外伝 3.自由
外伝 3.自由 その①:君は『唯一神』を愛するように『自由』を愛せるか?
ラビブ神父が部屋の扉を開けると、その部屋の中央で拘束されていたナタリーが周囲の異形たちを睨み付けるのを止めて驚きで眼を丸くした。そして、何故ラビブ神父がここへ居るのかという当たり前の疑問に行き着き、眉根にシワを寄せる。
そんな彼女の様子を見たラビブ神父は、ひとまず怪我なく無事であることに安堵のため息をつき、革靴の底をつかつかと鳴らしながら部屋の中へ踏み入った。
「君達、もう行っていいよ。君達の
「――神父様! どうして、このような
「こらこら、暴れない暴れない」
ラビブ神父は、優しく諭すように言いながらナタリーの拘束を解いてゆく。それを見て、周囲の異形たちは慌てふためき尻尾を巻いて部屋を出ていった
「ここで暴れることには何の意味もないよ。それは信仰心ですらない、ただの子供の癇癪だ」
拘束を完全に解き切った時、もう部屋の中にも外にも異形の気配はすっかりなくなっていたので、ナタリーは諦観まじりの落ち着きを取り戻していた。
ナタリーは拘束されていた部位を擦りつつ立ち上がり、正面からラビブ神父を見詰める。
「説明は、頂けるのでしょうね? 場合によっては……」
「場合によっては、なんだい?」
「……神父様を異端審問にかけざるを得なくなるやもしれません」
ラビブ神父はそれは困るとばかりに肩を竦めた。あまりにも真剣味に欠ける
「悪かった。そう怒らないでくれ。全部説明する。彼らのことも、ルゥのことも」
「貴方のこともです!」
「分かっている、分かっているとも」
泣く子を宥めるようにナタリーを黙らせたラビブ神父は、不意に居住まいを正し聖職者たる威風を纏う。すると、自然とナタリーの背筋もピンと伸びた。
「時にナタリー。君は国教会の教えをどう解釈しているのかね?」
「どう、とは」
「ふむ、少し漠然とし過ぎた問いだったか。では、こう聞き直そう。君は国教会の教えに意味を感じているかね?」
それは極めて危うい問いだった。到底、聖職者の口の利き方ではない。この時代、この国で国教会の教えに背くということは、野卑な蛮人であることを世間に知らしめるが如き行いである。
「……当然です。お言葉ですが、神父様。その問い方だと、神父様はそう感じていないようにも取れてしまいますが」
「うむ。その通りだが?」
「っ――今すぐ訂正してください!」
ナタリーは腰の杖に手を伸ばそうとして、異形たちに没収されていたことを思い出し、ばつが悪そうにぎゅっと拳を握りしめる。
杖はない。だが、ナタリーは
そんじょそこらの人間なら、
「君は、神を信じるか?」
「その問いの意味が分かりません。誰もが『信じている』と答えるでしょう」
即答しながらも困惑するナタリーに、ラビブ神父は続けて問う。
「では、その神とはどのような存在だ?」
「……
今度は少し間を置いて出された答えに、ラビブ神父は深く頷いた。
「そうだろうね。人を愛し、人に愛される。――まあ、なんとも実に都合のいい存在だね」
神経をヤスリでもって逆撫でするような言葉に、敬虔な信者であるナタリーはかえって怯んでしまった。眼の前にいる彼は、本当に自分の知るあのラビブ神父なのか、ナタリーは自信が持てなかった。
物心のついた時から孤児院で寝食を共にし、学院を卒業してからも王党国教派として教えを請うてきた相手の思いがけぬ一面を見て、ナタリーの心は激しく打ちのめされていた。
ナタリーの信仰心は、それこそ子が親の振る舞いを見てそれに
「やめて……やめてください……! その口で、神を否定するような言葉を吐かないでください……!」
「勘違いを正しておこう、万物の造物主たる創造神は実在する」
ラビブ神父は、いつも孤児院で子供たちへ話しかけるような口調で滔々と語り出す。
「それは、人間の歴史よりも遥かに長い時を生きた複数の魔族がその眼で見、その耳で聞き、その鼻で嗅ぎ、その肌で感じたと証言するのだから、まずもって確かだろう。しかし、国教会の言う『
「しかし、教皇猊下は『
「そんなものは嘘っぱちだ。大体、その言葉が真実であると誰が保証するというんだい? 他ならぬ『
「き、ききたくない……!」
「ナタリー」
耳を塞ぎ対話を拒むナタリーの肩を掴み、ラビブ神父は優しく囁いた。
「――それで良いんだ」
「えっ……?」
「紛い物で良いんだ。むしろ、悪いことがあるかい? それで、人間が幸せになれるのなら上等じゃあないか」
そう言ってラビブ神父が浮かべた笑顔は、この上ないほど慈愛に満ちたものだった。それを見て、「ああ、やはり」とナタリーは確信を得る。
やはり、この人は尊敬に値する人である、と。
そして、ナタリーはラビブ神父の語る説教の続きに耳を傾ける。
「歴史の話をしよう。国教会では好まれない、
ラビブ神父は、先程まで異形たちが使っていた椅子の一つに腰を落ち着け、ナタリーにも座るよう促す。
「かつて、化外の跋扈する古代には、絶対的な『
「俗に言う
「その通り。人間は虫ケラに等しい存在でありながらも、一定の秩序のもとでささやかな文明を育んでいた。しかし、その時代も突如として終焉を迎える」
ナタリーがいつかの神学の授業を思い出したところを見計らって、ラビブ神父は続ける。
「事実は聖典の記述とは異なる」
「では、なぜ
「それは、さる七名の高位魔族が結託し魔力素の独占を目論み、虚数次元に実体のある
ここからの話は、生憎と魔法的な知識に乏しいのでそっくりそのまま学者の受け売りになるが良いな? と断ってからラビブ神父は続ける。
「無事に
「魔力素のみを? それは【
ナタリーは、今度は学生時代に受けた授業を思い出していた。
「ああ。それもその筈、
〝人界〟と〝魔界〟が分かたれてから数日のうちに、
では、なぜ昨今の
ランプの構造が分からずとも、スイッチの入れ方さえ知っていれば夜道は照らせるのだから、
ラビブ神父は、逸れた話題をもとに戻そうと咳払いして間を入れた。
「コホン……それで、なぜ魔力素のみを通すようにしたかというと、当時の〝人界〟には空気と同じように魔力素が世界中に満ちていたからだ。そこに新たに作り出した
「筈……ということは、そうはならなかったのですか?」
「現在、自然界において
それは迂遠な回答だったが、ナタリーはその言わんとするところを敏感に察した。何か予想外のことが起こり、〝人界〟の魔力素がすっかりなくなってしまったのだと。
「七名の高位魔族たちには一つ大きな誤算があった。それは
「
「創造神は、我々の一人一人、砂粒の一つ一つを手ずから作った訳ではない。その原型となるような存在――
それにより、何かしらの被害を蒙ったのだろうとは理解できるが、
「つまり……
「良い線を言っている。だが、破壊されたのは
当初の予定では、独占といっても全体の魔力素の数十分の一程度を時間をかけて少しずつ掠め取っていこうという考えであり、〝人界〟の魔力素を全て独り占めにしてやろうなんて大それたことは思ってもみなかった。
なぜ、量を抑えたか。それは、人間以外の生命にとっては魔力素こそが空気であり水であり食糧であり力そのものでもあり、何をするにも欠かせないものだからだ。そんなものを奪われれば、誰しもが死物狂いで抵抗するだろう。
全世界を相手にして勝利できるとまでは、彼らも
しかし、そんな置きに行くような身の程を知る計画も、
産めよ、増えよ、地に満ちよ――。
「魔力素の容れ物としての役目しか期待していなかった
「……いえ、私程度では全く想像もつきません」
「虚数次元は、完全に物質や圧力の存在しない状態――物理学者が言うところの『絶対真空』に似た状態だと言われているが、現実に起こった事象を鑑みると――」
「すみません、『絶対真空』……? そういった一般学問には疎く……」
「不勉強だぞ、ナタリー。まあいい……さっきは魔力素を水に例えたが、その続きでいうと水を貯めていた容れ物に穴が開いたようなものだ。それも、特大の穴が」
ナタリーは、水筒の底が抜け落ちて中の水がそっくり地面に落ち、ばしゃっと広がる様を想像した。
「君が今想像したような穏当な結果に終わった訳じゃないことは、僅かに残る史料と当時を生き残った魔族の証言で分かる。恐らく、虚数次元は無ではなく極大の負の圧力をもった何かで満ちているのだ。その吸引力は凄まじく、世界は正に天変地異の様相を呈した。神学用語でいう『
大気や物質中に含まれる魔力素が一斉に
人間と異なり、魔族や魔物は身体の中にも多量の魔力素を多く含んでいた。というのも、彼らからすればそれが普通であり、人間が例外的な存在なのである。
魔力素の争奪戦からいち早く離脱する方向へ進化した人間は、それゆえにか弱く、だがそれゆえに『
天地は
その後の〝人界〟に残された生命体は、人間の他にはほんの僅かな魔族と魔物だけだった。その大半が魔力素の消え失せた〝人界〟に適応できず干からびて死んだが、そのうちの少数の魔物が魔力素依存から脱して今の『獣』の元となり、また少数の魔族が人間に混じり『
「魔族・魔物の大半は
「ちょっと待ってください。聞いていると、それではまるで今現在の〝魔界〟というものが全く成立し得ないように思えるのですが……そこからどのようにして今のような形に収まったのですか?」
もっともな疑問である。ラビブ神父は出来の良い教え子の的を射た質問に頷き、用意していた答えを述べる。
「壊したのも
多くのものが死に絶えた。文明は途絶し、技術は失われ、信仰は光を失った。
だが同時に、多くのものが生まれた。新たな文明、新たな技術、新たな信仰。
それらは、先述の通り境界と共に
「――これは私見だが、今語ったことは歴史的な偶然の結実であり、善悪で語るようなものではないと思う。だが、民宗派はそう達観しては見られない。言ってみれば、私たちの言う『
「つまり……〝人界〟と〝魔界〟の
「その通り。
その気になれば、〝人界〟に来ることもできる高位魔族たちが〝魔界〟に引き篭もる理由は、自然界に魔力素のない〝人界〟が生存に適していない事と、苦労してまで行くほどの旨みが〝人界〟ないからである。
その前提を全てひっくり返してしまおうというのが民宗派の掲げるお題目。
もう一度、両世界間に
「なるほど……では、彼らが『指輪』を探していることや、
「ああ。件の
己の存在――より正確に言うと、己の
これは現代の〝人界〟においても頻繁に利用される個人認証である。あらかじめ
「現代の〝人界〟にもある
彼ら
「当初、民宗派は七つの『指輪』を集めて
「どうしてですか?」
「どこにあるかも分からないものを七つも揃えられる訳がないじゃないか。むしろ、『
「もう分かりますよ。
ナタリーの言葉にラビブ神父は深く頷く。
民宗派は、『指輪』の不足分を補うもう一つの鍵である
「しかし――」
ここで、ナタリーの脳裏に一つの疑問が顔をもたげた。
「そう都合よく
「そうだ、普通に考えたら無理だ。しかし、民宗派の擁する『天才』――偉大なる
「量……偽装対策ですか」
少量ならば手間暇かければ、
「ああ。加えて言えば、その『天才』によって〘
とここで、ラビブ神父はパンと手を叩いた。これはいつもの説教が終わる時の合図だ。ラビブ神父は少しだけ雰囲気を弛緩させながら、同じく肩の力を抜いたナタリーに問いかける。
「ここまで聞いて、君はどう思った? 何を感じた?」
「……やはり、民宗派の行いを許すことはできません。時代錯誤の信仰に固執し、それに我々を巻き込もうとする態度は独善に映ります」
「そうか。しかし、それは国教会も似たり寄ったりではないかい?」
ナタリーは返答に窮した。そもそもの話をするなら、始めに侵略的なまでに信仰の押し付けを行ったのは国教会である。
「なのになぜ、我々は良くて彼らは駄目なのか」
「そ、それは……」
「その心こそ独善である。ナタリー、いいかい?」
ラビブ神父は、ナタリーの両肩に手を添えて再び聖職者たる威風を纏う。
「『汝の敵を愛せよ』――敬意を払え! 彼らの文化と信仰を知り、尊重し、敬愛し、その上で――我々の幸福にとって障害となるから潰す! そのエゴイズムを努々忘れることなかれ」
ある意味では開き直りとも取れる喝破であるが、それは確かにナタリーの心に深く響いた。なぜなら、それは彼女の愚直な信仰心とままならぬ現実との折衷を貫く、実に都合の良いおためごかしだったからだ。
くらくらするような薫陶に酔うナタリーから離れ、ラビブ神父は自分に続いて部屋を出るように促す。
「行こう。そろそろ、向こうも終わった頃だろうからね」
「向こう……とは?」
「ヘレナ君とリン君の方さ。恐らく手酷く振られていることだろうから、慰めてやらくては。――ああ、そうだ。紹介もね」
「紹介?」
ナタリーは疑問を感じた。顔合わせなら、とっくの昔に済ませている。それも、ナタリーとヘレナは他ならぬラビブ神父の引き合いによって面識を得ているのだ。
それをなぜ改めて紹介することがある?
そんな彼女の疑問を先読みしていたかのように、ラビブ神父は不敵に微笑みを湛えながら振り返った。
「――君は『
触手の魔女・外伝 3.自由
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