赤い狐

こけし。

赤い狐

 ウンウンと唸りを上げオーブンがオレンジ色を発光させて働いている。大理石のL字キッチンカウンターに所狭しと調理器具や食材が並ぶ。料理の腕には自信がある。

 どんなに忙しくても手を抜かない。それが私だ。「頑張りすぎ」自覚はなくても周りからはそんな声をかけられる。手間をかけて時間をかけて愛情込めて作るのは家族の為であり、その家族の笑顔を見たい私の為でもある。だけど完成させた料理を丁寧に盛り付けテーブルにセットし、一輪挿しの角度を僅かにずらしカメラを向けるのは誰のためだろう。

 何枚も何枚もスマホのフォルダに収まっていく写真の中から究極の一枚を選ぶ。どの料理も同じポーズをしているはずなのに。モクモク上がっていた湯気がみるみる細くなっていく。

 我が家の夕飯が誰かの家の食卓に並ぶ事はない。それでも「いいね」が付くと誰かが「美味しかったよ」と言ってくれてるような気分になる。なのに今夜は「いいね」が付かなかった。

 沢山の料理を作ったのに夫は急な会食、娘は受験勉強で部屋から出てこない。

「頑張り過ぎ」な料理なんかじゃないはずなのにどっと疲れが肩に乗っかった。


『お疲れですか?』

 近くで声がした。

 肩の重みは疲れではなく狐だった。赤いチャンチャンコを着た狐が私の肩にちょこんと座っている。


「赤い…狐?」


『左様でございます。母上は何故に泣いていらっしゃいますか?』


 泣いてる?私が?

 頬に手をやると狐はコクンと頷いた。


『母上、温まりませんか?』

 そう言って赤い狐は電気ケトルを指した。

『お湯を沸かしてください。』


 言われるがまま、私は浄水器からケトルに水を入れスイッチを押すと赤いランプが点る。キッチンからダイニングを見ると狐は娘の定位置となってる椅子に行儀よく着席していた。

 手間暇かけて作った料理がテーブルからきれいさっぱり消えている。その代わりに赤い蓋の丸いカップが狐の前とその向かいにひとつ置かれていた。


 やがてシュンシュンと音がしてパチンとスイッチが上がった。お湯が沸いた。

 ケトルを持ってテーブルに向かう。テーブルの上には見慣れた懐かしい赤い容器。


「これって…。」

『はい、赤いきつねでございます。』

 座ったまま狐はニッコリ笑う。

『母上、お久しぶりではございませんか?ささ、お湯を』


 狐はペリペリとふたつの蓋を剥がして小袋を振り入れた。私はゆっくりとお湯を注ぐ。線の内側までそうっと。ああ、この感覚、何だか本当に久しぶりかもしれない。


『母上は慎重派ですね。線にぴったりでございます。さあ、わたくしが蓋を閉めます。あとは五分待つだけです。』


 五分。たったの五分。消えた盛り沢山の料理にかかった時間は?


『母上、今は余計な事は考えないでくださいませ。ただ待ちましょう。美味しい時間をわたくしと一緒に。』


 狐の声はとても優しい。じゅっ、と心に沁み渡る。赤いチャンチャンコが可愛く良く似合う。私は容器を手のひらで囲むように包み込んだ。何だかたった五分が待ちきれない。


 コンッ!と音がした。


『さぁ、五分経過しました。いただきましょう。母上、どうぞどうぞ。』


 蓋を開けるとモクモクと湯気が上がる。お出汁の匂いをダイレクトに吸い込むと思わず「美味しそう!」と声が出た。

「いただきます」と手を合わせるや否や私は割り箸を手にしてデンッと存在感を見せるお揚げを箸でジュッと下に沈めた。そして平らな麺を掬い上げて豪快に啜った。

 

 あったかい。美味しい。そして、お揚げの端を小さく齧った。身体がホカホカとしてくる。湯気の向こうに赤いチャンチャンコが見える。


『変わらんねぇ、あんたの食べ方は。一回お揚げを抑えて沈めた方が旨いって小さい頃よう言うて食べて。』


 え?チャンチャンコから上が湯気で見えない。あの話し方、あの赤いチャンチャンコ。

 あれは私が母の還暦にプレゼントした赤いチャンチャンコによく似ている。去年亡くなった母のチャンチャンコに。


 湯気が薄く散る。そこに居たのはやっぱり赤いチャンチャンコの狐だった。狐は笑った三日月目のまま、赤いきつねを食べている。


「お母さん?」


『はい?何でしょう。わたくしは狐のどん兵衛と申します。残念ながら。』


「どん兵衛さん?そうですか…とても、美味しいですね。あなたと食べる赤いきつねは。」


『母上がいつも頑張ってるからですよ。ご褒美です。さぁ、冷めないうちに。』


 もう殆ど残っていないうどんを食べ、最後にとっておいたお揚げを吸うように食べる。

 ジュワっと広がる優しい気持ち。狐のどん兵衛さんの話し方によく似てる。湯気の向こうに幼い頃の我が家のコタツが見えた。

 家族四人で座り、赤いきつねを笑顔で食べる小さな幸せの夜。共働きの母はいつも自分の時間を割いて手の込んだ料理を作ってくれていた。そんな中、時々自分へのご褒美と言ってどん兵衛の日があった。

 私はそれが嬉しかった。赤いきつねをみんなで食べることも嬉しかったが、母にちゃんとご褒美がある事も嬉しかったのだ。


 頑張ってるからですよ。


 狐の声がした。

 顔を上げるともうそこには何も誰も居なかった。赤いきつねもない。冷めた私の料理が綺麗に盛り付けられ並んでるだけだ。


 だけど体は温かく、心もポカポカとしていた。あの赤い狐は本当にどん兵衛という名だったのか母だったのかもわからない。そもそも本当に居たのかすらも。


 ふふっ、と笑みが漏れた。明日の夕飯は赤いきつねしようと思った。夫も娘もきっと驚くだろうな。

 そう思っているとスマホの通知ランプが灯った。見ると「いいね」がついている。投稿したページを確認すると…

 さっき投稿した自作の料理が並んだ写真ではなく私が豪快に麺を啜る写真だった。美味しい顔はきっとこういう顔なんだ。

 私が料理を作る理由。頑張る理由。頑張ってることを認めよう。


 だから明日はやっぱり赤いきつねだ。

「よかったらどん兵衛さんもまた来てね、一緒に食べましょう。」

 窓から夜空を見上げて私はそう呟いた。



 

 

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赤い狐 こけし。 @utau_miyu

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