第五話 幽世と現世

 校舎を飛び出した春と佳奈の二人はそのまま学校外に向かうのではなく、校庭近くにある体育倉庫裏にいた。

 周囲に人の気配はなく、校庭の方からは部活動を行っている生徒たちの声だけが聞こえてくる。

 傍から見れば少女たちが隠れて談笑しているようにも見える光景であるが、彼女たちがこれから行おうとしているのは、世界を切り替える儀式。

 春は自身の有り余る霊力を使い、誰も入って来れないように手早く人払いを済ませると、そのまま次の工程に入る。


「人払いは……オッケーだね。じゃあ今から私が幽世への扉を作るから、佳奈先輩は念のために誰か来ないか見張っててくれません?」


「わかったわ。それじゃあお願いね」


 幼馴染であるが後輩という立場のためか、丁寧ながらも砕けた口調の春を特に気にすることもせず、佳奈は了承した。

 それに頷き返した春は人差し指をピンと立てると、指揮者がタクトを振るうようにゆっくりと腕を躍らせ始めた。


 人差し指に込められた霊力が淡い光となって空中に留まると、少しずつ空間に変化が生じ、幽世への扉を作り上げる霊式が構築される。そして霊式を完成させた春は、世界を超えるために必要な霊力を込め始めた。


 春たちがこれから向かう『幽世』とは、本来怪異や霊が住まう世界。

 人が住まう現世の陰であり、神仏郷国でもその全貌を把握していない。

 また判明していることも少なく、幽世は特殊な場所でもない限りは、現世の風景がそのまま反映されていること。そして人々は幽世という世界に住まうモノたちの存在を通常ならば認知することも干渉することもできないということ。


 この重なり合っている幽世の世界というのは、本来なら人が簡単に入り込める世界ではない。だが、幽世自体に住まう力の強いモノたちに招かれたり、引きずり込まれた場合といった幽世側からの接触が後を絶つことがなかった。また特定の条件が揃ったり、死や邪気といった現世でも穢れや瘴気が多く、幽世との境界線が薄い場所から迷い込んでしまうという例外もあった。

 そのため対魔師たちの一部は、幽世に駐在、監視を行い、現世からの迷い人を戻したりなどをすることにした。中には様々な理由から幽世に住もうとする物好きも存在していた。


 話を春たちに戻そう。霊力を注ぎ終えた春の目の前で、白いカーテンのような何かが揺らめいていた。

 このカーテンこそが春がイメージする世界を渡る扉。

 危険な幽世への境界線を扉として具現化させ、人為的に行き来する霊式。

 幽世への扉自体のイメージは人それぞれであり、霊力がある者か通行用の霊式が刻まれた物を持つ者しか視認することができない。


「ふぅ……。じゃあ通行の霊符の作成だけど、私が先輩の分もやるよ」


「さすがにそれぐらいなら大丈夫よ」


「別にいいよ。修行でこの霊符の作成は慣れてるから問題ないから。先輩のサポートは私が立候補したんだから、これくらいはやっておかないと。頑張れば姉さんたちからご褒美貰えるかもしれないし。……それに私の方が先輩より霊力あるし」


「……最後の一言がなければよかったのに」


 ぼそりと呟かれた言葉であったが、佳奈にはしっかりと聞こえていたようで、その感情が読めない目でジッと見つめる。


 そんな佳奈に春は怖い怖いと誤魔化すように笑うと、これ以上は時間がもったいないとばかりに、佳奈の了承を得ずに鞄から予め霊式が描かれた二枚の霊符を取り出して、自身の霊力を込め始めた。

 人差し指と中指の間に挟まれた霊符を真剣に見つめる春の額には薄っすらと汗が滲んでおり、集中していることが分かる。

 真剣な様子の春に静かに首を振った佳奈は諦めて見張りに戻ったのだが――


(ああっ、結局春に霊符を作ってもらってるじゃない!? いくら春が巫女で霊力があるからって、これだけ頼りっきりになるって年上として恥ずかしくないの? だけど自分は霊力豊富だって自慢してるわよね! どうせ私はみんなの中で一番霊力低いわよ。私ができることもそんなにすごいものじゃないし……ううっ。――でもせっかく春が頑張ってくれているんだから、終わったらちゃんとお礼を言わないといけないわね、うん!)


 佳奈の胸中はコロコロと移り変わって、大変愉快なことになっていた。


 元々佳奈は幼少時から喜怒哀楽が激しく、すぐに表情や言葉に出ていた。しかし表情を奪われてからは、表面上は今のような淡々とした言動になっている。

 当たり前であるがその中身はほぼ昔と変わっていない。寧ろ表に出なくなった分、内面では相手の行動に対して様々な感情が洪水のように流れるのである。そんな彼女の真の恐ろしさは、そこから瞬時に必要な部分のみを取捨選択する頭の速さだろう。


 そんな風に佳奈が胸中で一人百面相をしながらも見張りを続けていると、霊符に霊力を込め終えた春は制服の袖で額の汗を拭きながら溜息を吐いた。


「――っし。……先輩、できたよ。一応脱出用の霊力も込めたから、やばかったら先輩の判断で扉を作って脱出してね」


「ありがとう。さすがは春ね」


「ふふん、もーっと褒めてよね」


 さて、何故対魔師たちがこのように幽世を使うようになったのか。

 その答えは単純明快で、一般人にバレないようにするためである。

 元々怪異による事件が起きた際に対処するのは、その付近にいる対魔師が主だった。

 当たり前であるが対魔師一人一人が万能というわけではない。怪異との相性や対処できない事態というものも多々あった。その度に救援の対魔師たちが人目を忍んだり、隠蓑の霊符などを使用して現場に急行していた。しかし、今の情報社会の現代では完全に隠蔽するというのも難しかった。


 神仏郷国が管理している場所に指定して転移することが可能な霊式も存在しているが、好きな場所に移動が可能というわけでない。そのため、そこから現地に向かうとなった時に隠れながら進んでは、間に合わないというケースが少なからずあった。


 その移動手段の問題を解決したのが、幽世を利用した移動法である。

 幽世への移動自体に使用者の霊力が少なからず消費されることになるが、幽世に入りさえすれば一般科学が通用しない世界であり、機械や人の目を気にしなくて済む。

 不便があるとするならば、世界を行き来する際には同じ場所に移動することになるため、突然その場に人が現れたとなりかねないことであった。

 そして先にも述べたように、幽世自体は怪異たち、裏に生きるモノたちの世界であり、幽世にいる間は常に危険が付きまとうことになる。

 幽世に住まうモノたちからしてみれば、対魔師だろうが迷い込んだ人であることには変わりない。


 化かし、驚かし、悪戯し、導き、救い、襲う。


 幽世において、彼らはその性に抗うことはほぼない。何が潜んでいるのか、何が起こるのか分からない。故に幽世は危険だ。それでも対魔師たちは人々を守るためと、危険に飛び込むことを厭わなかった。

 しかし実力がない対魔師たちが悪戯に幽世に足を踏み込んで命を落とさないために、神仏郷国はこの移動法の利用には一定の実力を持つ者のみとし、試験に合格した者のみに霊式の閲覧、使用許可を出した。

 そんな世界を渡る霊式を持っている佳奈たちは、少なくとも神仏郷国が認めるだけの力はあるということだ。


「行きましょう」


 未だ揺らめいているカーテンに向けて薄く霊力を纏った二人は歩き出す。

 通行の霊符は普通の霊式とは異なり、幽世もしくは現世への扉に対してのみ自動的に起動し、所有者を一瞬でもう一方の世界へと移動させる。

 そうして二人がカーテンを潜った瞬間、現世から忽然と姿が消え、二人の認識する世界は一変した。

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