第14話 豪雨の中で
突然、飛来する冷刃が止んだ。
チタムは、やっと、息つぎができた。
疲労し、集中力は切れ、もう泣いて死んでしまいたい。
しかし滋味深い陽光が全身に当たっていた。
まぶしくなったのは、視界を遮っていた深い靄が、すっかり溶けて消えていた。
靄と共に、ラカンも立ち去っていた。
また来るだろう。
やっぱりあの方に仕えるべきなのかも…と、思ったことを、ラカンは見抜いたのだと感じた。
神聖王の元に戻るのが、オレには、心の平安なのだろう。
いや、そうなのだろうか。
すすり泣きつつ、ふらふらと戻っていくと、小屋で、太平楽に大いびきをかいて朝寝坊しているバーツの姿に、なんとなくさらに泣けてきて、殴りたくなった。
それからやっと、ハッと気づいた。
的を片付けていない!! あの絵文字も、命がけで守らなくてはならない秘密だ。
訓練の集合時間も構わず、息せききって戻った。
的は、消えていた。
誰かに見られた! 証拠の品を、持ち帰られた。
痛恨のミス、命取りのミスだった。
今の仲間、属する世界を失う恐怖感が、めまいのようにチタムに襲いかかってきた。
心臓が辛く、チタムは槍ででも打ちのめされたかのように、ドッと倒れた。
その目に、灌木の下に落ちて葉に隠れていた平たい円いものが映る。
見つかって、ほーーーーっと胸をなで下ろした。
まだ、ここにいられる……と、涙声。
ザーッと驟雨が近づいてきた。
「やばい、今日のアタシの講義はここまで!! 子鷲ちゃんたち、総員、今作った瓶を持って待避!!」
訓練場の片隅で、ブルク将軍が大げさなジェスチャーで指示した。
ブルクは青年将軍で、逆立てた短髪、逆三角形の締まった肉体。
割れた腹筋を見せつけるように、素肌に羽織ったロングコートの前を全開にしている。
陶器づくりの実習で、青空のもとで土練りをしていたのだが、
「片ァつけろ!! 大急ぎだ!! なお、カーンとチタムとモオ、作品をバーツに持っていってやれ。見せびらかしてやれよな!」
にやっと言うブルク。
「嫌われそうだけど!」
とチタム。
その間にも雨雲が走ってくる。
五十歩、四十歩、と、雨の幕がずぶぬれに訓練場の土の色を変えながら近づいてくる。
カクパスもカーンもみんな、焼成前の土器に水は、かけたくない。
最速で、細心の注意で
地面に直接接している粘土の瓶の底に、かがんだ姿勢でナイフを横から水平に打ち込んで、くるりと自分が周囲を回ると、台から切れる。
「バーツならふてくされるより、きっと何かを学ぶだろうさ!! あたしゃーそう思うね。ぢゃ!」
長い裾をひるがえし、背中が脱兎と化すブルク。
周囲で他の隊も慌ただしく手仕事の道具や的をしまって、一斉に引き上げの騒動が起こっている。
カクパス隊のチタムたちも、まだやわらかい瓶に指をめりこませないよう眉を寄せつつ、驟雨から逃走。
隊のみながバーツとチタムの小屋まで来たとき、雨はかろうじて二十歩手前。
「はあはあはあはあ、開けるぞチタム!」
「待て、モオ!!」
バーツが心でジャガイモとあだ名していた少年・モオは、チタムの鋭い声にはっと手を引っ込めた。
チタムは厳しい表情で、手を空にした。
地面に放られ、瓶はベシャッとぺちゃんこに。
「知らない気配だ。バーツ!! バーツ!! 居るのか?!」
返事がないのに、中でバタバタッと足音。
「不気味な鳥の声がするわ。ガサガサッて音もしてる」
カーンがかすれた声で、チタムを見る。
「それは鳥だ。あと仔ペッカリーとか。心配ない。でも、他に、気配。下がれ!!」
チタムはカーンを背にかばった。
短剣を取り出し、用心深く構える。
「誰かいる!! 人間が…… バーツではない、人が侵入してるぜ」
カーンを、モオに押しやった。
「チタム、どうする気だ?」
「カーンを安全なところに連れて行け! オレは突入する。中の賊の目的が何か知らんが、危ない。お前たちは、離れてろよ!」
あ、ああ、と、モオがカーンを引っ張って走って後退した。
雨の幕が、遂にその場へ到達して、一瞬で三人とも、ずぶぬれる。
チタムの冷や汗も、滴に混じって泥の地面へ。
小屋の中に居るのは誰か、ラカンの手下か、ラカン本人ということも……。
軽くすっと扉を押し、閂がかかっていないと見るや、バンっと叩きつけた。
「うわあ!」
小さな人影が、チタムの前で吹っ飛ぶように尻餅をついた。十歳にもならない少年が、へへへと愛想笑いをひきつって浮かべ、
「こ殺さないで、だって、今あけるところだったんだもん、だって」
「な、何者だ? お前……、誰だッ?!」
チタムにとっては、昔どこかで見た知り合いの顔のようで、空恐ろしさがせりあがる。
もしも正体がこいつからバレたら。
出し抜けにドッと、息つけぬほど強まった雨粒に、チタムも小屋も蹂躙された。
せき立てるように肌という肌を連打する痛い雨、地面に跳ね返る泥水、茅葺きを叩くやかましさ。
次々に向こうの小屋もその向こうの小屋も、猛々しい雨にずぶぬれになっていく。
崖の下の洞窟で、内側から驟雨の到来を見て、うわわ、とバーツも慌てた。
正座から立ち上がると、しびれに一発、大転倒する。
ゴロゴロと石灰岩質の岩の床面を転がった。細長い洞穴の奥から流れてきている緑の河に、バッシャーン、と落下した。
あっぷあっぷいいながら、流された。
洞穴の河から、露天の河へとさらに落下。命からから、船着き場の杭にしがみつく。
そこで手が滑った。
「ひい!」
船を上げ下ろしする木製のスロープに、これを逃したら一巻の終わりと、水を掻き、水面から這いあがる。
板目を流れ落ちてくる雨に指を滑らせて、そのたびに「ひい!」と悲鳴をあげながら、爪をたて、四つん這いにスロープを岸まであがりきると、
「『鍾乳洞と対話せよ』なんて言われて、従った吾がアホあったでござる! 対話どころか、あやうく殺されかけたでござるよ、鍾乳洞に!!」
岩場の上を、焦って走る。
打つ雨が強い。
額に手をかざして雨を避けつつ、崖の階段を下から上まで一気にあがる。
バーツは素知らぬ顔で出席しようとしたのだが、とたんにブルクに追い出された。『アカブ総団長にアタシがお目玉くらっちまわー。バーツはアタシの指南を聞かないように、下の洞窟で一日正座、な』
バーツのふてくされ顔に、ブルクは
『まあさー、鍾乳洞と対話でもしたら、なんかいいことがあるかもしれないよーお?』
ふざけた口調だったが、もしかして、とバーツはピンときた。
それで鍾乳石の洞穴なんぞに入り込んでじっとしていたのだが、
「違うことで頭がぐるぐるだったでござった! 結局!!」
寮へ走ると、雨を縫ってさえ、大声が聞こえた。わあわあと激しく泣く子供の声。
バーツは眉を跳ね上げ、飛び込むと、
「ポポルか?! どうした!!」
瞬間、チタムが目に入って、バーツはチタムの胸ぐらを濡れた手で締めあげていた。
「貴様!! 弟に何をした!!!」
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