第3話 鶏の唐揚げ

 自分もそうなのだが、戦後の日本に生まれ育っていると、戦争というものに対して、イマイチピンとこないという事はあろうかと思う。少し毛色は違うかもしれないが、今回書く内容は「戦争や宗教」というものについて、それがどのようにして生まれるのか「きっかけ」を知ることができるものになる、かもしれないと思い、書いてみることにする。


 どういう事かというと、こうだ。


 鶏の唐揚げという料理がある。一般的には鶏むね肉を切り分けたのち下味をつけ、衣をつけて揚げた料理である。調理方法の違いは多く、塩をベースにした下味をつけたり、大きさをやたらと大きくしてみたり、部位を変えてみたり、衣の粉を変えてみたり、そのバリエーションは多い。


 一般的には弁当のおかずや酒のツマミなどで人気があり、また安価なのもあって、コンビニエンスストアを初めとした多くの店で買うことができる。屋台でもよく見られ、イベントなどを催し、唐揚げで町おこしをしている自治体もある。


 まあ、鶏の唐揚げの説明はこのぐらいでよいだろう。誰もが知る料理であり、食べ物である。


 鶏の唐揚げは、前述したように「誰もが知る料理であり、食べ物」だ。そこに異論はないと思う。


 そして一般的には「弁当のおかずや酒のツマミ」。


 ここから戦争と宗教について書く。


 ところで、自分の知人で「鶏の唐揚げ自体は好きだが、鶏の唐揚げでご飯を食べるのはありえない」と豪語するやつがいる。


 彼曰く「鶏の唐揚げはサクサクしていておいしく、適度な油っぽさもよい。だがビールとの相性がもっとも素晴らしいのであるから、鶏の唐揚げが最も似合うのはビールのツマミであり、それ以上の相性を持つ食べ方はない」とのことだ。


 補足しておきたいのは、彼は決して「鶏の唐揚げが嫌い」なわけではないし「ご飯が嫌い」なわけでもない。また強いて言えば「鶏唐揚げ狂信者」とか「ビール至上主義者」というほどそれらに入れ込んでいるのかというと、そういうわけでもない。


 晩酌はたまにしかしないし、晩酌のときに「必ず鶏の唐揚げがないと嫌だ」というタイプでもない。もちろん目の前にめちゃめちゃおいしそうな「鶏の唐揚げ定食」があったとしても、テーブルをひっくり返して喚き散らすような人でもない。


 どの要素にもこれといった固辞はないが、それでも「鶏の唐揚げでご飯を食べる」・・・言い換えると「おかずとしての鶏の唐揚げ」は認めない、という人なのである。


 おれはかつて、この知人とこのことについて大討論を繰り広げたことがある。おれは「おかずとしての鳥の唐揚げ」を大いに歓迎する派、知人は前述のポジションの通り。


 知人は前述の通り「おかずとしての鶏の唐揚げは認めない」という導入から始まっているので、おれは「鶏の唐揚げがいかにおかずとして認められているか」を徹底的に取り上げることにした。コンビニでも買えるし、冷凍食品として家庭でも業務でも一定の地位があるし、町中華や食堂などでは定食として供されることもあるし、最近はからあげの専門店も増えてきた。子供の弁当のおかずでは定番だし、そのものズバリ「唐揚げ弁当」は日本全国どこにでもあるし、どこでも買える。あとおれがそもそも鶏の唐揚げ大好き。


 この段階で概ね勝利を確信したのだが、その後の知人の反証で、おれは面食らうことになる。知人の反証は以下の通りである。


 「唐揚げが『おかずのポジションにつく』ことが多いのは認めるが、それはおかずとしての唐揚げのポテンシャルが高いからではなく、白米のポテンシャルによるところが大きい。白米と油で揚げたものはだいたい相性がいいので、天ぷらやエビフライ、油揚げなどでも『おかず』になることができる」


 「『唐揚げをご飯のおかずにして食べたい』という場面に対し『唐揚げだけを食べたい』という場面は少ない。

それは前述の通り、白米などの主食ありきの話だから。主食という要素を考慮せず、唐揚げがビールのツマミとしてのポテンシャル以上に、おかずとして高いポテンシャルを持っているという評価には疑問が残る」


 「トロ(まぐろ)はおいしいので好きな人も多いと思うが、それは寿司や刺身など『醤油で食べる』という味付けを伴っているからである。醤油なしでトロだけを食べろとなったら、どのくらい食べられるだろうか?」


 「中国料理では、米食自体がそもそも一部の文化で、それ以外のところでは小麦で作った饅頭でおかずを挟んで食べたりする。日本でもパン食の人は居るだろうし、主食次第で『おかず』としてのポテンシャルが変わるものが『おかず』として適するかというと、自分的にはそれを『そうだ』と断定することはできない」


 「ビールを飲むことも厳密には『食事』と言えるかもしれないが、酒の場合『おかず』という表現はしない。自分は毎日晩酌をするわけではないが、唐揚げはあくまでつまみとして食べているので、たとえ休肝日があったとしても唐揚げがご飯のおかずになることはない」


 ぐうの根もでない反証である。おれは米飯が好きなので「おかずとしての唐揚げ」に何の疑問も抱かなかったが、そう言われてみれば確かに「米ありき」なところは否めない。


 おれは知人に討論について感謝するとともに、自分の「米ありき」な点を振り返った。知人は「唐揚げを『ごはんのおかずじゃない』と口に出すと絶対に場が荒れるので、普段は言わないだけ」と補足した。


 これはもう戦争や宗教なのだと思った。唐揚げをおかずと信じてやまない派閥と、唐揚げをおかずと認めない派閥。世界でなぜ戦争と宗教の対立がなくならないのか。なぜ唐揚げをおかずと認めてくれないのか、あるいはおかずと認めなければいけないのか。ものごとの根本的なところは同じはずなのだが、価値観が、解釈が違うのだ。


 世間では「きのこの山」と「たけのこの里」を派閥争い的に愉しむ風潮があったりするが、個人的にはこういった「鶏の唐揚げ」のような討論こそ、戦争や宗教の種にもっとも近いのではないかと感じた。


 ちなみにこの知人に「やきとり丼は料理として全くアリだと思うが、どうか」と質問したところ「ありえない」との事だったので、この知人とはもうしばらく色んな討論が楽しめそうである。

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