第29話 ばいばい
ハイドが目を覚ますと、身体にひどく痛む箇所が何か所もあった。頭は死んだときのように重く、身体を起こそうとしただけで横腹が裂けるように痛んでいる。
なにがあったかを思い出す前に、目を開ける。
あまりにまぶしい光景に、ハイドは手を顔の前にかざした。
澄み切った空と吹き抜ける風を肌に感じると急に、生きているという実感が湧いてきた。
錆びついたような頭を動かし、いまいる場所と理由を考えようとした。ハイドには、さっぱりわからなかった。
外にいるのに、あたたかいふかふかのベッドで寝ていることもわからなかったし、
自分の置かれている状況も心当たりがなかった。
――ハッ……ハッ、ハッ
かすかな息遣いが聞こえる。人間のものではない。
ハイドは、自分がなにに抱かれて寝ていたのかを知った。
――狼
巨大な白い毛並みの狼に抱かれて、ハイドは眠っていた。
ぱっと見ただけで、ハイドは気づいていた。この大狼を知っている。
スタンピードで無くなる前に住んでいた村で、手当てをしたことがある。
かつての狼は、ケガをしていた。ひどいケガだった。いま、目の前の狼は、それを超えるケガをしている。
マグマにでも落ちて、のぼってきたのだろうかと心配するぐらい、火傷を負っていた。白い美しい毛が焼けただれ赤黒く変色した地肌が痛々しい。
ハイドはまだ、夢のなかにいる気がしていた。きっとまだ、夢を見ている。
ボロボロの狼は自分で、現実で自分が死にかけている。そんな気分になっていた。
いつの日か、再開することを夢見ていた狼は、いまにも息絶えてしまいそうだった。
「逝くな。ひとりにしないでくれ」
眠ったように横たわる狼が、ゆっくりと目を開いた。その瞳は赤く光っている。ハイドを見て、笑ったようにみえた。
――この目を知っている
ハイドは固まった。
「まさか、そんな」
記憶のなかのルイと、目の前の大狼が重なった。
ハイドは、否定したがっていた。そう考えるたび、説明がつくことが多すぎた。
はじめて魔王城で会ったときから、ハイドにだけなついていたことをきっかけに、様々な記憶がよみがえる。
『わふっ。んーとね、んーとねえ。いつか、人間の男の子にありがとうって言いたかったんだよ。おにーさんっ』
『もうルイは、おにーさんに首輪をつけられてしまってるんだよー』
それらがすべて、自分に対する好意であると受け止めきれなかった。
ルイは、ハイドの胸の内側に入り込んでいた。とっくに、ハイドの大事なものになっていたというのに、ハイドは裏切られるのを恐れ、かたくなに応えようとはしなかった。
「……失ってからしか気づけないのか。すまない、ルイ……俺は」
横たわるルイの顔の前で、ハイドは膝をついていた。
狼の姿になっているルイは、かすれた声を出す。
「……おにーさん……あり、がと」
ハイドは胸の内から溢れる感情を、目からも口からも吐き出した。
「ルイ、ね。さみしくて、眠るの怖くなっちゃった。でもね、おにーさんに会えたから……いまはもう、へっちゃらだよー」
「ルイ、どうして……こんなっ」
ハイドはまだ、混乱していた。
ルイは目を細めて笑うだけだった。話しかけたのは、側に立つのを我慢して見守っていたシルフィアだった。両手は、袖の長い服で隠している。
「マスターは、魔剣で刺されました。〝不死殺し〟の魔剣は、刺したものには死をも超える苦痛を。魔剣を抜こうとするものには煉獄の炎を与える魔剣。ルイは焼かれながら、マスターを助けてくれたんだよ」
シルフィアはそれだけ説明すると、さっと立ち去る。いまは、ふたりにしてあげたかった。
同じ思いを共有している魔王城の仲間たちは、全員近くで見守っている。
だれもが、ルイは長くないことを知っていた。ルイを救う方法を試すも、どれもうまくいかなかった。
「ルイ、俺のためにどうしてっ」
「ルイのセリフだよー。おにーさんはね、ルイを助けてくれたの。だから、ルイは助けかえすの。それで、ルイがね、お星様になってもね、ルイだけは満足なんだよ。だって、ルイの大好きなおにーさんをね、助けられたもん。誇らしいんだあ」
言い終えると狼は、全身を震わせた。息をすることさえ、苦しそうにする。
「……おにーさん、ありがとう。いっぱい、ありがとう。ねむくなって、きちゃったな。恥ずかしいから……向こう、むいてて?」
「ルイ、ルイッ。やめろ、やめてくれ。頼む、頼むよ。なんで、俺なんかのために」
「ガウッ」
ルイは白い牙をむき出しにした。
「怒るよ。自分を大事にして。ルイはもう、助けられない。次はシルフィが命懸けで助けちゃうんだよ。だからね、おにーさんはもう死ぬことから逃げなきゃいけないの。……わかった?」
ハイドはただ、頷いた。体の内から溢れるあたたかい感情が、つめたい涙になってルイに降りかかる。ルイの顔に頭をうずめ、声を殺して泣きながら、なんどもなんども頷いた。
「安心したよ……おにーさん、ばいばい」
別れの言葉を返すと、ルイは消えてなくなりそうだった。
それほどまでに存在感が薄くなっている。
それでも、このままルイを旅立たせたくないハイドは、必死に言葉を探した。慣れない言葉を見つける。いままで不要であり、使ったことのない言葉を、はじめて使おうとした。
「ルイ、愛してる」
「えへっ。ルイも」
死がふたりを分かつまで、ふたりの心はひとつであった。
その時間も、もうわずかであることは、ふたりとも気づいていた。
「なっ」
はじめに異変に気付いたのはエルフのニンファだった。彼女にしか知覚できない精霊という存在が、急激に増え、集まり始める。
――歌が聞こえる
精霊が集まり、喜ぶ声。ひとの耳には歌に聞こえていた。
――ハイドの胸にあるペンダントが、輝き光を放つ
「ハイドッ、胸のペンダントをできるだけ遠くへ放り投げてくださいませ! はやくっ!」
「こうかッ」
ハイドはペンダントの首紐をちぎり、言われたとおりに放り投げる。ルイがさみしくないように、頬を力強く撫で続けながら。
「お願い、お願いお願い! いまだけ、いまだけでいいのです。力を貸してください。どうか、あのふたりに応えるために。この場すべての精霊よ、力を種に。目覚めなさい、世界樹ッ!」
――ズズン
地面が揺れる。
ハイドが投げた小さな種。芽吹いた種は、すくすくと成長する。まるで何千年のときを早送りで見ているよう。芽吹いた種が、樹木となり、枝が伸び緑が生い茂る。樹齢四百年を超える大木になったと思えば、さらに成長し、見上げることすらできないほど巨大な樹となった。
「……すごい」
天使はその光景に、口元を袖で押さえながら喜んでいた。
ニンファは、世界樹へと手を伸ばした。
大願だった世界樹が現れたいま、ニンファは喜ぶよりもさきにしなければいけないことがある。
世界樹は大地の生命そのもの。世界樹の管理者がそれを分けてもらうことで、つくれる魔法の薬があった。
「世界樹よ。どうか、その恵みを分け与えください」
世界樹は輝く。精霊を通して、意思をもってるかのようにニンファと対話している。
「わたくしは、あのふたりを助けたいのです。なによりも強い絆を持つふたりが、離れ離れになることは、見たくないのです」
世界樹はふたたび輝いた。ニンファはこめかみに青筋を立てた。
「つべこべ言わず、さっさと寄こしなさいっ! 切り倒しますわよ!!」
世界樹の光があちこちに飛び交いながら、ニンファの手元にひとつの瓶を持ってくる。
「ハイドっ、はやく! ルイにそれを飲ませなさいな」
ニンファが乱暴に投げつけたそれを、ハイドはどうにか受けとった。小さな小瓶に入れられている雫だった。
『弱ってる子にはね、こうやって食べさせると良いんだよ』
かつてルイに教わった方法が、役立つと思っていなかったハイドは、記憶を頼りに瓶を開けると、自分の口のなかに中身を含んだ。
荒い呼吸も弱くなっているルイ。これに飲ませるには、一つの方法しかなかった。
ハイドはルイの大きな口をどうにかこじあけると、乱暴にキスをした。
「ぷはっ」
ハイドは口元を拭きながら、ルイに訴える。
「飲むんだ、ルイ。飲めッ」
最後の力をふりしぼり、生にしがみつけとハイドは叫んだ。
リースメアは見守りながら、エルフに問いかけた。
「ニンファ、あれは?」
「〝エリクシール〟世界樹が誇る、生命の回復薬ですわ」
「あとは小僧次第か」
「……ここでヘマなんてしたら、もう二度と菜園に入れて差し上げませんわ」
「おねがい。間に合って」
天使は祈りを込めた。
ハイドはルイの喉が動いたのを感じた。なんどでも名前を呼んで、なんどでも励ました。
――ルイの体がビクンと跳ねる
もがき苦しむルイを見て、ハイドは薬の副作用か悪い風にでたのではないかと心配した。
――ポンッ
ルイは人の姿をとった途端に叫びだす。
「うわあああああ。まずいよおおおおおおお……なになに、なにーーーーーーーっ。うわあーーーーーん」
口元をなんども拭い、舌を出しながら「おえーっ」と声を出していた。ルイの身体に火傷の痕はなくなっていた。
「ルイ!」
「わんっ。おにーさん、おにーさんっ!!」
ハイドが呼ぶと、うれしそうに鳴きながらルイは走ってハイドを押し倒し、地面をごろごろとふたりで転がりながらも名前を呼び続けた。
転がっていくさきには、魔王をはじめ、みんなが揃っていた。
「あらあら、やけちゃうわね。おかえり、ふたりとも。無事でよかった、ほんとうに」
「おかえりなさい。マスター、ルイ」
「今回は本当にダメかと思ったぞ。われらは、なにもしてやれんかった。許せよ、小僧」
「まったく。あなたが刺されるから、たいへんなことになるのです」
ハイドは地面に膝をつけると、謝った。
「すまん。俺が油断したばかりに」
「ううん。あれは事故だよ」
天使はハイドを慰めた。リースメアはハイドに厳しい目を向ける。
「ハイド、身体の調子はどう?」
「薬をなめたからか、万全だ」
さきほどまであった刺された腹の痛みも、うそのようになくなっていた。
「そう。あなたにとって悪い知らせがあるの。いいかしら」
「聞かせてくれ」
「〝スタンピード〟が起こってる。いま、まさに冒険者たちが戦ってるわ」
「そうか。すぐに行く。シルフィア、準備を手伝ってくれるか?」
「うん。ニンファ、あの薬もらえない?」
シルフィアはハイドに答えた後ニンファにささやいた。
「……あなた、やはり手が」
「そう。うまく、くっつかない。たぶん聖剣の力」
「すぐに準備いたしますわ」
「ありがと。妖精王」
「その名も、久しいですわね」
ハイドは側に立って尻尾を振り続けているルイに言った。
「ありがとう、ルイ。救われた」
「わふっ。お互いさまなんだよ。おにーさん、次は負けちゃダメだよ」
「二度と死んでたまるものか」
「うんっ。いってらっしゃい!」
ハイドはシルフィアの前にいくと、腕を掴んだ。
「すまない、シルフィア」
「ううん。いまだけ。ごめんね、救出失敗しちゃった」
「ありがとう、助けられた」
「あはっ」
心から喜び首を傾げる仕草をするメイドを、ハイドは優しく抱きしめた。
「うれしいな」
いつまでも温かみを感じていたくなるが、そうはいかない。
ハイドは再び戦場へ向けて準備をしはじめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます