ヌスミミ

 今、鞄の中にある小説は、読み始めてから4ヶ月経っている。

 内容がつまらないとか、本が分厚いとか、そういう意味で読まないわけじゃない。

 別の意味で読めないのだ。


 教室に入り、一番後ろにある自分の席に着く。

 ホームルームが始まるまで、あと30分はあることを確認して、鞄の中にある本を開いた。

 102ページの6行目までが昨日読んだところだ。

 今日は7行目からだけど、読めるだろうか。

 本から視線を上げて、左の列の一番前に向ける。

 窓から零れてくる光の中に、彼女、三澤幸恵がいた。

 腰まで伸びている黒髪が、やんわりと揺れている。

 彼女は一番に教室に来て、いつもノートにペンを走らせていた。

 それが彼女の作っている小説だということは知っていた。

 彼女が友人としゃべっているのを少しだけ聞いたからだ。


 いつかその作品を読んでみたいと思いながらも、私はいまだに彼女に話しかけることが出来ないでいる。

 胸にある秘密の感情を見透かされて、嫌われるのが怖い。

 ただそれだけで、私は彼女に触れることすらできない。


 そっと、こうやって盗み見て、胸にある感情をほんの少しだけ満たす。 

 けれど、見れば見るほどに気持ちが大きくなっているのがわかる。

 壊れてしまえ、こんな感情は。

 間違いを犯している筈のこの感情。

 壊れてしまえば、全てが楽になる。

 だから、壊れてしまえ―――。


 視線を本の上に落とす。

 この感情の暴走がいつか報われる日が来るのだろうかと思っていると、文字が滲み始める。

 私は大きな口を開け、その口を手で塞ぐ。

 零れ落ちそうになっている目の中の水を、その偽のあくびのせいにして、拭った。


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