
そう言うことだろう。
「ふふ。……戸田さんの体に合ったものは、来週までに用意しておくよ」
店主は手を振りながら笑う。
「あいにくと観光客用の安物と高価なものしかないからね。定寸で扱いやすいものを仕入れておくから、今日はもう帰りなさい。もうすぐ、他の一年生も来るかもしれないからね」
剣道部員、ということだろう。
「わかりました」勢花は素直に従うことにした。月旦も、されば後日と思い直す。「では、来週。また来ます」
「おっと――」木刀を戻しかけた月旦を、店主が止める。「二本で四千円にしておくわ」
「え?」
「新品を二本もキズモノにしておいて、それはないだろうに」
「……あ」
円佳と月旦が打ち合った、木刀。物打ちと鎬の部分のビニールシュリンクが見事に剥がれている。よく見れば、打ち傷も見受けられる。
「…………四千円」手をヒラヒラさせる店主。
立てかけてある木刀とあわせて二本手に取り、月旦は難しい顔だ。
「よんせんえん」
ゆっくり言う店主に、やっと月旦は言い返す。
「ぜ、税込みでいいですか?」
店主はそれににっこりと頷いた。
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