取引17 噂コンフリクト




『……ベイタはそれで、気持ちよく取引できますか? 相手に対して引け目を感じたりしませんか?』


「――はッ!」 


 目覚めると、そこは見慣れた自宅のリビングだった。家具に四方を挟まれた狭い部屋で、厚手とは言えない布団にくるまる。襖を隔てた向こう側で蛍が寝るのが、花野井家のいつもの朝だった。といっても、どうやらいつもより早く目覚めてしまったらしい。


(……夢にまで見るとは、……相当だな)


 まぶたの上から眼球をぐりぐりと指圧し、寝返りを打つ。それでも、頭はやけに目覚めていて、


『……999万円、……アナタに差し上げます』


「…………」


(……。わかりやすく刺さってるな、自分)


 あれからずっと、同じ言葉がずっと頭をよぎる。


(……わかってるさ、俺だって。……でも、仕方ないだろ? 元はといえば、何もかもクソ親父のせいで……)


『そんなことありません! どんな場所でも、ベイタのような優しい人が暮らす場所なら、素敵な場所のはずです』


(…………ッ、あー、もう……!)


 モヤモヤと照れが同時に発生し、混濁した脳内をスッキリさせるべく、大胆に布団を投げ飛ばして起き上がる。洗面所でいつもより多めに歯磨き粉を使い、無心で歯磨きに徹して心を落ち着かせようとするが……、


「……じー」

「ブフォ! ゲホがふぁ!」


 鏡ごしに隅から覗く蛍の視線に気づき、驚きのあまり気管に誤嚥ごえんした米太が激しくせき込む。


「に、兄さん、大丈夫?」

「……がフ、おまえ、……朝から、何……?」

「…………」


 苦悶の表情で返す米太だったが、返答は返ってこない。不審に思って見直すと、蛍はやけに真剣な顔をしてこちらを見ていた。ハッと、米太が察した瞬間、


「……兄さん、あのさ……」

「……お、おう。なんだ?」

「今晩、バイトだったよね?」

「……ああ」

「……疲れて帰ってきた後で、申し訳ないんだけど、……話があるの。……今晩、聞いてくれる?」


 もじもじと後れ毛を指先で弄りながら、蛍が言う。どうして今じゃないのか、と正直思ったが、気を遣える蛍のことだ。色々と考えてのことなんだろう。それより、蛍本人にいつもの余裕はなく、本気で気恥ずかしそうにしている様子が新鮮だ。などと、普段とは異なる妹の顔に感動を覚えつつ、


「……わかった。じゃあ、今晩は……、『人生相談』だな!」

「……違うし! それだとラノベみたいだし!」


 などと軽快な調子を一瞬で取り戻し、いつも通りの賑やかな朝がやってくる。少しだけ米太は夜が楽しみになった。


 が。





「……こんにちわ、花野井くん」

「!?」


 朝のキャンパス内、学生が行き交い、騒がしい空気の中、メリッサの一言で雰囲気が一変した。


『え?』

『……こ、こんにちわ?』

『今、もしかして、留学生から挨拶した?』


 などと、ざわざわと小声が聞こえる中、


「……昨晩はすみませんでした。あの、できれば忘れて頂きたいです」

「え、……まぁ、いいけど」


『『――昨晩!?』』


 野次馬に、わざとらしく言葉を切り取られ、


『昨晩って何!? それに忘れてほしいって!?』

『何それ意味深ー!』

『あ、……ていうかあの人、次郎浴びしてた人じゃない?』

『ホントだ!! え、何!? じゃあアクシデントに乗じて、お近づきになったってこと!?』

『『……ゆ、許せん!!』』


(……あれ、なんだかちょっと怪しい雲行きだな……)


「……そうですか。安心しました」

「あ、ああ。……ええと、すまん。そろそろ行ってもいいか?」


 身の危険を感じた米太が、すり足で退路を模索する中、


「……いえ、実はまだ、聞きたいことがあります。いいですか?」


 メリッサはまだ話したい雰囲気をプンプン出している。むしろ、今までのが前置きでここからが本番な様子だった。どうしようか、と悩む米太だったが、


「いや、もしよかったら改めて……」


『あ、……そういや俺、昨日アイツがリムジンから出てくるの、見たかも……』


 ポツリと誰かが言った一言が、異様なまでにその場に響き。


『ま、マジで!? そういうこと!?』

『嘘だろ、ふざけんなよ!』

『どうする? ……殺っとく?』


(……ッ)


「……すまん! ちょっと、後にしてくれ!」

「え、あ、……花野井くん?」


 群衆の殺意に似た感情が、危険域に達しようとする時、米太は慌てて退散することにした。駆け足で廊下を進むが、後ろからは、


『あ、逃げた!』

『逃げたぞ、追え!』

『とりあえず、最初に殴るのは俺だ!』


(……って、こんなんじゃ、講義にも出られないじゃないか!?)


 びりびりと素肌に感じる危険の予感に、米太の移動は加速する。




「…………米ちゃん?」

「うああああぁああ!? って、根尾かああ!? びっくりさせるなよ!」

「……ごめす」


 ほとんど腰をぬかすくらいに脱力し、物陰に潜んでいた米太が安堵のため息を漏らす。とっくに一コマ目は始まっていたが、この騒ぎではまとも出られそうにもない。スマホで連絡をくれた根尾が律儀に様子を見に来てくれたのだ。


「……にしても、すごい騒ぎになったねぇ。……こりゃー、さぞかしアクセス数も伸びそうだ……」

「お前! まさか、友達を売るのか!?」

「……おやおやー、この期におよんで。……腐れ縁とか言ってたのは、どこのどいつだったっけー?」 

「ちくしょー、この人でなし! 裏切者! マスゴミ!」

「…………ひどい言われようじゃん。……冗談だよ?」

「……タチ悪すぎだろ、お前」

「それはこっちのセリフなんだけどねぇ」


 大げさにため息を吐いた根尾が、目をきらりと輝かせる。


「で? 教えてくれないの? 友達、なんでしょ?」

「……お前、ホントに記事にしない?」

「見くびるなよ。そこまで腐っちゃいないってば。それに俺ら、長い付き合いじゃーん?」

「…………」


(……確かに、高校の時も、借金の奨学金借り換えやら、特待生制度のある大学やらの情報をくれたのは、他でもない、根尾だった。正直、今まで何度も助けてもらっている)


 米太はハァ、と観念してため息をつき、


「わかった。……こないだの事なんだが……」




「……ふーん。……なんというか、らしくない、話だね」

「どういう意味だ?」

「いやさ、まずもって、こんなにもシンプルに『リア充爆発しろ』と思えるような話題だと思わなかったから」

「おい、どこをどう聞いたらそうなんだよ」

「いや、もう全体的にでしょ? ……自覚ないの? 罪だねー、米ちゃん。お金の事ばっか考えすぎて、右脳死んでるんじゃないのー?」

「う……いつになく辛口だな」

「そりゃそうでしょ。てゆうか米ちゃん、わかってる? その話、今後の展開次第じゃ、こんな騒ぎじゃ済まないからね?」

「どういう意味だ?」


 根尾はもう一度、深く深ーくため息をつき、


「……あのさ米ちゃん、さっきの話を聞くに、留学生はきっとフリマだけを目的にしてない。じゃなきゃ監視の目を誤魔化してまで、わざわざ米ちゃんに会うメリットなんてないでしょ?」

「そうか? ……単純に日本のことを知りたいんじゃなくて?」

「だとしても、リスク高すぎない? そういうことなら、もっと安全な方法はいっぱいあるはずでしょ? 素性も知れない、会ったばかりの米ちゃんじゃなくて」

「それは……、そうだな……」

「なのに、彼女は米ちゃんがいい、という。……間違いない。早めに手を引かないと、十中八九トラブルになるね」

「……お前、あの娘が騙してるって言いたいのか?」


 強めの口調で米太が言うと、根尾は首を振って、


「そこまでは言わない。……けど、悪意が無かったとしても、時間の問題だよ。監視がつくことの意味をよーく考えた方がいい。米ちゃんにとって、金額的には捨てがたいかもしれないけど、さすがにこの案件は……」

「ちょっと待った」


 根尾の言葉を米太が遮る。


「……なんだよそれ。まるで俺が全部『お金のため』みたいな言い方じゃないか。お前こそ見くびるなよ、俺はただ……」


 反論しようとして、口ごもる。モヤモヤした気持ちだけが頭を支配して、上手く答えることができなくて悔しい。

 根尾はしばらくこちらを凝視した後、もう一度ため息をついて、


「……ほらね。らしくないって言ったろ?」




 いつまでも講義をサボっていられないので、根尾には講義に戻ってもらった。さすがにまだ噂は沈下していないだろう。この調子だと今日明日は、顔を出さない方がいいかもしれない。


「……シフト、前倒しにできんかな……」


 独り言を漏らしつつ、意識はさっきの会話に戻っている。 


『俺はただ……』


(……わかってる。正直、もうお金なんて、999万なんて俺にはどうでもいい。……ただ、)


 ピコン、とスマホが鳴る。画面を確認しなくても、タイミングだけで何かがわかった。



『購入者からの取引メッセージがあります』


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