キスとコーヒー
平日の昼間、何ごともない保健室では、養護教諭の美也子は、コーヒーを飲みながら外を眺めていた。
遠くにある小高い丘の木々が、風に煽られて右左に揺れている。
淹れたばかりのコーヒーから立ち上ぼる湯気越しにそれを見ながら、溜息をついた。
「暇ねぇ……誰か来ないかしら」
我ながら悪趣味な言い方だとは思うが、仕事でもしていないと、睡魔に襲われてしまいそうになる。それに抗う為にコーヒーを飲むのはいいが、言う程の効果が無いので、繰り返し飲むハメになってしまう。
最近、そのせいか胃に違和感を覚えるようになってしまい、美也子はコーヒーを飲む量を減らした。
「失礼します」
ジャージを着た女子生徒が、制服を着たままでうな垂れる女子の肩を貸して入ってきた。
うな垂れている女子の名札の色が青だったので、3年生だとわかった。
またか。
美也子はそう思った。
大学受験の近いこの時期に、体調を崩す生徒は多い。そのほとんどが寝不足から来るものだった。
いくら大学の受験に臨むためとはいえ、病気になり、100%の力を出し切れないのでは、意味が無い。何度も校内で注意をしてはいるが、それでも減ることはなかった。
「体調不良?」
声をかけると、ジャージ姿の生徒が頷く。
時計を見ると、もう少しで4時間目が始まる時間だった。
「いいわ、あとは私が寝かせておくわ。アナタは授業に行きなさい。その格好だと……次は、体育でしょ?先生には言っておいて」
「はい」
そう言って彼女を帰す。
あとは、この娘をベッドに寝かせれば……。
「動ける?」
うな垂れて、顔の見えない彼女に声をかけると、いきなり両手を後ろに回された。
「ミヤちゃんせんせ、来ちゃった」
先程の病人オーラはどこへ行ったのかと思うぐらいに、元気な顔をしたちさ子が美也子を上目遣いで見上げた。
「ちさ子……あ、アンタまさかサボり!?」
「ううん……ちょっと気持ち悪いんだ」
「本当に?」
「勿論」
その顔には、体調の悪さなど微塵も感じられなかったが、少し息が上がっている。熱を含んでいる息はこれまでに自分の家でこの娘から感じたことはあったが、それとは少し違う。
「どうやら本当みたいね」
「自分の彼女を、疑っちゃダメだよ」
「まあ、それなら仕方ないわね」
保健室のベッドにちさ子を寝かせると、カーテンを閉め、足を延ばして座っている彼女の足に布団をかけた。
「ごめんね」
俯いたちさ子がそう言う。
視線を布団に落として、両手を合わせて握りながら、微かに震えている。
これは多分、恐怖だろう。
美也子はそう思った。
1年前、2人が些細なキッカケで付き合いを始めた時に取り決めた約束がある。
『学校内では、不必要に会わない』
『保健室に不必要に行かない』
『学校内でキスをしない』
というものだった。
2人の関係がばれてしまえば、この関係を続けることが出来なくなる。それはお互いに嫌だから、ということで出来た約束だった。
それをちさ子は破ったと思っているようだ。
美也子は、彼女が不必要に保健室に来るのを避けたいだけであって、必要な際に来るのは別にかまわないと思っていた。しかし、ちさ子はそれを『絶対に会わないように』と捉えていたようだ。
病気で精神が弱り、そこに恋という不安定な要素が悪影響を及ぼしたのだ。
「わざとじゃないから、いいわよ」
「でもぉ……」
ぽたり、ぽたりと布団に水滴が落ちる。
「私……約束……破っちゃった……」
大粒の涙を眼に溜めたちさ子が、美也子の顔を見る。
不安と悲しみの入り混じるその表情が、美也子の心に深い愛おしさを抱かせた。
「いいのよ」
「でもぉ……」
今のちさ子には、何を言ってもダメだ。
病が気弱になっている心の隙間に入り込んで、いつもは隠している不安定さを侵して、不安を増大させている。
美也子はちさ子の額に自分の額を当てる。
「じゃあ、こうしたらどうかな?」
少しだけ唇を触れあわせ、そして、直ぐに離れた。
「これで私も約束を破っちゃったから、おあいこ」
にっこりと微笑むと、ちさ子は安心して満面の笑みを浮かべた。笑ったせいで、溜まっていた涙が零れて、ベッドへに吸い込まれていった。
「さ、寝なさい」
「うん」
いつものようにちさ子は頭の上まで布団を被った。
怪しまれないように、その場から出て、美也子は自分のデスクに座る。
先程よりも湯気を出さなくなったコーヒーを飲みながら、窓の向こうの揺れる木々を見つめる。
「今日はもう、誰も来ないで」
言葉に出さず、心の中で呟いて、美也子はコーヒーを口に含んだ。
砂糖を入れた後のかき混ぜが甘かったのか、濃い甘さが口の中に広がった。
少し顔をしかめて、唇を舐める。
舌が唇に触れると、先程のちさ子とのキスを思い出してしまった。
甘い言葉と甘いキス。
自分が今口に含んだこと以上のことをしていたのかと思うと、少し顔が緩んだ。
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