第7話『見方を変えると、答えも見えてくる』(連続33話)



 啓蒙、啓発、という言葉がある。

 道理や術理に暗い者に、光をあて導くという意味合いをもつ言葉。

 上から言われたのならば傲慢な物言いに聞こえるそれらだが、教えられる勢花の立場から出たその感想は、まさに啓発そのものだった。


「な、なるほど、そう言うことなのか……」


 練習問題をほぼ完璧に解ききった勢花の答案に丸を付けながら、月旦も頷く。


「見方を変えると、答えも見えてくるでしょう?」

「はぁ~……」


 生物教科の小テスト。五十点満点の問題を、四十五点。


「要は、その都度、『何を知って欲しいか』という、出題者の狙いを把握し、答えを系統立って推測することからなの。下手な鉄砲を数撃って当てるのも勉強やテストでは大事だけれど、その鉄砲の精度を上げるためには、効率的に把握するためには、間違いなくそこを意識していかないと駄目なのよ」

「はぁ~……」


 四十五点の答案を蛍光灯に透かすように見上げながら、勢花は自分のあげたその成果に自分自身、信じられずに感嘆し、へその下からわき起こるむずがゆい興奮に思わず嘆息しか盛らせなくなっている。

 そんな様子を月旦は自分のことのように嬉しく思った。


「わたしもお祖父ちゃんに……祖父に教えて貰ってね。せっかく時間を費やすなら、正しく消費しようと、楷書で丁寧にやることの意味を考えながらやりなさいって」

「お祖父ちゃん、頭良かったの?」

「学校の成績は分からないけど、きっと、学習というか修行修練における考え方そのものが『そう』だったんだと思う。けっして厳しくなかったけど、理解せずにそのままやりながらなんとなく理解させる方法をよしとしなかったのは確かね。技術屋や職人というよりも、そう言う意味では教師に近い性分だったのかもしれないわ、うちの祖父」

「へ~……」


 答案を置くと、勢花も納得せざるを得ない。

 今回、勢花のものの考え方――とりわけ相手の、出題者の意図を探り、正しく把握して答えを当てはめていく。その流れに気を付けたら、とたんに意味不明な単語の数々が繋がりをもって頭に入ってきたのだ。

 漠然と詰め込むことよりも、すんなりと頭に入ってきたことに、驚きを隠し得ない。効率であるとか、才能であるとか、そのような段階のものではない。基本的な情報のとらえかたそのものが理解できたのだ。

「残りの地学もそう。……こっちはすこし疲れが見えるわね。三十五点」

 新しく丸を付けられた答案を返しながら、月旦は「ふむ」とひと息つく。


「でもすこし難しくしすぎたかしら」

「ほへ~……倍にすると七十点。こんな点数おいそれとは……はは~」

「感心しないの。あなたの実力よ。これからの授業、先生たちが何を知って欲しいのか、なにを教えたいのか、どう解いて欲しいのかを常に考えながら授業を受け、どう戦うかをまとめるようにノートを取れば、どんなテストが来たところで戦いかたが組めるわ」

「ちょっと剣術っぽい言い回し。それもお祖父ちゃんの?」

「そうね。ふふ、ちょっと自己流だけど」


 そこで勉強道具をまとめながら、月旦はひと息つく。


「お疲れ様。これで明日明後日と自習を怠らなければ、問題なくこなせるでしょう」

「うぇ~」

「……やるのよ? でないと、素振りの仕方を教えてあげないわよ」

「へ?」


 キョトンとする勢花に、月旦は得意気に微笑む。


「四時半か。……すこし道場に行きましょう」






 日が落ちかけたころ。先ほどの竹林を抜ける小道。

 神社の社務所の横をさらに抜け、続く小道。

 やや下るその小道を進んでゆくと、古い平屋が見えてくる。


「ここよ」


 月旦が指したその平屋――板張り造りの道場であることに気が付いた。

 その奥には二階建ての一軒家が見えるが、向こう側が表通りに面しているのだろう。月旦の祖父の家、つまりは彼女の母の実家であり、彼女が親しんで育った家でもある。


 道場はその家の離れ・・のように作られており、道場は道場だけの出入り口と、母屋を繋ぐ渡り廊下が伺えた。

 ふたりは道場の入り口ではなく、彼女がいつも使う渡り廊下側の出入り口へと向かう。三段ほど足場を上がり、やや大きめな扉の鍵を開ける。


「靴はここで脱いでね」


 月旦は一礼し、右足から敷居を越える。

 道場へ入る礼儀は、ここでも同じだった。

 一礼し、右足から。

 武道において、『左』は敵意や害意が現れるという。果たし状の封じ方は左封じであるし、軍の行進は左足からはじまる。

 転じ、瞑想においては右は煩悩、左は理性を表すとされ、右手を押さえ込むように左手を乗せるのが基本とされているのが面白い。

 勢花は一礼し、道場へと踏み込む。


「うわあ」


 古い木の香りと、空気が循環していない特有のこもり。

 薄暗い道場内に込められている純粋な念に、勢花の気はしぜん引き締まる。

 慣れた手で道場の明かりをつけると、月旦は壁に掛けられている木刀と竹刀を一振りずつ手に取る。


「とりあえず、竹刀を握ってみてもらえる?」

「う、うん――」


 竹刀は勢花も持っている。自宅には柄が黒ずむまで何度も使い込んだ竹刀がある。何度も搾り掴んだ、竹刀。

 勢花は手入れの行き届いたその竹刀を手に、促されるまま道場の中央へとやってくると、大きく深呼吸し、スっと正眼に構える。


「これでいいかしら」


 正面3メートルほど先に立つ月旦の喉元に切っ先を向け、勢花は構える。柄頭を余らせずに、小指で締め、薬指から緩く締める。


「そのまま、構えてて」


 と月旦は言い、一歩近付くと、勢花が構える竹刀を、勢い良く木刀でスパーンと打ち払う。


「――!?」


 驚く勢花。その目にも留まらぬ打ち払いもそうだが、突然のことに意識が追いついていかない。竹刀の切っ先は打ち払われたまま壁を向いている。


「もう一度」

「え、え?」

「正眼に構えて」


 言われるままに正眼に構え直す。

 同じように、今度は右へと打ち払われる。


「…………ふむ」ひとつ頷く月旦。


 予想していた勢花は打ち払われた切っ先をゆっくり戻しながら、キョトンとした表情だ。


「月旦ちゃん?」

「……勢花さん、次はあなたが同じようにわたしの剣を払ってみてもらえる?」

「……? あ、うん」


 何がやりたいのかが分からないまま、勢花は頷く。


「――さあ」


 スっと、構える月旦。

 物凄く堂に入った、静かな構えだった。ただ、その重さはやや勢花の知る構えとはどこか違っている。

「思い切り打ち払って」

 促す月旦の木刀に向かい、勢花は竹刀を横から振り当てる。

 ――バシン!


「……え?」

「もっと強く。両手で振り抜いても構わないわ」


 その切っ先は鋼の芯が徹っているように、勢花の喉元からまったくぶれない。

 勢花はさらに力を込め、外側へと思い切り打ち払う。

 ――バチン!


「え!?」

「もう一度」


 渾身の力を込めた打ち払いにも、月旦の切っ先は鋼の芯――それ以上に強靱なバネが入っているように勢花の喉に切っ先が戻る。

 それから数度にかけて打ち払うが、逸れるのは勢花の竹刀であり、構える月旦の木刀はビシリと彼女の正中線から逸れることはなかった。

 一歩二歩と下がり間合いを外した月旦は、木刀をサっと残心から引き、左手に携えて微笑む。


「今の、なに? 月旦ちゃん」

「木刀だから、竹刀だから、という訳ではないのは、分かったかしら」

「うん。それはもう――」


 キョトンとした表情を越え、今のは何だったのであろうという純粋な驚きを湛え、勢花はしきりに頷いた。


「もういちど正眼に構えて」


 月旦の促され、勢花は構え直す。


「勢花さん、軽く絞るように竹刀を構え、おへその下に力を込め、切っ先にかけて意識を徹すように呼吸を整えて」

「…………んッ」

「脇を締め、肩甲骨は体幹に沿って広げるように開く……そう、そう」

「んっ……!」

「そして、踵は地に付けて。そして、ややつま先をあげる」

「え、付けるの? あげるの?」

「踵を付けて。……そう。あと、ややつま先はあげて、指は曲げて地を掴むの。そう」


 勢花の足の指や踵をしゃがみ込むように確認すると、頷きながら立ち上がる。


「体重は、左右の足に均等に。そう、もう少し後ろに」

「剣道とは違うのね」

「……そうね。違うわ」


 確認を終え、月旦は再び彼女と正対し、間合いを計る。


「いい? 意識――『気』はわたしの喉元に。意地を徹すように」

「ん」


 勢花は言われたことを言われたままに構える。


「いくわよ?」


 月旦は思い切り、彼女の竹刀を右へと打ち払う。

 ――ビシッ!

 打ち払われた竹刀は、木刀が過ぎた瞬間にびしりともとへと戻る。

 左右にさらに打ち払われるが、ばね仕掛けのようにもとへと戻る。


「うん」


 月旦は微笑む。


「勢花さん、剣先までネバリの構造ができてきたわ」

「ネバリのコーゾー?」

「そう、自分の太刀筋を逸らさせない、体幹正中線から繰り出される重みのことよ。気の乗った太刀筋は、このネバリの構造が基本となるの」

「……………………」


 ふと、勢花は言葉を噛みしめるように考える。

 打ち払われても動かぬ切っ先は、何を意味するのか。

 自分の太刀筋を逸らさせないということは、どういうことなのか。


「月旦ちゃん」


 大きく深呼吸し、肩を回し、勢花は竹刀を握り直し、足の位置、身体の締め方を組み直す。


「……もういっかい、やってくれない?」

「……わかったわ」


 月旦は、一歩引き、術理もない力任せのフルスイングを竹刀に叩き込む。

 ――ビチィッ!


「痛たたたたた……」


 さすがに悲鳴をあげかけたが、勢花はその衝撃にも耐え、その切っ先をほとんど逸らさずにピタリと月旦の喉元に突きつけている。


「せ、勢花さん……」


 これには、月旦も驚いた。


「す、すごいわ。そんな、いきなりここまで出せるなんて」

「でも、すごく手が痛い……」

「手だけじゃなく、その、体全体で気を乗せれば、その……」


 驚きを隠せない月旦。

 教えたそばからの、この実践。もともと竹刀をタコができるほど握り、振り慣れていたこともあるのだろうが、こうも切っ先まで気を徹していられるのは驚きだった。


「現代『硬い』と忌避されるこのネバリを意識出来る人は少ないというのに……」

「いやだって、月旦ちゃん言ったじゃない。逸らさせないって。そのために身体を作ればいいんでしょう?」


 その通りだった。

 知らず、『何を知って欲しいか』という、出題者の狙いを把握し、答えを系統立って把握すること。試験勉強においての考え方を、ここでも発揮したことになる。


「……立ち方」


 苦笑し、月旦は痺れた勢花の手を愛おしそうにさする。


「剣道では、足の親指とその付け根に体重を預ける立ち方で、前後に飛ぶような素早さを行うことが基本となっているようだけど、うちの剣術の立ち方は、今やったように、ベタ足つま先上げが基本よ」

「――ベタ足」

「そう、ベタ足」


 勢花は自分の足下を伺う。


「しっかりと踵で踏み締め、ネバリのある剣筋を振り当てるのが、基本。あなたがどうしても無くせなかったそのベタ足こそが、必要なのよ」

「…………」


 思い返す。

 あの公園で、月旦に言われたこと。

 あの更衣室で、円佳に言われたこと。

 そのふたつを。


「必要……?」

「ええ」


 月旦は頷く。


「ひとつひとつ、いままでとは違う考え方を実践して貰うわ。剣の振り方にしろ、体捌きにしろ、いちから頑張って貰うわよ」


 最初から。

 いちから。

 その言葉に、勢花は知らず震えていた。

 少なくとも一年の間に剣道というものに携わってきた経験から、正中線の遣り取りという戦う上での要点において、これほど真っ正直に意識したことはかつてなかった。


「たのしい――」


 勢花はぽつりと、呟く。


「勢花さん?」

「え? あ、いや、うん、お願いします」

「じゃあ、ネバリの構造を意識した素振りの方法から、教えるわね。しばらくは、これ一本になるわ。頑張ってね」


 その日は、たったひとつの素振りの仕方を、みっちりとやった。忘れないように。何のためにそう動かすのか。何のためにそう動いて見えるのか。何を学び取るために振るのか。全てを意識しながら。

 ――楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。

 一振りごとにわき上がるその喜びに打ち震えながら、勢花は日が暮れるまで、それだけのことを繰り返したのだった。




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