04. 黄昏の冒険譚
二羽、軽鴨が水面を渡る。
流水を逆上っている。先の黄色い灰黒のくちばしで、河面を穿ち、苔を食んでいた。
「よし、乗った」
一羽、水面から飛び出た白岩にようやっと辿り着くや、必死の毛羽繕いをしている。次の岩にも泳いでやろうと、念入りにしているようだった。
もう一羽は遅れてやってくる。すぐに「ふへ」と赤い脚を羽毛でくるみ、日照で
暫くして第一羽のほうがとんだ。第二羽は大儀そうに伴ってゆく。
また逆らって泳ぐ、幾度か負け流されても改めて進む、これまで進んだぶんが無駄になるほど流されて、なおも進む。次の岩は遠い、けれどトチ狂いのように進む。
不意に一羽が旅路を分かった。第二羽の方である。それは流れに従っていくので、あいつめ諦めたなとロードは気にくわなかった、けれど事情は違ったらしい。どうやら彼の追随の旨は失せ者探しだったようで、行く先に一羽別の軽鴨がいた。
これで一羽目の鴨は独りになった。そのうえ、ある小さな岩の上に宿り止まった。
ロードは見るのをやめてしょぼくれ、馬車の、轍を踏みならす音だけする。
「ふふっ」
愛らしい笑み声が隣で漏れた。
「何さ、レシー」
問えばレシーはより笑んだ。
「だってロードが面白いんだもん」
「面白いって、何のことさ」
「鴨さんたちがさっき、ピョコッて……ふふ」
「……」
「そう、ピョコッて飛び乗ったときね。ロード、『よし』なんて言っちゃって。本当に嬉しそうだったのよ」
そうやって、「鴨さん」なんて物の言い方で恥じたりしない彼女だった。
「レシー、僕はちょっと真剣だったんだ」
「そういうところだよ~」
「そうっ」
ロードはもう、まるっきり、不機嫌になってしまった。鴨たちの英雄譚、というよりは冒険譚を期待していたのである。馬車に揺られつつその行き先まで、窓からゆったりと眺めていたかった。けれど例の二羽目などフレームアウトして、破綻してしまった。
「……鴨か」
ロードはひとふし感情のまま、
「あれ、お客さん。レコーダーなんて持ってらっしゃるんですか」
「え?」
「ああいえ、すみませんね。辺境のお客さんが使ってらっしゃるの、珍しくって」
「はあ……」
御者の言っていることがわからなかった。
真横でレシーが胸を張った。
「フフン御者さん、今のはロードが歌ったのよ」
「ほほぉ! そりゃお客さん、歌がお上手ですなあ」
「え? 僕が、ですか?」
「ええそりゃもう」
「ねえロード、もう少し歌ってよ」
照れ、怖じた。けれど黒髪の乙女を前にして、彼はくすりと笑い、それから穏和な声音で歌い紡いだ。彼女の唇はそれをそらに口ずさんで、ふるりとするのがまた愛らしい。
以後歌い歌い、涼しい川沿いをもう数里行って御者は、「残念ですが別の狩人に引き継ぎますんで」と名残惜しんだ。人好きのする男であったし、事情を知らぬぶんだけ和やかだった彼を、二人もまた惜しんだ。それで両手握手を深々して、「きれいどこ二人、若いっていいなァ」と温和にした。
「あー来た来た、あの馬車ですよ……おぅい!」
御者が呼びかける方を向くと、山の夕映える方から、斜面をのぼってくる馬車が一台ある。
「あれが次の……」
「ありゃ驚いた」
そこで、彼は呆けながら漏らした。
「どうされたんですか?」
「いやお客さん、あの人ぁ大モンですよ。私みたいな兼業狩人とは比較になりません」
「大モンってなにー?」
二人してつま先立ちし、彼方の御者台に座る大モンを見た。けれど田舎者と世間知らずであるから、皆目見当がつかない。気のいい御者だけは、近づいてくるぶんだけ息を呑み続けた。見る限り体格のいい男らしい。
「そうか、テレビがないんだもんなあ……でも噂くらい聞くでしょう」
言い切られたころ、馬車は少し遠くに止まり、その男はヒョイと下りた。近づいてくる、すると特徴が分かる。
無造作に整えられた茶髪と、陽気そうで青年的に若々しい顔立ちと、そして銀色のネックレスが殆ど決め手である。彼は営業スマイルというより寧ろ、朴訥なくらい元気にイッと笑う。
「ありゃあ」
もう一人、長身に隠れて伴われているのが見えた。
美人だった。白金の鮮麗な髪は焼け空を返照し、白金の清淡な瞳は茫としながら銀河である。柄まで無色透明の剣は、彼女の一挙一動に応じ、濃い夕明かりを滴のようにすべらせた。ロードはその物憂げなる揺らぎ様ゆえ、半ば耽美した。
「お疲れ様です。引き継ぎで参りました、リシオンです」
「補佐のスピナ・アリスです」
ロードはついに「アッ」と漏らした。レシーは独りおいてゆかれ恨めしげに、彼ではなく謎の二人を睨めつける。女が恨むのはいつも浮気相手らしい。
イーとわんぱく坊主の呻きを出すくらい、それはそれは、恨めしげにした。けれどロードは瞳を粒のように煌めかしてしまって、無邪気な子供そのままで感嘆音を慎まない。
リシオンは時間がない体で気のいい御者を急かし、事情を気にされるので、「すみませんが機密でしてね、好奇心は猫も殺しますよ」と忠言した。書簡諸々受け渡しあい、名刺交換諸々済ませ、とかく諸々して馬車に急いだ。居心地が悪かった。
夕色が山際に圧されていく。そろそろ濃桃色になり、燈色まで黄昏れる。
「ただいまァ」
「……ただいま」
「ハイ、おかえり」
「……?」
馬車に戻りリシオンに習って言う、するとこのように返されるので、スピナはやはり茫としたまま、けれど仕草は不思議気に俯いた。どうやら算数的な思考をしているようで、口元に丸く手を被せながら遅々と悩む。
これが不意に顔を上げた。
「おかえり?」
「ハイ、ただいま」
ただいまとおかえりの数が釣り合わない。スピナはいっそう思案した。
「こういうのは言っちゃうもんだから」
御者台に上り軋ましながら、当時十七才、まだ若干子供げのあるスピナに破顔を向けた。ここで嫉妬深い女神は、彼女の微かに色づく頬を目端にとらえ、ひとまずの安心をした。
「……失礼します」
ところがスピナは物言わず、ロード少年の前に姿勢よく座った。温かい光の中に映える姿は狩人と呼びがたく、彼はまた耽溺した。そうなれば嫉妬深い女神は、先刻敵ではあるまいとした彼女のことを、勢いよい掌返しで強睥睨する。
「あの、スピナさん」
「……はい」
「えっと」
「……」
「父は、どこでしょうか」
いっぽう少年はスッカリ萎縮してしまって、ついに親を話の口実にした。彼は貧村の都合、若い女性というものにまったく、まったく以て免疫がないので、女神の御前でありながら真っ赤になった。
「申し訳ございません、機密です。ご無事なことは、確かです」
「すみません、ありがとうございます」
「いえ」
会話が締まった。丁度「あいやっ」とリシオンの、馬を鞭打つ大声、車輪が土を踏みならしだした。
レシーはここで拍子をとらえる。
「ロードっ」
「な、なに」
ところでロードはこの旅程を経てなお、彼女の一挙手一投足に一分の免疫も得られなかった。淡然に努めるけれど、なにせ相手がその道の神であるので敵わない。真横で茶目っ気たっぷりにはしゃがれると、心臓は気軽に跳ねる。彼は横を向かぬようにした。
「……なに」
「呼んだだけ」
「……」
「ろー、どっ」
「もう、何――」
耐えかねて見向き、息を止めた。彼女の小さな顔、夏空ほど澄む水色の瞳が、肩に乗るほど間近にあった。
「……」
「……勝った」
「勝ったって、何さ」
寿命を半ば持って行かれる心地で息をついた。レシーはむろん、ちょっとした闘志をうまく発散して満足げにしている。
これを御者台にてリシオンは、「厄介にも程がある」と烈しく嘆息した。
「そうだ……あのすみませんっ」
かように懊悩していたところ、声がかかるので後ろを見やった。
「はい、如何なさいましたか」
「えェ――……」
ロードは怖じ気と照れ気交々にして、人差し指で眦あたりを掻きおろしながら暫し以上ものを言わない。
リシオンは深く黙しながら、その性分を察し、年長者なりに言わねばならないことを数個見つけた。お節介に自制をかけつつも、いまより会話をするので、屹度滲み出るだろうと憂鬱だった。
「……」
「いったん停めましょうか」
「あァいえ大丈夫です、本当に」
生粋の田舎坊主をみな黙って見つめた。
「すみません、やっぱりお仕事中ですし」
「まぁまぁ、勿体ぶらずに」
言いつつ女神様の視線を気にした。英雄も、彼女のお目付は御免被りたい。
「じゃあ…………お二人とも、あとで握手を」
結局このような用事であった。嘆息は堪えた。
「まぁ、俺は馬走らせてますから、あとで」
「ありがとうございます! ……えっと」
「はい?」
「狩りだけじゃなくて、御者も出来るんですね」
「エ――……まぁ、君子六芸、礼楽射御書数って言いますからね」
果たして、この約束は夜も更けたころに成立された。場所はちょっとした民泊である。その玄関でロードは、風に聞く英傑二人の手を必死に握った。宿屋の女将と子供たちも便乗するのが、かえってリシオンの安寧になった。
二人は泊まらず馬車の側に宿って監視をした、何ぶん建物の中は得物の都合が悪い。けれど夜も八月の酷暑、綺麗でない虫の音が耳に障り、いやな汗をかくので気分がいっそう捻れていく。リシオンはつい呻いた。
「どうする、あの子」
「……あの子?」
「ロード君。意思疎通していけねーぞ、ありゃ」
横に座るスピナは丸い目をした。リシオンはそれをすぐ看取した。
「スピナちゃんは別にいいんだよ、付き合い長いから」
「……長いですか」
「いや、三年ぽっちだけどな……そのあいだ毎ッ日
「今日も、いいですか」
「おう。一日一回特例なし、いつも通りスピナちゃんの好きなタイミングで斬り込め」
「仕事中ですよ」
「あ、確かに……やっぱなし」
「……」
「それでそういう顔するのはどうなん?」
まったくの無表情を、やはり看取した。
「で、ロード君は……ありゃ出自の都合かね、拍子が合わん」
「拍子?」
「話のテンポっつーか……そりゃ、雇われてる俺たちが擦り合わせるべきなんだろうよ。にしても全然合わせに来ないんだ、しかも何だかな、下手とかじゃなく自覚して無さそうだ。遠いはずの女神様のほうが、厄介ではあるが、よっぽど話せる。
こりゃ先々に大支障が出かねん。コミュニケーションの取れない相手守れってのは、正直、龍狩りよりも至難だ」
「世界が狭い」「見えてない」等々脳裏に単語を山積していたけれど、丁度よく辺りの虫の音が鈴虫気味になるので、冷静な論考と遠慮の気になって言わなかった。感情の棘立つところはひとまず抑え込まれた。
スピナはといえばリシオンの言を反芻して、また轟轟と悩んでいる。彼にとって収拾を付けるのは簡単であるけれど、年長者の意地で言わなかった。小利口な真似は好かない。
「ロード君は、真面目だと思います」
少ししてこのように言った。
「うん、分かる」
「それと……」
「……」
「すみません」
「大丈夫だから。いくらでも待つよ」
沈黙が暫くする。
「……ロード君は、優しいです」
「うん、分かる」
「でも……」
「ん」
「何も、決めてないです」
「そういうことか。今ので納得した。それなら俺たち大人が付き合って然るべきもんだな」
スピナはもう一度丸い目をした。その丸い目でリシオンが立ち上がるのを追いかけると、ぼやけのない明瞭な満月が浮いている。鉄や夜露に似る冷光を零し、干上がった夏を空から潤すようだった。
彼がそういう月を背後にするものだから、安寧の化身じみて、彼女が彼女に見つめていることを気付かせるまで暫くかかった。
「どした」
物言わず目を逸らせば、彼は常通り何も言わず、人懐っこく笑うばかりでいる。
スピナは己の二つ名を想った。そんなとき、彼が月光を撫でるように愛でるので、居心地が悪くなる。
「陰口に付き合わせて悪かった」
「いえ……あの」
「フォローしなくていいよ。陰口は陰口だから。俺はやなやつなの」
「いえ」
アクラは不思議な心地になって、「何で二人だけの話が出て来るんですか」と率直に尋ねた。するとロードは苦笑して、「ひどく耳がよくてね」と吐き、それ以上何も言わないので相槌しがたくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます